王子様なんて現れない
9
カイルは庭師の息子だ。
父親は伯爵家に住み込みで働く庭師をしていて、カイル自身も伯爵家の小間使いのような扱いだった。伯爵も伯爵夫人も、お世辞にも良い人とは言えず、雇用主としても最悪。貴族という生き物はここまで意地の悪い生き物なのかと齢一桁にして痛感したのだが、彼らの一人娘であるクリスティは驚くほど彼らとは異なる存在だった。二つか三つほど年下の彼女は、輝く銀色の髪に透き通った翡翠の瞳を持つ儚げな美少女。高圧的な態度と意地の悪い言動で使用人からすこぶる嫌われている伯爵夫妻と違い、誰に対しても分け隔てなく優しかった。本当に伯爵夫妻の子供なのだろうかと疑ったことは、一度や二度じゃない。
天使のような彼女は、見ていて可哀想になるぐらい孤独で窮屈な生活を強いられていた。ゆくゆくは高位貴族に嫁がせるためだったのだろう。朝から晩までみっちりと授業が詰め込まれ、娯楽も友達と遊ぶことも禁じられていた。いわばそれが彼らなりの「教育」だったのだろうけれど、それが彼女のためであったかは甚だ疑わしい。少なくとも、伯爵夫妻が娘に愛情を注いでいるのを見たことはない。少しの粗相で何時間も怒鳴りつけ、娘の態度に気に食わないところがあれば食事を抜くような姿は、とても良い親だとは思えなかった。
そんな彼女を心配してたまに伯爵の弟が様子を見にきていたけれど、辺境に住む彼が頻繁に訪れることはできず。それに、彼が住んでいるのは国境沿い。いつ隣国が攻めてくるかもわからない緊迫した状況の中で、彼が自分の元へと姪っ子を引き取ることはできなかったらしい。
俯いて伯爵夫妻の言うことを従順に聞いている様子を、カイルは見ていることしかできなかった。伯爵令嬢である彼女と平民である自分とでは身分に差がありすぎる。自分から話しかけるなんてできるはずもない。見ているしかできないし、同じ屋敷に住んでいるとはいえ接点なんてできるはずもないと思っていたのだけれど。同年代の友達がいない彼女はよっぽど話し相手に飢えていたらしい。伯爵夫妻がパーティーへと出かけたある日、ガゼボの手入れをしているときに唐突に話しかけられた。
「あなた、庭師の息子でしょう?」
「へっ……えっ!?」
「私、この家で一番お庭が好きよ。いつもお手入れしてくれてありがとう」
ニコニコと微笑みかけるクリスティはとんでもなく可愛かった。俯いて何かに耐えているような横顔しか見たことがなかったのだけれど、顔を上げて微笑む彼女は天使だなんて形容では足りないぐらいに愛らしい。身分違いだとかそんなことは頭から吹き飛び、あっさりと恋に落ちてしまった。
「カイル、あのね」
「なんです、お嬢様」
使用人の子供と話すことに難色を示す両親がいないときだけ。二人が会える機会は限られていたけれど、それでも着実に交流を重ねていた。伯爵夫妻がどこかに出かけてパーティーに出かけるたび、嬉しそうに小走りで庭に駆けてくる姿は何度見ても愛おしい。息せき切って駆け寄る彼女を抱きしめられたら良いのにといつも考えてしまう。庭いじりのせいでいつでも泥だらけの手は、彼女を抱きしめるのに相応しくない。無駄な抵抗と知りながら、持っていた手拭いで手を拭った。
クリスティはそんなことには気づかない。ガゼボに設置されたベンチにちょこんと腰掛け、真新しいハードカバーを広げている。単に本を読んでいるだけなのに、良くも悪くも朝から晩までみっちり授業漬けのせいなのだろうか。背筋がピンと上から吊り下げられているかのように伸びていて、ちょっとした所作は目を奪われるほどに美しい。ガゼボの後ろで揺れるカスミソウは彼女の背景に咲くのに相応しい。慎重に距離をとってその隣に腰掛けて覗き見ると、何やら絵本の類だということがわかった。いつもは植物図鑑を持ってきて、庭に咲いている花と照らし合わせて遊ぶのだけれど今日は違うらしい。とある一ページを開くと、彼女は薔薇色の頬を紅潮させてカイルを見つめる。翡翠色の瞳は吸い込まれそうなぐらいに綺麗で、その瞳で見つめられるとカイルは動けなくなってしまう。
