王子様なんて現れない

8※

 カイルに今後のことを話さなければならない、と思いつつ何もできないまま数日。「爵位目当てなのは知っているから愛しているふりなんてしなくていいですよ」と、ただそれだけ言えばいい話なのに。その一言を告げる勇気はいつまで経っても出なかった。クリスティがあからさまに距離を置いていることに、いい加減カイルは気がついているのだろう。時々、何か言いたげな視線を遣すのだから。それでも何も言ってこないのは、そのほうが都合がいいからなのだろうか。

 夫婦の寝室ではなく、伯爵夫人の寝室で一人ぼんやりと考え込む。執務室での会話を盗み聞いてしまった日から、クリスティはカイルと夜を過ごしていない。カイルに抱かれるのは嫌ではないしむしろ好きだけれど、好きでもない女を抱かせるのは申し訳ないと思ったのだ。一緒に過ごそうとしてくれはカイルは、何かと理由をつけて断るクリスティに見切りをつけたのだろう。次第に何も言わなくなった。

 一人で寝転がるベッドは広くて寒い。寂しくてたまらないと叫び出したくなってしまうけれど、カイルと婚約するまで独寝が当たり前だったことを思い出す。両親にすら添い寝してもらった記憶はない。元に戻っただけなのだから寂しさを感じる必要なんてどこにもないのに、いつの間にか誰かの近くで眠る安心感に慣れきっていたようだ。

 ――いつの間に、こんなに贅沢になってたんだろう。

 何もかも諦めて孤独にだって慣れっこだったクリスティはどこへ行ってしまったのだろう。カイルと婚約してから半年も経っていないのに、思っている以上にカイルに依存してしまっているらしい。

「はあ……」

 ため息をついても、寝返りを打っても眠れそうにない。悶々とした思いはちょっとやそっとじゃ消えてくれなさそうだ。もそもそと起き上がり、ベッドから抜け出すと頭が冴えていく。真っ暗い部屋は物音ひとつしないほどに静かで、今が真夜中ということしかわからない。夜明けまで後どれぐらいなのだろう。明日は孤児院を訪れる日だから早く眠らないといけないのに。ベッドに座り込んで焦っても、何が解決するわけでもない。いっそのこと一度起きて、水でも飲みに行こうかと考えたときだった。

「っ、は、ぁ……」

 夫婦の寝室に続く扉の方から、微かに声が漏れている。こんな時間まで何をしているんだろうと首を傾げたけれど、漏れ聞こえた声はどこか苦しそうだ。

 ――もしかして、具合が悪い?

 心臓がにわかに騒ぎ始める。恐る恐るベッドから降りて、扉の方に近寄ると、「クリスティ……」と苦しそうに名前を呼ぶのが聞こえた。聞いたことのない声音に血の気が引いていく。ノックすることも忘れて、夫婦の寝室に足を踏み入れた。

「カイル様!?」
「っ、あ、く、クリスティ!?」

 急に入ってきたクリスティに驚いたのだろう。暗くてよく見えないけれど、ベッドに腰掛けたカイルは慌てて夜着を直しているように見える。近づこうとすると、「ちょっと待ってくれる!?」と叫ばれたので、その場で立ち止まった。何があったのかはわからないけれど、具合が悪いわけではなさそうだ。ほっと息をついていると、「こ、こんな夜更けにどうしたの?」と動揺を隠せない声音でカイルが尋ねた。

「苦しそうな声が聞こえたので、どこか具合が悪いのかと……」
「あ、はは……心配してくれてありがとう。けど、全然大丈夫だから」

 苦笑するカイルは、いつもの悠然とした態度からはかけ離れている。ガサガサと慌ただしく夜着を直しているような、身支度を整えているような音が聞こえるけれどどうしたのだろう。「あの、カイル様……?」とベッドの方に近寄ると、鼻腔をくすぐる匂いに気がつく。別に良い匂いとは言えないそれをどこで嗅いだんだっけ、と記憶を辿り、急に全てを察した。

