秘密を知ったら溺愛されました!
「ヤマザキくん、これ、間違ってるんだけど」
「「申し訳ございません!」」

 とある日の昼下がり。
 不機嫌そうな課長の声に反応し、同時に立ち上がったのは、私、山崎しおりと山﨑陽翔(はると)だった。
 一般的に部下の女性を呼ぶ時の敬称を「さん」で、男性は「くん」と呼ぶ人が多い。
 漢字は違えど、同じ呼び方の名字の人間がいた場合は特に呼び分けやすいものになると思うのだが、私たちの部署の課長は違った。

 白髪交じりの眉根を寄せ、紺色のスーツ姿の中年の課長は私を見ると、またかと言わんばかりにため息を吐く。

「君のほうじゃない。もう一人のほうだ」
「……申し訳ございません」
「とっとと座って仕事をしなさい」

 命令口調にいら立ちを覚えたが、表情には出さずに――いや、出していたかもしれないが、何も言われなかったので大人しく座った。

 ヤマザキという名前が同じ部署に二人もいるのだから、呼び方を変えてくれればいいだけだ。
 好きでもない上司にあだ名をつけられるのは御免だが、ヤマザキさんとヤマザキくんと呼びわけてくれれば誤解することはない。

 何度もそのことを伝えているのに、改善しようとしないことに腹が立つ。

 先日、ヤマザキくんと呼ばれた際に返事をしなかったら「俺のことを無視するのか!」と怒鳴ってきたのは、どこのどいつなのか。

 総務部に文句を言ってやりたいが、私はまだ下っ端で味方が少ない。お局様たちから、チクリ魔だと嫌な噂を立てられ肩身の狭い思いをするのは目に見えている。
  
 短大卒で大手商社の「光井商事」の商品開発部に勤め始めて二年が経つ。
 社内の環境は予想とは悪い意味で違ったが、自分が望んでいた部署の仕事に就けていた。

 15階建ての自社ビルで、ワンフロアに百人以上の人が働いている。制服は経理や事務員にはあるが、それ以外はオフィスカジュアルの私服が主だ。
 福利厚生も悪くないし、固定給に当たり前だが残業代は別につく。そして、年二回のボーナスも結構な額が出る。

 好きな仕事をして給料もたくさんもらえるなんて、私にとってはこれ以上ない会社だ。
 そんなわけで総務に睨まれ、会社を辞めさせられるなんて絶対に嫌だ。
 ……と思いつつも、完全に知らないふりをすることもできない。
 もし、課長に言い返した件で辞めさせられることになったら、出社最後の日までは遠慮せずに、言いたいことを言って辞めるつもりだが、我慢の限界がくるまでは、できるだけ大人しくしていようと思う。

「も、も、申し訳ございません」
「謝ればいいってもんじゃないんだよ!」

 そんなことを考えていた私の右隣で、ペコペコと頭を下げる山﨑くんは、私の一つ年上だが、入社時期はそう変わらない。

 元々は、子会社に勤めていたが、本社の商品開発部に引き抜かれたらしい。

 黒髪で度の強そうな黒縁メガネをかけた彼は、長身痩躯でモデル体型のはず。
 ……なのだが、いつも背中を丸めて俯いているため、ぱっと見るだけではわからない。

 彼とは席が隣でチームも同じだ。チームのメンバーは、私のことを「しおりさん」山﨑くんのことは「はるとくん」もしくは「はるとさん」と社内では呼び分けてくれている。

 ちなみに、私と山﨑くんは「山﨑くん」と「山崎さん」である。

「ああ? わかってんのか? このノロマ。いつだってお前なんか、俺の権限で辞めさせられるんだからな」

 課長は持っていたA4サイズの紙の束で、項垂れている山﨑くんの頭を叩く。その様子を見ている周りの人たちは『またか』と言わんばかりの顔をして課長を見つめているが、その視線に本人は気づかない。

 ミスを叱ることが悪いわけではない。余計なことを言うから嫌われるのだ。

 山﨑くんに優しい部長は、今日は外出していて、窓際のホワイトボードには直帰と書かれている。だから、こんなことを聞いたら、絶対に課長を叱責してくれる。
 課長だって、部長がいないからこんなことを言えるのだ。