「見て、カイル」
「な、なんですか?」
「王子様。格好いいでしょう?」
白くて細っこい指先の示す方に目をやると、王冠を被った青年が挿絵として描かれているのがわかった。誰がどう見てもわかりやすい王子様。カイルとはかけ離れた存在だ。うっとりと本を眺める彼女はいつも以上に可愛らしいけれど、なんだか面白くない。足に肘をつき、じいっと横顔を見つめる。庭師の息子である彼にとっては無縁の存在だが、貴族令嬢の彼女にとっては奇跡が起きれば縁続きになれるかもしれない存在。一般的なご令嬢よろしく、会ったことも話したこともない王子様とやらに彼女も憧れているのだろうか。
「そうですねえ……」
「興味ない?」
「まあ」
「そっかあ」
しょんぼりしたように眉を下げる様子に、ほんの少しだけ罪悪感が芽生える。「や、俺は男だし王子様とか別に憧れないかなって」と慌てて言い訳すると、「じゃあお姫様なら興味ある?」と返ってきた。
「いや、お姫様も別に……」
「そっかあ」
王子様にしろお姫様にしろ、平民の彼にとっては縁遠い存在なのには変わりない。しょんぼりしているクリスティには悪いけれど、興味を持つ持たないの問題ですらないのだ。クリスティはそれ以上は何も言わず、無言でページをめくっている。顔にかかる髪を払ってやりたい、と小さな庇護欲に似た何かを覚えたけれど、触れることはできない。出しかけた手を引っ込め、口を開いた。
「お嬢様は、憧れてるんですか?」
「え?」
「王子様とやらに」
なんでもないように装って尋ねたけれど、心臓はバクバクだ。これで「そうだよ」なんて言われてしまえば、元々望みの薄いカイルの恋心は木っ端微塵。逆立ちしたって王子様にはなれないのだ、お前じゃ無理だと言われるも同然だ。長いまつ毛をふわりとはためかせてクリスティはぱちぱちと瞬く。やがて、照れたように頬を赤くした。
「……うん」
「!」
「いつか王子様が現れたらいいなあって、ずっと思ってるの」
カイルの恋心は木っ端微塵に砕けてしまった。頭を鈍器で殴られたような鈍い痛みが走る。わかっていたことなのに。実際に突きつけられると、こうも胸は痛むのか。「きっとね、カイルにもいつかお姫様が現れるよ」と無邪気に慰めのようなことを口にするクリスティの笑顔はまっすぐで、あまりにも眩しい。「……そうですね」とだけ返したのに満足したのか、微笑むと再び絵本を捲り始めた。
いつかを願うまでもなく、お姫様は目の前にいる。決して手が届かないだけで。
*
カイルとクリスティの交流はそう長くは続かなかった。たまたま早く帰ってきた伯爵夫妻に見つかってしまったのだ。激怒した伯爵夫妻にクリスティは数日間部屋に閉じ込められ、カイルは酷く鞭打たれた。父親も糾弾され、あと少しで親子共々追放されるところだったのだけれど、伯爵の弟であるレイモンドがたまたま屋敷に来ている時だったのが幸いした。彼は伯爵家の庭と、その庭を作り出す庭師の腕を買っていた。彼がいなければもっと早い段階で路頭に迷っていただろう。
当然と言えば当然なのだけれど、そのせいでクリスティとは話すことができなくなってしまった。伯爵夫妻がパーティーに出かける日は、家庭教師が厳しく監視するようになったからだ。気軽に話せなくなったことを悲しむカイルだったが、クリスティはそれ以上だったのだろう。たまに庭から屋敷内を覗き見ると、以前に見たよりもずっと陰鬱な表情を浮かべていた。カイルはクリスティの王子様ではないけれど、唯一の友達だった。家庭教師の授業や両親の叱責をその小さい体で一身に受け止めようとするクリスティは、あまりに儚くてそのままどこかへいってしまいそうで。駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それが許される立場にカイルはなかった。
