残響
「唯、風邪、すっかりよくなったよ。ありがとう。お礼したいから、仕事終わったら明日うち来れる?」

晃哉から届いたメールを、唯は何度も読み返した。

たったそれだけの文章なのに、胸の奥がふわっと温かくなる。

「良くなってよかった! お礼なんて大丈夫だよ。でも、こうちゃんに会いたいから、仕事終わったら行くね。」

送信ボタンを押してから、唯は小さく笑った。

――こうちゃんに会いたい。

その気持ちを、隠す理由なんてなかった。

仕事を終えた唯は、いつも通り微糖のコーヒーを一本買った。

晃哉の社宅へ向かう道を歩きながら、少しだけ足取りが軽くなる。

ドアの前に立つと、胸がどきんと鳴った。

何度来ても、ここを開ける瞬間だけは少し緊張する。

「ただいま!」

自分の家でもないのに、そう言ってしまう。

すると、すぐに晃哉の声が返ってきた。

「おかえり。仕事お疲れ様」

その言葉だけで、唯の顔には自然と笑みが浮かんだ。

「これ、実家から届いたんだ。俺の地元の肉。食べたことある? おいしいから、一緒に食べよう」

晃哉はそう言うと、届いたばかりの肉を嬉しそうに見せた。

料理を始める前、服に匂いがつくからと、晃哉は唯の上着を受け取って奥の部屋へ運んでいく。

そんな何気ない仕草さえ、唯には嬉しかった。

ここにいる。

こうちゃんと同じ空間にいる。

それだけで、心が満たされていく。

「唯、本当にありがとう」

料理をしながら、晃哉がふいに言った。

「熱下がって、冷蔵庫見たらさ、たくさんあって。びっくりしたけど、本当にありがたかったよ。うどんもおいしかった」

唯は照れもせず、いつもの調子で笑った。

「きっと私の愛情がたくさん入ってたからだね」

くったくのない笑顔。

冗談みたいに言うその言葉に、晃哉も思わず笑みをこぼした。

「唯って、本当に……」

「え?! なに?」

唯が顔を上げる。

「変なところで止めないでよぉ」

晃哉は少しだけ困ったように笑った。

「いや、本当に素直だし。思ったこと、恥ずかしがらないで言葉にしてくれるよね」

「え、あぁー、バカってこと? 笑」

「いや」

晃哉は首を横に振った。

「本当に、まっすぐで素直だなって思っただけ」

その言葉の意味を深く考えることもなく、唯は目の前の料理に夢中になる。

一口食べた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。

「これ初めて食べたけど、めちゃくちゃおいしー!!」

頬を両手で押さえながら笑う唯を見て、晃哉はまた笑った。

――可愛くて、しょうがなかった。

その笑顔を見ているだけで、胸の奥が柔らかくなる。

しばらくして、晃哉がふと思い出したように口を開いた。

「唯、二週間後に隣町でアイスホッケーの試合があるんだけど……見に来てくれないかな」

「え?!」

唯が驚いて顔を上げる。

「こうちゃん、アイスホッケーやってるの?!」

「うん。子供の頃からやってて。今は会社のホッケーでやってるんだけど。良かったら見にこない?」

「すごい!」

唯の目が一気に輝いた。

「行く! 行く行く行く! 絶対行く! 応援しちゃう!」

あまりにも嬉しそうな唯に、晃哉は笑いながら頷いた。

「ありがとう。頑張るね。笑 後で場所教えるわ」

「うん!」

その返事は、迷いなんてひとつもなかった。

こうちゃんが頑張っているところを見たい。

こうちゃんを応援したい。

ただ、それだけだった。

その夜、唯は泊まることになった。

晃哉が服を貸してくれる。

袖を通した瞬間、唯は嬉しそうに笑った。

「こうちゃんの匂いがするー!」

「はい、歯磨き。予備あるから使いな」

照れ隠しみたいにそう言って、晃哉は歯ブラシを渡した。

二人並んで歯を磨く。

鏡越しに目が合って、どちらからともなく笑った。

「なんか不思議だね」

「え? なにが?」

「今は俺たち、一緒に歯磨きしてるんだよ? 笑」

「確かに。笑」

唯も鏡の中の晃哉を見ながら笑う。

「出会ってから、私たち歴史を刻んでるんだね。笑」

その言葉に、晃哉が吹き出した。

「ちょっとー。汚いー。笑」

二人の笑い声が、小さな社宅の部屋に響いた。

やがて灯りを落とし、ベッドに入る。

隣に晃哉がいる。

その距離が近いだけで、唯の心臓は少し速くなる。

