残響
晃哉と唯は、お互いに不安や矛盾を抱えながらも、二人で会う日もあった。

Sugarで顔を合わせることもあった。

仕事が終わってから、少しだけ会うこともあった。

どちらからともなく連絡をして、そのまま一緒に過ごすこともあった。

会う理由なんて、もう必要なかった。

「今日、会える?」

それだけでよかった。

短い時間でも顔を見られれば嬉しかったし、少し話して、笑って、それぞれの生活へ戻っていった。

そんなことが、いつの間にか当たり前になっていた。

普通だった。

あまりにも普通だったからこそ、私はきっと、何かを失うなんて思っていなかった。

その日も、いつものように二人でいた。

ベッドに横になり、私は晃哉の腕の中にいた。

彼は仕事の話をしていた。

私はその声を聞きながら、ときどき相槌を打った。

何か特別なことをしているわけじゃない。

ただ一緒にいて。

くだらないことで笑って。

昔の話をして。

これからの話をすることもあった。

そんな何気ない時間が、私は好きだった。

でも、唯は気づいていた。

狭い街だから、話は嫌でも入ってくる。

晃哉が誰と飲んでいるとか。

誰と遊んでいるとか。

仕事のこととか。

私の耳に入ってくるたびに、胸の奥が小さくざわついた。

それでも、もう何も言わなかった。

言えば、彼を困らせるような気がしたから。

そんなある日。

いつものように二人で過ごしたあと、ベッドの上で晃哉が私の頭を腕に乗せたまま、ふっと黙った。

さっきまで話していたのに、急に静かになった。

私は彼の横顔を見上げた。

「唯」

「ん?」

「俺……仕事とか……いろいろあってさ」

晃哉の声が、少しだけ低くなった。

そこで一度、言葉が止まった。

私は何も言わず、彼の顔を見た。

「少し、会えなくなるかもしれない」

その言葉は、思っていたより静かに私の中へ入ってきた。

胸の奥に、冷たいものが落ちていく。

「……そっか」

少し間を置いて、私は笑った。

「……寂しいな」

それだけ言った。

本当は、

どうして?

いつまで?

何があるの?

と、聞きたかった。

もっと聞きたかった。

でも、聞けなかった。

晃哉は私を見ていた。

何かを言おうとしているようにも見えた。

けれど、結局何も言わなかった。

私は、少しだけ笑って言った。

「仕事なら仕方ないよ。メールするね」

大丈夫。

私は大丈夫。

そう言っているようなものだった。

たぶん私は、そのとき晃哉を安心させたかった。

困らせたくなかった。

重い女だと思われたくなかった。

「会えない」と言われて、

どうして?