クリスティと話せなくなって数ヶ月が経った冬のある日のこと。父親が流行病に倒れてしまった。お金がないせいで、医者にかかることも薬を買うこともできない。伯爵夫妻に頼み込んだけれど、返答はにべもなかった。彼らにとって、使用人は替えのきく存在。わざわざ大金を支払って医者を呼ぶような存在ではなかった。レイモンドがいれば違ったのかもしれないが、折悪く国境沿いの紛争に駆り出されていたため頼ることはできず。冬が終わる前にカイルの父親は息を引き取った。庭師であった父親が亡くなった以上、カイルの面倒を見る義理はないと思ったらしい。そもそも娘をたぶらかそうとしたのだから、心象が悪いせいもある。葬儀なんてものをあげる余裕はなく、使用人が埋葬される集合墓地に父親を埋葬すると悲しみに浸る間もなく伯爵家を追い出された。
「カイル!」
これからどうしようという当てもないまま家を追い出されたカイルを引き留める声。しばらく会っていなかったけれど、誰の声かは振り向くまでもなくわかった。
「お嬢様」
「カイル、お父様が亡くなったって本当? 出ていくのも、本当? 私、私、今日知らされて、それで」
慌てているのか、言いたいことはまとまっていないらしい。あわあわしているクリスティの目には涙が浮かんでいる。いつもならきっと泣いてほしくなくて一生懸命何かを言ったのだろうけれど、今日に限ってはその余裕もなかった。父親を亡くし、住むところを追い出され、これからどうすればいいのか全くわかっていないカイルとは対照的に、クリスティは曲がりなりにも両親ともに存命で、衣食住が脅かされることもない。結局、どこまで行っても身分が違うのだと知らしめられるようだ。
「ごめんなさい、私、お父様とお母様の娘なのに、何もできなくて」
心底申し訳なさそうに目を伏せて謝るクリスティ。痛ましさすら覚えるその姿は、しかしカイルを妙に苛立たせた。どうにかして泣かせてやりたい、傷つけてやりたいと黒い感情が芽生える。
「……本当にな」
「え……」
「あんたはただ貴族の家に生まれた娘ってだけ。両親の言うことを人形みたいに聞くしかできない」
口をついて出てきた言葉は、クリスティが泣いているのを見ても止まらない。耳鳴りが酷い。今すぐそんなことを言う口は塞いでしまえと頭の奥で冷静な自分が警鐘を鳴らす。これ以上言ってしまうと一生後悔しそうなのに、それでも止めることができない。
「あんたにできることなんて何にもないんだよ」
「カイル……」
「誰かが助けてくれることを待ってるだけのお前に、王子様なんて現れない」
見開かれた翡翠色の瞳から、涙がボロボロと溢れる。どれだけ両親に怒鳴られても、家庭教師に厳しく叱られても泣くことのなかったクリスティが、泣いている。取り返しのつかないことをしてしまったのでは、と頭から血の気が引いていくがもう遅い。胸の辺りにずっぷりと刃物を刺されたかのような痛みが走る。はくはくと口を開くクリスティの姿は、とてもじゃないけれど見ていられない。最低なことを言ってしまったのに、謝罪の言葉は喉につかえたように出てこない。顔を背けて急いでその場を立ち去る。背後から呼び止められることは、もうなかった。
*
伯爵家を追い出されて数ヶ月後。カイルは孤児院に拾われた。
浮浪児となった彼が数ヶ月伯爵領を彷徨った末に体を休めたのは教会の軒先。伯爵家からほど近い距離にあるそこに頼るのには抵抗があったけれど、極度の疲労と空腹には敵わない。一晩だけでも休ませてもらおうと思ったのだけれど、目が覚めたときにはベッドの上だった。教会に隣接された孤児院はお世辞にも余裕があるとは言えなかったけれど、院長が親切だったことが幸いしてカイルは面倒を見てもらえることになった。孤児院の中では年長の彼は、面倒を見てもらうというよりは年少の子供達の世話を任されることが多かったけれど。それでも、忙しさは父親の死や好きな女の子との別れ際への後悔を紛らわせてくれた。
「カイルって昔はどこかのお屋敷に仕えてたの?」
