残響
試合当日。

開始は十八時。

唯は澄香にお願いして、一緒に隣町まで向かっていた。

車の中には、夕暮れの名残がまだ少しだけ残っている。

しばらく他愛のない話をしていた澄香が、ふと思い出したように口を開いた。

「だいちゃんが言ってたやつ、大丈夫だった?」

唯は窓の外を見ながら、少し考えてから答えた。

「本人はいないって。なんだろう……なんか、よくわからないけどさ」

「うん」

「私は、本人が言うことを信じようと思って。もし万が一、嘘だったとしても……彼が言うことを、私は信じたい」

「そっか」

澄香は少しだけ黙ったあと、唯のほうを見た。

「でもさ、確かに本当にいたら、会社のやつに呼ばないよね?」

「まぁね」

唯は小さく笑った。

そして、ふっと表情を緩める。

「ただ……私、すごく嬉しくてさ」

「何が?」

「試合もだけど……こうちゃんと、こうやっていられる日々が」

その言葉を口にすると、胸の奥がじんわり温かくなった。

「私……もう、保護者じゃなくて。こうちゃんのことが、すごく大好きなんだと思う」

澄香が吹き出した。

「唯?! 今さら真顔で言うことじゃないって!」

「え?! そうなの?」

「そうだよ。今まで散々見てきた私からしたら、何を今さらって感じなんだけど」

「……そっか」

唯は照れたように笑う。

「だから私、こうちゃんと一緒にいたいんだ。こうちゃんといると安心して、幸せで……終わりたくなくて。だから“大親友”って言っちゃった」

「大親友ねぇ……」

澄香は意味ありげに笑った。

「こうちゃん、絶対我慢してるって」

「いや……多分、女として見てないんだよ。私のこと、猫かなんかだと思ってるんだって」

「んなわけないだろ!」

澄香は笑いながら声を上げた。

「大人だから、理性で我慢してるんだって! あーあ、こうちゃんかわいそー」

「もう……」

唯の頬が赤くなる。

「そんなこと言われても……私、キス以上したことないから、わかんないよ……」

「可愛いのに」

澄香がふっと優しい顔になる。

「唯の家、すごい厳しかったもんね……。きっと、こうちゃんが唯の……」

「きゃー!!」

「やめてよ!」

二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。

そんな他愛のない会話をしているうちに、会場へと到着した。

季節は、秋の終わり。

外はもう真っ暗で、冬の澄んだ気配が、冷たい風とともに顔を覗かせていた。

会場の中へ入ると、アイスリンクでは選手たちがアップを始めている。

白い氷の上を、何人もの選手が軽やかに滑っていた。

「こうちゃん、どれだろ?」

澄香が目を凝らす。

「っていうか、ユニフォームどっち?」

「えーっと……」

唯もリンクを見渡した。

「あ……!」

澄香が突然声を上げる。

「多分、あれ! 岡崎って名前、書いてない?!」

唯の視線の先。

そこには、氷の上を滑る晃哉の姿があった。

その瞬間。

晃哉もこちらに気づいた。

リンクの端まで滑ってくる。

「唯、来てくれたんだ」

少し息を弾ませながら、晃哉が笑う。

「スカート寒くない? もうすぐ始まるから。温かくしてなよ?」

そして、優しい声で続けた。

「来てくれてありがとうね」

そう言って、晃哉は手を振りながら、再びリンクへ戻っていった。

その後ろ姿を見送りながら、澄香が興奮したように言った。

「ヤバい。かっこいいんだけど!」

「そう?」

「今、ドラマでやってるキムタクみたい!」

「キムタクは言い過ぎでしょ」

唯は笑いながら突っ込んだ。

けれど――。

試合が始まると、そんな冗談を言っている余裕はなくなった。

リンクの上に立つ晃哉の表情は、いつもの優しい顔とは違っていた。

真剣で、鋭くて。

氷の上を、軽やかに滑っていく。

その姿が、本当にかっこよかった。

そして――。

晃哉がゴールを決めた。

大きな歓声が上がる。

その瞬間、晃哉がこちらを見た。

まるで、

「見てた?」

そう言っているかのように、腕を上げる。