「課長の独断で人を辞めさせられるなんてすごいですね。本当にそんなことができるのか、来週、部長に聞いてみなきゃ」

 黙っていられず、左隣に座る女性の先輩に話しかけてしまった。
 
「う……うん。普通は決められないよね」

 先輩が苦笑して頷くと、話し声が聞こえていたようで、課長は私を睨みつけた。

「うるさい! 上司に楯突くな!」

 課長は顔を真っ赤にし、大粒の唾を飛ばしながら叫ぶ。

「ヤマザキ! お前たち二人共、月曜の朝までに来週の会議資料を用意しておけ!」
「会議資料の提出は来週の水曜日までのはずです」
「口答えするな! お前たちの仕事ができないから、俺がチェックしなきゃいけないんだよ!」

 そう言い終えると、課長は書類を山﨑くんのデスクに投げ捨て、いつものたばこ休憩をするためにフロアから出ていった。

 これって明らかにパワハラでしょう。普段、ネットニュースをよく見ているくせに、こういう話題を読んだことはないんだろうか。
 もしかして、自分のことだと思って読まないようにしているとか?
 
「大丈夫?」

 急に黙り込んだせいか、先輩から声を掛けられた。
 
「あ、大丈夫です。作業中に急に話しかけてしまって申し訳ないです」
「気にしないで。言いたくなる気持ちもわかるから」

 私の入社時、指導係だった先輩とは、プライベートでも連絡を取る仲だ。
 私が再度謝ると「ほんとムカつくよね。あと、資料作りだけど私もできる限り手伝うわ」と笑ってくれた。
 課長がいなかったら、この職場は本当にいい職場だわ。
 彼に目をつけられて辞めていった人は本当に気の毒だ。

「ありがとうございます! とりあえず、途中の仕事を片付けて資料作りします!」

 先輩との会話を終え、パソコンに向き直ると、山崎くんが立ったまま謝ってきた。

「山崎さん、僕のせいで本当にすみません!」
「気にしないで。というか、火に油を注いでごめん」

 山﨑くんを見上げて苦笑すると、彼はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。

「いえ。悪いのは僕です! 山﨑さんは何も悪くありません!」
「いやいや。私が口を出さなかったら、こんなことになってなかったよ。本当にごめんなさい。私の責任だから、資料作りは私一人でやるよ。山﨑くんは気にせずに、自分の仕事を続けて」
「いえ! 僕も一緒にやります! それは当たり前のことです!」
「じゃあ、一緒に頑張ろっか!」
「はい! よろしくお願いします!」

 急ぎの案件もなかったため、その日の就業時間は、チーム全体で会議資料の作成となった。

 多くの人が手伝ってくれたが、資料をまとめるのに時間がかかり、気がついた時には、かなり遅い時間になってしまった。
 気がついた時には、時刻は夜の十一時をまわり、終電の時間が近づいてきていた。
 現在、フロアに残っているのは、私と山﨑くんだけ。
 山﨑くんは私に後はやっておくから先に帰ってと言ってくれたが、そういうわけにはいかなかった。
 カチャカチャとキーボードを叩く音がフロア内に響く。

「「終わったあ!」」

 十二時近くになってやっとダブルチェックが完了し、私と山﨑くんは同時に声を上げた。

「ほ、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、ありがとう。本当に助かりました!」

 ペコペコと頭を下げる山﨑くんに笑いかけると、山﨑くんはスマホの画面を見つめた。

「あ、あの、山崎さんって電車ですよね」
「うん。今からならギリギリ終電に間に合いそう。山﨑くんは?」
「あ、えっと、その、僕は大丈夫です」
「大丈夫ってどういうこと?」

 うちの会社は車通勤は禁止ではないが、駐車場がないため、近くの駐車場に停めるしかない。そうなると、規定の交通費の支給額を超えてしまうため、圧倒的に電車通勤が多い。
 山﨑くんについては、自転車やバイク通勤という話も聞いたことがなく、どうなのだろうと思って尋ねた。

「ぼ、僕は、その、あの、最寄り駅まで迎えに来てもらいます」
「あ、最寄り駅から家が遠いんだね」

 電車とバスを乗り継いで通勤する人は少なくない。納得してうなずくと、私は山﨑くんを急かす、

「バスは間に合わないかもしれないけど、電車は今なら間に合うし急ごう!」
「は、はい!」

 フロア内の戸締まりを確認したあと、守衛さんに鍵を預けて最寄り駅へとダッシュした。
 会社から最寄り駅までは歩いて三分程だから、走れば一分ちょっとで着く。
 交通系のカードで改札を通り、人の邪魔にならない所で立ち止まる。