そんなことを聞いてきたのは、カイルより一つ年上の女の子。孤児たちの中では最年長の彼女は、大きくなったら隣の教会でシスターとなり孤児院の子どもたちの面倒を見る側に回るのだという。朗らかな彼女は突然現れたカイルにも優しい。クリスティに抱くのとは別の種類の感情、友情のようなものを抱くのに時間はかからなかったし、彼女の方もそのようだった。
「なんで?」
「あなたが寝言でお嬢様って呼んでたのを聞いたってジェームズが」
「あいつ……」
ジェームズはまだ小さい男の子。人懐こく好奇心旺盛な彼はやんちゃ盛りで、何かと手がかかる。男部屋で雑魚寝している時の寝言を聞かれ、言いふらされていたらしいことに思わず舌を打つ。彼女は気にした様子もなく、「この辺りでお嬢様って言ったら、伯爵家?」と質問を続けた。ピンポイントで正解を叩き出す彼女に動揺し黙り込むと、肯定だと受け取ったらしい。「うそ、当たっちゃった」と驚いている。
「伯爵夫妻は悪い話しか聞かないけど、お嬢様はいい子だったの?」
「なんでそう思うんだよ」
「いい子じゃなかったら寝言で呼ぶほどの思い入れはできないでしょ」
「……」
女の子という生き物は、どうしてこうも鋭い生き物なのか。クリスティも、ふわふわしていそうなのに変なところでやけに鋭かった気がする。思い出すだけで胸が痛むことを悟られないよう、「謝りたいだけだよ」と端的に返した。思い入れ、なんてささやかな言葉はクリスティへの感情に相応しくない。幼少期に抱いた淡い恋心は時間と共に薄れていったけれど、後悔の念だけは消えてくれない。もう二度と顔を合わせる資格なんてないけれど、できるならば謝りたかった。
「なんで?」
「最後に会った日、酷いこと言ったから」
「ふうん……」
触れてはいけないと思ったのか、それ以上踏み込まれるようなことはなかった。面倒見がいいけれど、お節介ではないのが彼女のいいところだ。それから少しして、喧嘩した小さい子たちに言い聞かせるような口調でぽつりと呟いた。
「じゃあ、次に会えたときに謝れるといいね」
父親は伯爵家に住み込みで働く庭師をしていて、カイル自身も伯爵家の小間使いのような扱いだった。伯爵も伯爵夫人も、お世辞にも良い人とは言えず、雇用主としても最悪。貴族という生き物はここまで意地の悪い生き物なのかと齢一桁にして痛感したのだが、彼らの一人娘であるクリスティは驚くほど彼らとは異なる存在だった。二つか三つほど年下の彼女は、輝く銀色の髪に透き通った翡翠の瞳を持つ儚げな美少女。高圧的な態度と意地の悪い言動で使用人からすこぶる嫌われている伯爵夫妻と違い、誰に対しても分け隔てなく優しかった。本当に伯爵夫妻の子供なのだろうかと疑ったことは、一度や二度じゃない。
天使のような彼女は、見ていて可哀想になるぐらい孤独で窮屈な生活を強いられていた。ゆくゆくは高位貴族に嫁がせるためだったのだろう。朝から晩までみっちりと授業が詰め込まれ、娯楽も友達と遊ぶことも禁じられていた。いわばそれが彼らなりの「教育」だったのだろうけれど、それが彼女のためであったかは甚だ疑わしい。少なくとも、伯爵夫妻が娘に愛情を注いでいるのを見たことはない。少しの粗相で何時間も怒鳴りつけ、娘の態度に気に食わないところがあれば食事を抜くような姿は、とても良い親だとは思えなかった。
そんな彼女を心配してたまに伯爵の弟が様子を見にきていたけれど、辺境に住む彼が頻繁に訪れることはできず。それに、彼が住んでいるのは国境沿い。いつ隣国が攻めてくるかもわからない緊迫した状況の中で、彼が自分の元へと姪っ子を引き取ることはできなかったらしい。
俯いて伯爵夫妻の言うことを従順に聞いている様子を、カイルは見ていることしかできなかった。伯爵令嬢である彼女と平民である自分とでは身分に差がありすぎる。自分から話しかけるなんてできるはずもない。見ているしかできないし、同じ屋敷に住んでいるとはいえ接点なんてできるはずもないと思っていたのだけれど。同年代の友達がいない彼女はよっぽど話し相手に飢えていたらしい。伯爵夫妻がパーティーへと出かけたある日、ガゼボの手入れをしているときに唐突に話しかけられた。
