この空の青を、君は知らない
瞼の奥に、鈍い痛みが残っていた。
目を閉じても、昼の光は完全には消えてくれない。
白く、強く、逃げ場のない明るさ。
ほんの少し見ただけなのに、身体の奥まで照らされてしまったような感覚が、まだ抜け切らずにいた。
息をするたび、胸の奥が重い。
苦しいわけじゃない。ただ、落ち着かない。
理由を言葉にできないまま、何かが引っかかっている感じだけが、そこに残っていた。
彼女の『描いて』という言葉が頭の中で何度も再生される。
応えられる気がしない。
昼の空は、まだ僕の中に輪郭を持っていなかった。
分からないものを描くなんて、できるはずがない。
それなのに、断る言葉も見つからなくて、結局、何もしないまま時間だけが過ぎていった。
気づけば、夜になっていた。
夜になれば、少し楽になる。
そう分かっているみたいに、考えるより先に足が屋上へ向かっていた。
理由を整理したわけじゃない。
ただ、ここに来れば、息がしやすくなる気がした。
扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れる。
昼の名残をすっかり失った夜空が、静かに広がっていた。
「遥人!」
名前を呼ばれて、足を止める。
声の方を見ると、天音が手すりに背を預けたまま立っていた。
先に来ていたらしい。
振り向いた僕に気づくと、当たり前みたいに手を振る。
昼間、窓辺で立ち尽くしていた自分の姿が、一瞬だけよぎる。
胸の奥が、また少しざわめいた。
「ねぇ、今日もすっごく綺麗だね」
天音はそう言って、楽しそうに空を見上げる。
同じ空を見上げているはずなのに、感じているものはきっと違う。
そう思いながら、鞄から画材を取り出した。
スケッチブックを開けたまま、少し固まる。
夜空を前にすると、安心するくせに、筆を取る瞬間だけは迷ってしまう。
すると、天音は何も言わずに空を見上げ、
その延長みたいに、ふわりと夜空を指さした。
「ほら、描いて描いて!」
「あ、うん」
慌てて筆を取る。
ひっそりと、小さく息を吐いた。
今夜の空は、どこか昨日よりも冷たく見えた。
色は深いのに、どこか距離がある。
触れようとすると、すり抜けてしまいそうな、そんな空だった。
たっぷりと水を含ませた筆で、ゆっくりと空を置いていく。
濃淡を重ねるたび、星が少しずつ遠ざかっていく気がした。
手を伸ばしても、届かない。
そう言われているみたいだった。
今日の空は、どこか寂しい。
けれど、その寂しさがなんだか自分に似ている気がして、嫌じゃなかった。
分からないものを、分からないまま置いておける。
理解できなくても、落ち着ける。
夜は、そういうことを許してくれる。
気づけば、空は一枚の中に収まっていた。
「うん、やっぱり綺麗だぁ……」
満足そうに呟く天音を見て、なんとなく、その紙を破って差し出す。
「やった」
そう言って受け取る彼女の表情を見ていると、胸の奥がふっと緩む。
——昼のことは、もう考えなくていいや。
そう思えてしまう自分が、少しだけずるい気もした。
「ねぇ、遥人。遥人は、空好き?」
不意にそう聞かれて、言葉に詰まる。
好きかどうか。
そんなこと、考えたこともなかった。
「……好き?なのかな」
自分でもよく分からなくて、曖昧に答えると、天音は「なにそれっ」と小さく肩を震わせ、楽しそうに笑った。
「じゃあ、もっと空見なきゃね」
その言葉に、ただ黙って頷く。
「他は? 好きなものとか、ある?」
「好きって言うのかわかんないけど……
絵は、ずっと描いてる」
「遥人の絵、とっても綺麗だもんね」
にこりと微笑む天音は、あまりにまっすぐで、思わず視線を空に逃がす。
「天音は?」
人差し指を顎にちょこんとのせて、楽しそうに考ながら口を開く。
「んー私はね。空も好きだし、夜も好き。
あと、この屋上も」
理由を聞かなくてもいい気がして、「そっか」とだけ返す。
「夜って、落ち着くよね」
天音の声に、静かに頷いた。
昼みたいに、答えを求めてこない。
理解できなくても、否定されない。
月が高く昇る屋上で、僕らはとりとめもない話をして、時々笑った。
夜は優しい。
少なくとも、今の僕には。