「私はこっちのホームなんだけど、山﨑くんは?」
「あ……、えっと、僕はこっちです」

 山﨑くんはそう言って反対側のホームに続くエスカレーターを指さした。

「そっか。じゃあ、また来週! 気をつけて帰ってね! 本当にありがとう!」
「あ、あの、山崎さん、お、送らなくて大丈夫ですか?」
「ありがとう! というか、私が山﨑くんを送らなくても大丈夫?」
「大丈夫です! 一応、僕は男性ですよ!」
「ごめん」

 泣きそうな声を上げた山﨑くんに謝り、許してもらってから別れた。

 メッセージアプリでやり取りはできるから、家に帰り着いてから連絡してみよう。

 上りのエスカレーターに乗ってホームに降り立つと、終電を待つサラリーマンやOLらしき人たちが多くいた。
 私たちと同じように残業をしていたと思われる人たちは、どこか疲れ切った顔をしているし、飲み会帰りらしき人たちは、ベンチに倒れ込むようにして眠っている。

 電車がホームに入るというアナウンスが流れ、終電に間に合ったという安堵感が湧き上がった時、後ろから思い切り誰かに体をぶつけられた。

「いたっ」

 声を上げて振り返ると、私と背丈の変わらない小太りの中年の男性が、私を睨んでいた。
 スーツ姿で革の鞄を脇に抱えた男性は、私と目が合うなり叫ぶ。

「ぶつかったなら謝れよ!」
「ぶつかってきたのはあなたでしょう!」

 視界の端に腕を押さえている女性二人の姿が入った。
 彼女たちが男性を睨みつけていることから、この男性が他の女性たちにもぶつかっていたことがわかり、つい言い返してしまった。

「そんな邪魔なとこに立ってるから悪いんだよ!」

 エスカレーターを降りてすぐの所に立っていたなら、邪魔だと言われても仕方がない。
 だけど、私が立っていたのは、黄色線の内側で並ぶ位置がはっきり指定されている場所だ。

「私が急に動いたならまだしも、指定の場所で立っていただけです。邪魔だと言われても困ります」
「なんだとぉ?」

 周りが止めに入らないので気が大きくなったのか、男性が私に向かって手を振り上げた。
 応戦しようと思ったその時、男性の背後に誰かが立ったのがわかった。

「おっさん、正論言われてイライラしたからって人に手を上げていいと思ってるのか?」

 そう言って、男性の手をつかんだのは、長身痩躯の若いイケメンだった。

「だ、誰だよ、お前!?」
「俺が誰だか知ってどうするんだ。それよりも自分の心配をしろよ」

 イケメンは不機嫌そうに目を細めて言うと、男性の手をつかんだまま近くの階段に向かって歩き出す。

「ど、どこへ連れて行くつもりだ!?」
「迷惑行為をしてただろ。駅員さんに警察呼んでもらうんだよ」
「ちょ、え、そんな、待ってくれ!」

 偉そうにしていた男性は、警察という言葉に反応し、慌てた表情になった。
 その場に踏ん張って拒否する。

「言いがかりだ! 俺は何もしてない!」
「言いがかりなんかじゃありません! わざとぶつかってきたじゃないですか! 私が証言します!」
「ち、違う! 何もしていない!」

 私が宣言すると、男性は泣きそうな顔になって首を横に振った。そんな男性にイケメンが話しかける。

「大事にしたくなければ、大人しく従ったほうがいいですよ」

 ホームに電車が入ってきたため、多くの人はこちらを気にしながら電車に乗り込んでいく。

 うう。
 この電車が終電だ。逃してしまうが仕方がない。
 私は助けてもらった立場だし、後は任せたなんて不義理すぎる。

 男性は必死に、イケメンの手を振り払おうとしたが無駄な抵抗だった。

 イケメンが男性を押さえている間に、私は改札横にある駅員室へと走った。


******

 結局、酔っ払いのおじさんが日頃のイライラをぶつけるために、女性にぶつかりまくっていたのだとわかり、二度としないと約束させて話は終わった。
 大事にしなかったのは、私たちの取引先の男性で、憎き課長の被害者の一人だったからだ。
 酔いが覚めたおじさんは、涙目になって何度も謝ってきた。
 うちの課長が無理難題をふっかけたらしく、夜遅くまで仕事して自棄になり、近くの呑み屋で呑みすぎてしまったらしい。
 やったことは許されないが、課長を知っているだけに、同情する気持ちはあった。

 私とイケメンが警察署から出ることができた時には、日付が変わって一時間以上経っていた。
 警察署の前の通りは外灯はあるものの薄暗く、行き交う車も少ない。
 タクシーはすぐ近くに走っておらず、到着するまでにかなり時間がかかると言われてしまった。
 深夜帯だから仕方がないかと諦め、すぐ近くにファミリーレストランがあったので、イケメンくん、いや、山﨑くんに声をかける。