晃哉は唯に腕枕をした。

しばらく沈黙が続いたあと、静かな声が落ちてきた。

「俺さ、こっちに来たら、自分変えたかったんだ」

「うん」

「でも、やっぱ自分は自分のままでさ」

晃哉は天井を見つめたまま続けた。

「毎日がただ過ぎていって……」

そして、少しだけ間を置く。

「唯に出会えて、変わったかな」

唯は晃哉の顔を見上げた。

けれど、そんな大切な言葉を受け止めるには、あの頃の唯はあまりにも無邪気だった。

「ラブなんだね~。笑」

からかうように笑うと、晃哉が唯の頭を軽く小突いた。

「もう」

そして、目が合う。

言葉が途切れる。

晃哉が唯を見つめたまま、そっと唇を重ねた。

「おやすみ、唯」

「……不意打ち」

唯は少しだけ笑って、甘えるように言った。

「こうちゃん、もっかい、おやすみのちゅーして」

晃哉は照れくさそうに目を逸らした。

「ほら、また唯はそんな言葉平気で……」

「え?」

その先の言葉を聞く前に、晃哉からのキスが重なった。

さっきよりも長く、深く。

唯はただ、目を閉じた。

やがて晃哉は、はっとしたように身体を離した。

「ほら、寝るよ? 明日も仕事でしょ」

そう言って、何事もなかったように目を閉じる。

唯もその隣で、そっと目を閉じた。

あの頃の私は、それが晃哉にとってどんな時間だったのかなんて、何も知らなかった。

ただ嬉しかった。

こうちゃんと一緒にいられることが。

こうちゃんに触れられることが。

そして、こうちゃんと交わすキスが、大好きだった。

***

ねぇ、こうちゃん。

私は、とても子供だったよね。

こうちゃんが我慢していることにも気づかずに。

何を考えているのかも深く考えずに。

ただ、自分の気持ちをまっすぐに言葉にしていた。

私には、何もかもが初めてだった。

こうちゃんと過ごす時間も。

誰かをこんなに好きになることも。

何もかもが初めてで、毎回、胸がどきどきしていた。

だから私は、ずっと思っていた。

こうちゃんは私を女として見ていないんだって。

私といるのは、ただ仲がいいから。

妹みたいなものだから。

私がどんな言葉を口にしても、どんなふうに甘えても、こうちゃんにとっては何でもないんだって。

本気で、そう思っていた。

――今思えば、笑っちゃうよね。

こうちゃんが何を思っていたのかも知らずに。

何を堪えていたのかも知らずに。

私はただ、こうちゃんと仲良くいられることが嬉しくて。

こうちゃんの隣にいられることが嬉しくて。

こうちゃんと交わすキスが、大好きだった。

もしかしたら、こうちゃんはあの頃、いろんなことに困っていたのかもしれない。

私の無邪気さに、戸惑っていたのかもしれない。

でも、あの頃の私は、それさえ知らなかった。

ただ、好きだった。

どうしようもないくらい。

全身で。

心の全部で。

ねぇ、こうちゃん。

あの頃の私は、

「素直」という名前をした爆弾だったよね。

思ったことを、そのまま口にして。

好きなら好きと言って。

会いたければ会いたいと言って。

キスしてほしければ、キスしてって言って。

何も怖くなかった。

失うことなんて、考えもしなかった。

だって私は、ただ信じていたから。

こうちゃんと一緒にいられるこの時間が、ずっと続くんだって。

あの頃の私は、本当に子供だった。

でも――

嘘だけは、ひとつもなかった。

私は、本当にこうちゃんのことが大好きだった。

自分でもどうしていいかわからないくらい。

胸が苦しくなるくらい。

ただひたすらに、まっすぐに。

全身全霊で、

こうちゃんに恋をしていたんだよ。

もし今、あの頃の私を見たら笑うかな。

「唯、本当に素直だったな」って。

「何でも口にするんだから」って。

きっと、笑うんだろうね。

でも私は、あの頃の自分を嫌いになれない。

だってあの子は、

誰よりもまっすぐに、

誰よりも一途に、

こうちゃんを好きだったから。

そして私は今でも、ときどき思う。

あの夜、私の隣で目を閉じたこうちゃんは、

本当は何を考えていたんだろうって。

私が眠ったあと、

どんな顔をしていたんだろうって。

そしてもし――

あの頃の私が、もう少しだけ大人だったならって。
< 13 / 16 >

この作品をシェア

pagetop