「あなた、庭師の息子でしょう?」
「へっ……えっ!?」
「私、この家で一番お庭が好きよ。いつもお手入れしてくれてありがとう」
ニコニコと微笑みかけるクリスティはとんでもなく可愛かった。俯いて何かに耐えているような横顔しか見たことがなかったのだけれど、顔を上げて微笑む彼女は天使だなんて形容では足りないぐらいに愛らしい。身分違いだとかそんなことは頭から吹き飛び、あっさりと恋に落ちてしまった。
「カイル、あのね」
「なんです、お嬢様」
使用人の子供と話すことに難色を示す両親がいないときだけ。二人が会える機会は限られていたけれど、それでも着実に交流を重ねていた。伯爵夫妻がどこかに出かけてパーティーに出かけるたび、嬉しそうに小走りで庭に駆けてくる姿は何度見ても愛おしい。息せき切って駆け寄る彼女を抱きしめられたら良いのにといつも考えてしまう。庭いじりのせいでいつでも泥だらけの手は、彼女を抱きしめるのに相応しくない。無駄な抵抗と知りながら、持っていた手拭いで手を拭った。
クリスティはそんなことには気づかない。ガゼボに設置されたベンチにちょこんと腰掛け、真新しいハードカバーを広げている。単に本を読んでいるだけなのに、良くも悪くも朝から晩までみっちり授業漬けのせいなのだろうか。背筋がピンと上から吊り下げられているかのように伸びていて、ちょっとした所作は目を奪われるほどに美しい。ガゼボの後ろで揺れるカスミソウは彼女の背景に咲くのに相応しい。慎重に距離をとってその隣に腰掛けて覗き見ると、何やら絵本の類だということがわかった。いつもは植物図鑑を持ってきて、庭に咲いている花と照らし合わせて遊ぶのだけれど今日は違うらしい。とある一ページを開くと、彼女は薔薇色の頬を紅潮させてカイルを見つめる。翡翠色の瞳は吸い込まれそうなぐらいに綺麗で、その瞳で見つめられるとカイルは動けなくなってしまう。
「見て、カイル」
「な、なんですか?」
「王子様。格好いいでしょう?」
白くて細っこい指先の示す方に目をやると、王冠を被った青年が挿絵として描かれているのがわかった。誰がどう見てもわかりやすい王子様。カイルとはかけ離れた存在だ。うっとりと本を眺める彼女はいつも以上に可愛らしいけれど、なんだか面白くない。足に肘をつき、じいっと横顔を見つめる。庭師の息子である彼にとっては無縁の存在だが、貴族令嬢の彼女にとっては奇跡が起きれば縁続きになれるかもしれない存在。一般的なご令嬢よろしく、会ったことも話したこともない王子様とやらに彼女も憧れているのだろうか。
「そうですねえ……」
「興味ない?」
「まあ」
「そっかあ」
しょんぼりしたように眉を下げる様子に、ほんの少しだけ罪悪感が芽生える。「や、俺は男だし王子様とか別に憧れないかなって」と慌てて言い訳すると、「じゃあお姫様なら興味ある?」と返ってきた。
「いや、お姫様も別に……」
「そっかあ」
王子様にしろお姫様にしろ、平民の彼にとっては縁遠い存在なのには変わりない。しょんぼりしているクリスティには悪いけれど、興味を持つ持たないの問題ですらないのだ。クリスティはそれ以上は何も言わず、無言でページをめくっている。顔にかかる髪を払ってやりたい、と小さな庇護欲に似た何かを覚えたけれど、触れることはできない。出しかけた手を引っ込め、口を開いた。
「お嬢様は、憧れてるんですか?」
「え?」
「王子様とやらに」
なんでもないように装って尋ねたけれど、心臓はバクバクだ。これで「そうだよ」なんて言われてしまえば、元々望みの薄いカイルの恋心は木っ端微塵。逆立ちしたって王子様にはなれないのだ、お前じゃ無理だと言われるも同然だ。長いまつ毛をふわりとはためかせてクリスティはぱちぱちと瞬く。やがて、照れたように頬を赤くした。
「……うん」
「!」