「山﨑くん、助けてくれてありがとう。迎えのタクシーが来るまでご飯食べない? もちろんおごるから!」
「えっ!? 人違いしてるんじゃないか? 俺は別に山﨑って名前じゃ」
「服装も同じだし声も変えてないから、さすがにわかるよ。それに、警察の人に氏名を聞かれて本名名乗ってたじゃない」
「……くそ。そうだった」

 眼鏡を外しただけで見た目だけでなく、性格もこんなに変わってしまうものなのかと驚きながら、私は山﨑くんを促して歩き出した。

 深夜だというのに、ファミリーレストランの店内には多くの人がいてにぎやかだ。 
 四名掛けの席に座り、ドリンクバーと軽食を頼むと、山﨑くんはお手洗いに向かった。

 数分後、戻ってきた時には伸びていた背筋は猫背になり、眼鏡をかけていて、いつもの山﨑くんに戻っていた。

 詳しい話を聞いてみると、彼は極度の対人恐怖症らしく、人と話すことが苦手だそうだ。 
 眼鏡を外すと人の顔がわからなくなる上に、人格を変えるスイッチが入るらしく、強気に出ることができるのだと教えてくれた。

 そんな事情があるのに、私が絡まれているのを見て、わざわざ反対ホームから助けに来てくれたのだから、本当に良い人だ。

「このことは会社の皆さんに秘密にしてもらえますか」
「別に秘密にしなくても話をしたら理解してくれると思うよ?」
「皆さんに秘密にするのは心苦しいのですが、事情があるんです」

 しゅんと肩を落とす山﨑くんに微笑みかける。

「わかった! 助けてもらっておいてお願いをきかないわけにはいかないし、秘密にしたいことがあってもおかしくないもんね」
「ありがとうございます!」

 感動した様子の山﨑くんだったが、すぐに表情を曇らせる。

「今日の件、あの方も良くないですが、課長が無茶なことを言い出さなければ起きなかったことですよね」
「それは私もそう思う。迷惑行為をしないことが一番だし、関係のない人には謝罪すべきだけど、課長が原因だと聞くと、私たちは複雑よね」
「課長は弱い立場の人をいたぶることを楽しんでいますしね」
「取引先にまで無茶な要求していると思わなかったわ。どうにかならないかなあ」

 山﨑くんに言っても無駄だとわかっていながらも、口に出さずにはいられなかった。

 すると、山﨑くんが宣言する。

「僕ももう限界です。だ、だから、話をしようと思います」

 考えるだけで怖いのか、山﨑くんの身体は小刻みに震えていた。

「そんな、無理しなくていいよ。私が頑張ってみる。部長に話してみるね」
「いえ。ぼら僕の仕事ですから! あの、さっきもお願いしましたが、僕の本性は隠しておいてもらえますか?」
「わかってるってば。山﨑くんのことを知っている人には絶対に話さないし、友人に話す時は山﨑くんだと特定されないように話すね」
「ありがとうございます!」

 山﨑くんは自分の胸の前で手を合わせようとしたが、テーブルの上に置いていたドリンクバーのコップに肘が当たってしまった。
 コップは派手に倒れ、テーブルの上にオレンジジュースが広がっていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「落ち着いて、大丈夫だから」
  
 呼び出しボタンで店員さんを呼び、二人で謝罪をして布巾を借りたのだった。



******


 週明けに出社すると、いつもならば席についている山﨑くんの姿が見えなかった。
 先輩に確認してみると、少し遅れるという連絡があったらしい。

「山﨑くんが遅刻なんて珍しいですね」

 普段は出勤時間の一時間近く前から来ていると聞いていたので、遅刻するなんて意外だった。

「本当よね。先週の件を引きずっていなければいいけど」

 心配そうな顔をする先輩を見て、私も急に不安になった。
 もしかして、秘密がバレてしまったことを苦にして来ていないとかじゃないよね?