「もしかして、一人でされていたのですか?」
「ぶっ」

 思い切り吹き出したカイルは、「や、えっと、違っ、くはない、けど!?」と咳き込みながら騒いでいる。普段の彼からは考えられないほどに動揺しているらしい。初めて見る様子に、そんな場合ではないのだけれどなんとなく嬉しくなってしまった。理想の王子様のようなカイルも大好きだけれど、取り繕う余裕もない姿は彼の素顔を垣間見ているようだ。本当に好きな人だったら、シスターだったら毎日当たり前に目にしているのだろうか。

「……わ、私が、しましょうか?」

 気づけば、そんなことを口にしていた。衝動的に言ってしまった言葉にクリスティ自身驚いたけれど、カイルの方が驚いたのだろう。「はっ?」と素っ頓狂な声をあげたカイルは、二の句が継げなくなってしまったのか黙り込んでいる。暗闇にようやく慣れてきた目でカイルを見ると、目を見開いてクリスティを見つめていた。散々拒絶していたくせに何を、と言いたいのだろうか。気持ちはよくわかる。けれど、一度口にしたことは取り消せない。どう説明したら良いのか、と考えながら口を開いた。

「その……えっと、殿方は適度に発散しないと溜まってしまって辛くなるというのは、き、聞いたことがあります」
「は? どこで?」
「え? 本で読んだ、んですけど……」
「ああそう」

 ならいいか、と呟くカイルの真意はよくわからないけれど、とりあえず流すことにした。似た場面を恋愛小説で読んだときは、どこか現実味がなかったのだけれど。実際に目の当たりにして初めて、空想の話ではないと知った。拳を握って決意を固め、カイルの隣に腰掛ける。カイルの手に自身の手を重ねると大仰に肩を跳ねさせていて、いつもとは反応が逆だと思った。

「夫の、せ、性欲処理も妻の役目、ですよね?」
「……役目?」

 聞き返すカイルの声はなんだかいつもより低い。こくりと頷くと、クリスティの手の下でカイルの手が強張った気がした。クリスティが行為を拒み妻の役目を放棄したとしても、カイルなら困らないと思っていた。カイルが魅力的な人だということは嫌というほど知っている。クリスティと婚約していなければシスターと毎晩睦み合っていただろうし、そうでなくても引く手数多だっただろう。だというのに、こうして一人で処理していたということは、曲がりなりにも婚約者であるクリスティを尊重してのことだろう。その誠実さがありがたく、そして何より申し訳なかった。

「わ、私以外としても、その……大丈夫、ですから」
「大丈夫って何が?」
「カイル様に、他に思う人がいても、娼館に通われても……私、気にしませんから」
「……は?」
「だ、だから、今日は私がお役目を務めます、けど、明日からは、っきゃ!?」

 お好きなようになさって、と言おうとしたのだけれど。言葉が最後まで紡がれることはなかった。手首に走る鈍い痛みに思わず顔を顰める。再び目を開いたときには視界が回っていた。カイルの顔越しに天井が映る。クリスティを見下ろすカイルはどうしてか怒っているようだ。心臓がバクバクと音を立て始める。押し倒されることはよくあったけれど、逃げ出せないと感じるのは初めてだ。

「か、カイル、さま?」
「明日からは、何? 俺に他の女抱いてろって?」

 ギリ、と掴まれた手首が痛い。折れてしまうのではないかと心配になってしまった。一人称が「俺」になるほどに怒っているようだけれど、どうしてだか見当もつかない。今日だけは自分で我慢してもらって明日からは好きなようにしてほしい、というのは好きでもない女を抱かないで済むようにというクリスティ最大の気遣いのつもりだった。喜ばれこそすれ、怒られるだなんてこれっぽっちも思っていなかったのに。「答えて」と端的に告げるカイルの顔には、喜びの「よ」の字もない。

 ――なんで、なんでそんなに怒るの?