なんて聞く自分になりたくなかった。

でも、本当は違った。

寂しかった。

ものすごく寂しかった。

帰ってからも、私は何度も携帯を見た。

仕事中も。

眠る前も。

何か連絡が来るんじゃないかと思ってしまう。

画面が光るたびに、もしかしたら、と期待する。

でも、何もない。

静かな画面を見つめて、また伏せる。

そんなことを繰り返した。

それから少しして、晃哉は本当に遊び始めた。

友達と飲みに行く。

出かける。

歳の近い仲間と集まる。

Sugarにも来ていた。

楽しそうだった。

笑っていた。

私と会えなくなると言った人が。

私と会えない時間を、楽しそうに過ごしている。

その姿を見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。

最初は、

仕事が忙しいんだ。

付き合いもあるんだ。

そう思おうとした。

そう思ったほうが、私も楽だった。

でも、何度も続くと、さすがに分かってしまう。

ああ。

私と会う時間だけが、減っている。

そんな気がした。

私は、彼に何も言わなかった。

責めなかった。

問い詰めなかった。

ただ、少しずつ離れた。

自分から連絡することを減らした。

彼から連絡が来ても、以前ほど携帯を握りしめなくなった。

でも、会いたいときは、素直に、

「会いたいよ」

とメールした。

そこだけは、嘘をつけなかった。

会いたいものは、会いたかった。

その代わり、私は外へ出るようになった。

隣町のクラブへ行った。

会社の男性たちと飲みに行くことも増えた。

誰かと一緒にいれば、晃哉と会えない時間を考えなくて済む。

笑っていれば、寂しさを忘れられる。

そんな単純な理由だった。

別に、誰かを好きになろうとしていたわけじゃない。

晃哉の代わりを探していたわけでもない。

ただ、空いた時間を埋めたかった。

夜が長かったから。

一人でいると、どうしても晃哉のことを考えてしまったから。

ある夜、私は澄香と飲んでいた。

店内には、グラスの触れ合う音と、周りの笑い声が響いていた。

少し酔っていた。

私は何度か晃哉の話をしようとして、やめた。

口にしてしまえば、また自分の気持ちが分からなくなりそうだった。

それでも、結局ぽつりとこぼした。

「最近さ……こうちゃん、あんまり会ってくれなくなった」

澄香はすぐには何も言わなかった。

私の顔を見て、それからゆっくりグラスをテーブルに置いた。

「私も聞いたんだ」

「え?」

「やっぱり晃哉さん、結婚してる?」

私は一瞬、言葉に詰まった。

「うん……」

少し考えてから、私は続けた。

「なんか、そんな気もする。だから……無理やり距離作ってるのかなって」

口にしてしまうと、自分の中にあった疑問が、急に現実味を帯びた。

澄香は私を見た。

「唯、モテるんだから、自信持ちな」

私は思わず笑った。

「急に何それ」

「だって本当じゃん」

「そうかな」

「そうだよ」

澄香は笑った。

「本人が一番気づいてないんだよ」

私はグラスの中の氷を見た。

カラン、と小さな音がした。

「でも……」

「ん?」

「複雑なのがさ」

澄香が少し身を乗り出す。

「晃哉さん、唯に対して遊びって感じじゃ、全然ないんだよね」

私は黙っていた。

「慰めるわけじゃないけど。だから、晃哉さんなりに葛藤があるのかなとも思ったり」

「まあ……」

私は曖昧に笑った。

確かに、声をかけてくれる人はいた。

飲みに行こうと言ってくれる人もいた。

私を見てくれる人だっていた。

でも。

その「いくらでもいる」が、今の私には何の意味もなかった。

澄香が続ける。

「そんなに一人の男のことで悩まなくてもいいじゃん」

「……分かってる」

「じゃあ、もっと遊べばいいんだよ」

私は少し笑った。

「ね」

そう言ってから、私はグラスを見つめた。

「でも……こんな好きになってから知っても、どうしていいか分からないよ」

澄香は黙って聞いている。

「彼が言うこと、信じたいのに……」

声が少し小さくなった。

「でも、何が本当なのか分からなくなる」

澄香がため息をつくように言った。

「いや、本当にそれはどうかと思うけどさ」

「うん」

「でも、失いたくないんだろうね……ズルいけど」

私は顔を上げた。

「晃哉さん自身も、実はすごく悩んでるかもね」

「なのかな……」

私は少しだけ笑った。

「ただ、会いたいな」

その言葉は、思っていたより素直に出た。

澄香は何も言わなかった。

私はグラスを指先で回しながら、続けた。

「馬鹿だよね」

「何が?」

「私」

笑った。

「こんなに他の人と飲みに行ったりしてるのに」

「うん」

「結局、こうちゃんに会いたいんだもん」

澄香が少しだけ眉を寄せた。