 モヤモヤしながら仕事を開始する準備をしていると、課長が近づいてきた。

 顔を見るとニヤニヤしているから、朝から不快だ。

「山﨑が来てないらしいな。資料の用意が間に合わなかったのか?」
「いいえ。できていますので、山﨑くんが出勤してからお渡しします」
「待っていられないんだ。さっさと渡せ」

 山﨑くんが来るのを待てないと言うのならまだしも、始業前に渡せと言うのはどうかと思う。

「まだ9時になっていません」

 勤務開始時間は朝の9時。それまでは、席に座っていても自由時間だ。
 怒鳴られることを覚悟で答えた時だった。

 部長が急ぎ足でフロアに入ってきた。そして、その後ろを歩いているスーツ姿の若い男性を見て、女性社員が色めきだった。

「えっ? あのイケメン、誰?」
「見たことないんだけど! 新入社員かな? めちゃくちゃカッコいい!」

 他の部署の女性のひそひそ声が聞こえてきた。

「わあ! 部長と一緒にいる人、誰だろう? カッコ良くない?」 
「は、はい。カッコいいですね」

 先輩にカーディガンを引っ張られた私は、適当な答えを返した。

 あれ?
 おかしくない?
 私には内緒にしてって言ってなかった?

 部長と一緒にフロアに入ってきたのは、眼鏡をかけていない山﨑くんだった。
 いつものカジュアルな格好とは違い、紺色のスーツに同じ色のネクタイを締めていて、助けてくれた時とはまた雰囲気が違う。
 私の背後に立っていた課長は、部長の登場に驚き、急いで自分の席に戻っていく。
 ちょうどいいタイミングで始業のチャイムが鳴り、部署ごとでの朝礼が始まった。

 私たちの部署の朝礼は、仕事の連絡事項や欠勤者の連絡だけなので、いつもすぐに終わる。

 だが、今日は違った。

 ロマンスグレーの髪がとても似合う部長は、爽やかな笑みを浮かべて、山﨑くんを紹介する。

「みんなも知っていると思うが、彼は山﨑陽翔くんだ」
「ええっ!?」

 多くの人が驚いたが、一番大きな声を上げたのは課長だった。そんな課長に、部長は微笑みかける。

「うちの部署の退職者が多いから、監査部から原因調査のために派遣されていたんだよ」
「え? あ、そ、そうでしたか」

 さすがの課長も自分の立場が危ないことに気がついたらしく、しどろもどろになっている。
 それにしても、まさか、調査員だったとは!
 他の業界でもそういう話は聞くし、社員のことを考えてくれているのはありがたい。

「今回、理由が分かったから、正体を明かすことにしたんだよね?」
「はい」

 部長に話しかけられた山﨑くんはうなずき、爽やかな笑顔でとんでもないことを口にした。

「おはようございます。改めて自己紹介します。僕は山﨑陽翔。社長である父の命でこちらの部署で仕事をし、内情を確認させてもらっていました」
「そ、そんなっ! しゃ、社長の命令だって!?」

 課長は悲鳴のような声を上げて聞き返した。

 私たちの部署だけでなく、聞き耳を立てていた他の部署の人たちからも驚きの声が上がっている。

 ま、まさか、山﨑くんが御曹司だったとは……!

「そうです。父の名字も山﨑でしょう? 信じられないのであれば、直接本人に確認して見てください」
「う……嘘だ」

 課長は真っ青な顔をして山﨑くんを見つめている。

 自業自得としか思えないので、同情する気にはならなかった。

「山﨑くんはうちの部署の仕事を気に入ってくれたのと、やりかけのプロジェクトがあるから、しばらくはうちに残ってくれるらしい」

 部長は笑顔でそう話した後、課長を一瞥し、また視線を前に戻して続ける。

「近いうちに一人、この部署からいなくなるかもしれないが、そう大した支障は出ないだろう。万が一困ったことがあれば、私に相談してください。では、今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 部長に向かって一礼したあと、皆が各々の席に着いた。

 どういうこと? 御曹司? 金曜日のことは、もう秘密じゃなくなったってことでいいのよね?
 眼鏡かけてないけど、見えているみたいだしコンタクトしてるの? 

 一人で困惑していると、山﨑くんが笑顔で話しかけてきた。

「山崎さん、おはよう。今までは弱々しい人のふりをしてきたけど、これからは素でいくので、よろしく」
「お、おはようございます。よろしくお願いします」

 山﨑くんの爽やかな姿を見て、彼が秘密にしておいてほしいことが何か、やっと理解できた気がした。

 彼は今まで私たちに見せていた姿が、本当の姿だとみんなに知られたくないのだ。

 それが、なぜか理由はわからない。

 家に帰ったら、メッセージアプリで連絡してみようか。
 そう考えた後は、仕事に集中することにした。

 秘密を知ってしまったことをきっかけに、私と山﨑くんの距離はかなり近づくことになっただけでなく、溺れそうになるほどの愛を捧げられることになるのだが、この時の私は、そんなことなど知る由もなかった。
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