 表情や機微の変化に聡いクリスティだけれど、カイルが何を考えているのかはさっぱりわからない。素の表情が垣間見えて嬉しい、なんて呑気なことは言ってられない。はく、と何も言えずに息を漏らすとカイルの顔が歪んだ。
 
「……そんな顔で見るなよ」

 どういう顔、と思ったけれど疑問は言葉にならなかった。貪るように口付けられ、気づけば夜着に手が掛かっている。するすると服が脱がされていくのを、抵抗することもなく受け入れる。いつの間にか両手首は頭上で固定されていて、左手で胸を鷲掴まれた。声にならない声が喉奥で留まる。キスの合間に盗み見た瞳はぎらぎらと欲情していて、思わず生唾を飲み込んだ。

 *

「あっ、んっ、んんっ……」
「クリスティ、掴まって。爪立てていいから」

 そう言って背中に回すように促されるけれど、決して爪は立てないように添えるだけにする。ぎゅーっと抱きついて、隙間なくピッタリくっついたときの多幸感は嫌というほど知っている。知っているからこそ、しがみつくなんてことはできない。カイルにとって自分は爵位のための駒にすぎない。駒に執着されたところで鬱陶しいだけなのだから、離れがたくなるようなことをしないほうが賢明だ。気を抜いたら甘ったるい声で名前を呼んでしまいそうになるので、唇を噛んで堪える。

「唇、噛んじゃダメだ。ほら、口開けて」

 宥めすかすように言われるけれど、頭を振る。奥まで激しく突かれて揺さぶられるのを、目を瞑って受け入れているせいで表情は窺えない。久しぶりの行為は意識が飛びそうなほど気持ちよくて、今まで拒んでいたのは正解だったかもしれないと思った。

「こっち向いて」
「っあ」

 顔を背けていたのがお気に召さなかったのか、顎を掴まれる。思わず目を開けると、滲む視界にカイルの顔が映った。眉間に皺を寄せていて、苦しそうにも悲しそうにも見える。ぱち、と瞬く間にカイルの顔が近づき、次の瞬間には口付けられていた。固く閉じた唇は分厚い舌にこじ開けられ、口内を荒らされるせいでうまく酸素が吸えない。飲み込めなかった唾液が口端からこぼれていく。

「ん、ふぅっ……んぅ」
「っは……クリスティ、いつもみたいに好きって言って。そうしたら終わってあげる」

 とちゅ、とちゅ、と甘く突き上げながらカイルはそう囁く。懇願するようにも聞こえるそのおねだりを、しかしクリスティが聞くことはできない。以前なら請われるまでもなく好き好きと譫言のように繰り返していたけれど、今は違う。口にしてしまったら最後、想いに歯止めが効かなくなることはわかっている。ぶんぶんと首を横に振るクリスティに、カイルが顔を歪めるのがわかった。思い通りにならないことに苛立っているような、失望しているような。あまり見たくなかった類の表情であることは確かだ。

「ああ、そう……言えるまで挿れっぱなしでもいいんだ?」
「っ」

 良いわけがない。ひぅ、と喉の奥から絞り出したような声が漏れる。「はは……締まった。嬉しい?」と、嬉しそうなカイルとは対照的に恥ずかしくて顔が熱い。態度とは裏腹に欲しがっているくせにと笑われているようだ。

「朝まで愛し合おうか」

 そう言って笑うカイルの目の奥は笑っていない。朝までなんてとんでもない。明日は孤児院に行く日なのに、この分だと昼過ぎまで起き上がれるかわからないだろう。それでも、どうしても「好き」と言うことはできない。無言で首を横に振るクリスティをカイルはどう思ったのだろう。わからないけれど、「……はは」と嘲るように笑われたかと思うと、再び口付けられる。呼吸すら奪われているようで、心臓が軋んだ。
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