そして、笑った。

唯の胸が、大きく跳ねた。

「きゃー!」

「今の見た?!」

気づけば唯も澄香も、子どものように声を上げていた。

試合に夢中になっていた。

応援することが、こんなに楽しいなんて思わなかった。

そして試合は――。

晃哉の会社の勝利で幕を閉じた。

試合が終わると、晃哉が再びこちらへ近づいてきた。

「これから片付けして帰るから、気をつけて帰るんだよ?」

それから澄香にも笑顔を向ける。

「澄香ちゃんも来てくれてありがとうね」

そして唯を見る。

「唯、帰ったら連絡するね」

「うん」

それだけ言うと、晃哉はまた戻っていった。

その背中を見送りながら、澄香がぽつりと呟く。

「……こうちゃん、優しいな」

「ね」

唯も笑った。

「試合、すごかったね!」

帰り道。

唯は何度も今日のことを思い返していた。

「澄香、今日ありがとうね。一緒に来てくれて」

「いいよ。私も唯にお祭りとか付き合ってもらったし」

澄香は笑う。

「いやー、その祭りからこうちゃんと唯が仲良くなってさ。しかも試合、何気にすごい楽しかったし」

「ふふっ」

やがて澄香を家まで送り届け、唯も自宅へ戻った。

玄関を開けると、家の中はシンと静まり返っていた。

お風呂へ直行する。

湯船に身体を沈めると、今日一日の疲れがゆっくりとほどけていく。

そして目を閉じると、また晃哉の姿が浮かんだ。

氷の上を滑る姿。

真剣な横顔。

ゴールを決めたあとに見せた、あの笑顔。

「……かっこよかったなぁ……」

思わず呟いてしまう。

お風呂から上がり、髪を乾かして部屋へ戻る。

そのとき、携帯が小さく震えた。

メールが一件。

送り主は、晃哉だった。

『唯、今日は来てくれてありがとう。おっさん、筋肉痛ひどい笑』

唯は思わず吹き出した。

すぐに返信する。

『すごく楽しかったよ! かっこよかった! おっさん、唯ちゃんがマッサージしてあげようか?笑』

ほどなくして、返信が届いた。

『あはは。いつものよろしくね。』

――いつもの。

それは、晃哉にとっての「会いたい」の代わりだった。

唯には、それがちゃんとわかっていた。

『はぁい。いつもの、ね。早く会いたいからダッシュで行きまーす!』

『気をつけておいでね。』

たったそれだけのやり取り。

けれど、それだけで胸がいっぱいになる。

晃哉との間にある、この「いつもの」が。

当たり前のように続いていく毎日が。

唯には、本当に幸せだった。

晃哉の部屋へ行く。

部屋に入ると、さっきまで晃哉が着ていたユニフォームや服が、きちんと乾かされていた。

「すっごいかっこよかった!」

唯が笑う。

二人で乾杯をして、今日の試合のことを話す。

晃哉は少し疲れた顔をしていた。

それでも、唯との時間を作ってくれた。

それが嬉しかった。

いつものように、二人でベッドに入る。

いつものように、キスを交わす。

けれど――。

いつもと少し違った。

重なった唇が、少しずつ深くなっていく。

唯は息をすることさえ忘れてしまった。

「こ、こうちゃん……ごめん。私、息できない……」

晃哉は、少し不思議そうに唯を見つめた。

「……ごめん」

「ううん」

唯は小さく笑った。

「私が経験ないから。こうちゃんとは初めてのことだらけで……なんか幸せなんだけど、ごめん。笑」

照れ隠しのように笑って続ける。

「もうちょっと人生経験つんできます。笑」

その言葉を聞いた瞬間。

晃哉の中で、何かが切れた。

「ごめん、唯。俺……」

その先の言葉は、夜の静けさに溶けていった。

夜が、二人をそっと包み込む。

そして唯は、晃哉に身を任せた。

――ねぇ、こうちゃん。

私ね。

あの日のことを、忘れるなんてできないよ。

こうちゃんの優しさに包まれた日。

初めて、大好きな人と結ばれた日。

すごく幸せだった。

こうちゃんとの「初めて」が増えていくたびに。

私は、幸せだった。
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