「いつか王子様が現れたらいいなあって、ずっと思ってるの」
カイルの恋心は木っ端微塵に砕けてしまった。頭を鈍器で殴られたような鈍い痛みが走る。わかっていたことなのに。実際に突きつけられると、こうも胸は痛むのか。「きっとね、カイルにもいつかお姫様が現れるよ」と無邪気に慰めのようなことを口にするクリスティの笑顔はまっすぐで、あまりにも眩しい。「……そうですね」とだけ返したのに満足したのか、微笑むと再び絵本を捲り始めた。
いつかを願うまでもなく、お姫様は目の前にいる。決して手が届かないだけで。
*
カイルとクリスティの交流はそう長くは続かなかった。たまたま早く帰ってきた伯爵夫妻に見つかってしまったのだ。激怒した伯爵夫妻にクリスティは数日間部屋に閉じ込められ、カイルは酷く鞭打たれた。父親も糾弾され、あと少しで親子共々追放されるところだったのだけれど、伯爵の弟であるレイモンドがたまたま屋敷に来ている時だったのが幸いした。彼は伯爵家の庭と、その庭を作り出す庭師の腕を買っていた。彼がいなければもっと早い段階で路頭に迷っていただろう。
当然と言えば当然なのだけれど、そのせいでクリスティとは話すことができなくなってしまった。伯爵夫妻がパーティーに出かける日は、家庭教師が厳しく監視するようになったからだ。気軽に話せなくなったことを悲しむカイルだったが、クリスティはそれ以上だったのだろう。たまに庭から屋敷内を覗き見ると、以前に見たよりもずっと陰鬱な表情を浮かべていた。カイルはクリスティの王子様ではないけれど、唯一の友達だった。家庭教師の授業や両親の叱責をその小さい体で一身に受け止めようとするクリスティは、あまりに儚くてそのままどこかへいってしまいそうで。駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それが許される立場にカイルはなかった。
クリスティと話せなくなって数ヶ月が経った冬のある日のこと。父親が流行病に倒れてしまった。お金がないせいで、医者にかかることも薬を買うこともできない。伯爵夫妻に頼み込んだけれど、返答はにべもなかった。彼らにとって、使用人は替えのきく存在。わざわざ大金を支払って医者を呼ぶような存在ではなかった。レイモンドがいれば違ったのかもしれないが、折悪く国境沿いの紛争に駆り出されていたため頼ることはできず。冬が終わる前にカイルの父親は息を引き取った。庭師であった父親が亡くなった以上、カイルの面倒を見る義理はないと思ったらしい。そもそも娘をたぶらかそうとしたのだから、心象が悪いせいもある。葬儀なんてものをあげる余裕はなく、使用人が埋葬される集合墓地に父親を埋葬すると悲しみに浸る間もなく伯爵家を追い出された。
「カイル!」
これからどうしようという当てもないまま家を追い出されたカイルを引き留める声。しばらく会っていなかったけれど、誰の声かは振り向くまでもなくわかった。
「お嬢様」
「カイル、お父様が亡くなったって本当? 出ていくのも、本当? 私、私、今日知らされて、それで」
慌てているのか、言いたいことはまとまっていないらしい。あわあわしているクリスティの目には涙が浮かんでいる。いつもならきっと泣いてほしくなくて一生懸命何かを言ったのだろうけれど、今日に限ってはその余裕もなかった。父親を亡くし、住むところを追い出され、これからどうすればいいのか全くわかっていないカイルとは対照的に、クリスティは曲がりなりにも両親ともに存命で、衣食住が脅かされることもない。結局、どこまで行っても身分が違うのだと知らしめられるようだ。
「ごめんなさい、私、お父様とお母様の娘なのに、何もできなくて」
心底申し訳なさそうに目を伏せて謝るクリスティ。痛ましさすら覚えるその姿は、しかしカイルを妙に苛立たせた。どうにかして泣かせてやりたい、傷つけてやりたいと黒い感情が芽生える。
「……本当にな」
「え……」
「あんたはただ貴族の家に生まれた娘ってだけ。両親の言うことを人形みたいに聞くしかできない」
口をついて出てきた言葉は、クリスティが泣いているのを見ても止まらない。耳鳴りが酷い。今すぐそんなことを言う口は塞いでしまえと頭の奥で冷静な自分が警鐘を鳴らす。これ以上言ってしまうと一生後悔しそうなのに、それでも止めることができない。
「あんたにできることなんて何にもないんだよ」
「カイル……」
「誰かが助けてくれることを待ってるだけのお前に、王子様なんて現れない」
見開かれた翡翠色の瞳から、涙がボロボロと溢れる。どれだけ両親に怒鳴られても、家庭教師に厳しく叱られても泣くことのなかったクリスティが、泣いている。取り返しのつかないことをしてしまったのでは、と頭から血の気が引いていくがもう遅い。胸の辺りにずっぷりと刃物を刺されたかのような痛みが走る。はくはくと口を開くクリスティの姿は、とてもじゃないけれど見ていられない。最低なことを言ってしまったのに、謝罪の言葉は喉につかえたように出てこない。顔を背けて急いでその場を立ち去る。背後から呼び止められることは、もうなかった。
*
伯爵家を追い出されて数ヶ月後。カイルは孤児院に拾われた。
浮浪児となった彼が数ヶ月伯爵領を彷徨った末に体を休めたのは教会の軒先。伯爵家からほど近い距離にあるそこに頼るのには抵抗があったけれど、極度の疲労と空腹には敵わない。一晩だけでも休ませてもらおうと思ったのだけれど、目が覚めたときにはベッドの上だった。教会に隣接された孤児院はお世辞にも余裕があるとは言えなかったけれど、院長が親切だったことが幸いしてカイルは面倒を見てもらえることになった。孤児院の中では年長の彼は、面倒を見てもらうというよりは年少の子供達の世話を任されることが多かったけれど。それでも、忙しさは父親の死や好きな女の子との別れ際への後悔を紛らわせてくれた。
「カイルって昔はどこかのお屋敷に仕えてたの?」
そんなことを聞いてきたのは、カイルより一つ年上の女の子。孤児たちの中では最年長の彼女は、大きくなったら隣の教会でシスターとなり孤児院の子どもたちの面倒を見る側に回るのだという。朗らかな彼女は突然現れたカイルにも優しい。クリスティに抱くのとは別の種類の感情、友情のようなものを抱くのに時間はかからなかったし、彼女の方もそのようだった。
「なんで?」
「あなたが寝言でお嬢様って呼んでたのを聞いたってジェームズが」
「あいつ……」
ジェームズはまだ小さい男の子。人懐こく好奇心旺盛な彼はやんちゃ盛りで、何かと手がかかる。男部屋で雑魚寝している時の寝言を聞かれ、言いふらされていたらしいことに思わず舌を打つ。彼女は気にした様子もなく、「この辺りでお嬢様って言ったら、伯爵家?」と質問を続けた。ピンポイントで正解を叩き出す彼女に動揺し黙り込むと、肯定だと受け取ったらしい。「うそ、当たっちゃった」と驚いている。
「伯爵夫妻は悪い話しか聞かないけど、お嬢様はいい子だったの?」
「なんでそう思うんだよ」
「いい子じゃなかったら寝言で呼ぶほどの思い入れはできないでしょ」
「……」
女の子という生き物は、どうしてこうも鋭い生き物なのか。クリスティも、ふわふわしていそうなのに変なところでやけに鋭かった気がする。思い出すだけで胸が痛むことを悟られないよう、「謝りたいだけだよ」と端的に返した。思い入れ、なんてささやかな言葉はクリスティへの感情に相応しくない。幼少期に抱いた淡い恋心は時間と共に薄れていったけれど、後悔の念だけは消えてくれない。もう二度と顔を合わせる資格なんてないけれど、できるならば謝りたかった。
「なんで?」
「最後に会った日、酷いこと言ったから」
「ふうん……」
触れてはいけないと思ったのか、それ以上踏み込まれるようなことはなかった。面倒見がいいけれど、お節介ではないのが彼女のいいところだ。それから少しして、喧嘩した小さい子たちに言い聞かせるような口調でぽつりと呟いた。
「じゃあ、次に会えたときに謝れるといいね」