「唯、もしかしてさ」

「何?」

「晃哉さん、唯が隣町でクラブ行ってるの知ってるかもよ?」

「え?」

「この前、大輔がそういう話を晃哉さんとしたって言ってた」

グラスの中の氷が、またカランと鳴った。

私はそれを見つめた。

「……狭い街だからね」

少し笑ってから、

「実際、私もこうちゃんが遊んでるって聞いてるし」

と続けた。

「遊び人か? あいつは」

自分で言って、笑った。

でも、その笑いの奥には、少しだけ寂しさがあった。

澄香は私を見ながら、静かに言った。

「なんかさ、無理やり距離作ろうとしてる感じがするんだよね」

私は答えなかった。

でも。

私も、そんな感じがしていた。

連絡は来る。

会えば、今まで通り。

話せば笑う。

それなのに、どこか遠い。

離れようとしているのに、完全には離れない。

私も、Sugarに彼がいるか気にしてしまう。

誰かと飲んでいても、ふとした瞬間に彼の顔を思い出す。

結局、どこにいても、心のどこかに彼がいた。

「馬鹿でも……」

私は小さく呟いた。

「私、こうちゃんの嘘を信じていたい」

澄香は何も言わなかった。

私はもう一度、言った。

「こうちゃんが言うこと、信じたいんだよ」

今度は、自分に言い聞かせるように。

本当なのかもしれない。

嘘なのかもしれない。

私には分からない。

それでも、好きになった人の言葉を疑いながら生きるのは、苦しかった。

澄香はしばらく黙っていた。

そして、少しだけ笑った。

「唯はさ、もっと自分に自信持っていいと思うよ」

私は「うん」と頷いた。


どうして、こうちゃん一人のことで、こんなに揺れるんだろう。

どうして、他の人から優しくされても、心が埋まらないんだろう。

どうして、会えないと言われた人のことを、こんなに待ってしまうんだろう。

私は、しばらく黙っていた。

それから、小さな声で言った。

「……でも」

「ん?」

「こうちゃんじゃないんだよね」

澄香が私を見る。

私は笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

「誰と飲んでも、楽しいんだけどさ」

そこで一度、言葉が止まった。

「こうちゃんじゃない」

言ってしまったら、胸の奥に隠していたものまで、一緒にこぼれてしまいそうだった。

私はグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。

「こうちゃんの代わりにしてるわけじゃないよ」

「うん」

「ただ……」

言葉が続かなかった。

寂しい。

会いたい。

そんな言葉を、私は飲み込んだ。

澄香は、それ以上聞かなかった。

ただ、

「好きなら、好きでしょうがないよ」

とだけ言った。

その言葉が、妙に優しかった。

私は小さく頷いた。

その夜。

家に帰ってからも、私はなかなか眠れなかった。

ベッドに横になって、携帯を手に取る。

画面を見る。

何もない。

私は小さく息を吐いて、携帯を伏せた。

もう寝よう。

そう思った、そのときだった。

着信音が鳴った。

久しぶりの晃哉からの着信だった。

画面に彼の名前が出ていた。

心臓が、跳ねた。

何度も見た名前なのに。

たった一度、鳴っただけなのに。

それまで張り詰めていたものが、一瞬でほどけてしまった。

私は電話に出た。

「もしもし?」

「唯?」

その声を聞いた瞬間、私はもう駄目だった。

強がっていたはずなのに。

離れていたはずなのに。

彼の声を聞いただけで、昔の私に戻ってしまう。

「久しぶりじゃん。元気にしてた?」

明るく、ふざけるように言った。

「唯、今どこ?」

「え? 友達と飲んで帰ってきたとこだよ」

「そっか」

少し間があった。

「唯、今から会える? 俺、迎えに行くから」

その言葉に、胸が大きく揺れた。

私は一瞬、迷った。

晃哉から距離を置いたのに。

私も彼と会えない時間を埋めるように遊んでいた。

誰かと飲んでいた。

それでも。

晃哉の声を聞いた瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった。

「急にどうしたの?」

そう言いながら、もう心は決まっていた。

「でも、私……」

何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。

そして次の瞬間。

言葉が勝手に出ていた。

「私……こうちゃんに会いたい」

素直だった。

あまりにも素直だった。

「うん。今から行く」

晃哉の声が少しだけ柔らかくなった。

「公園のとこ着いたら連絡するね」

「うん」

電話が切れた。

静かになった部屋で、私は携帯を握ったまま動けなかった。

胸の奥がいっぱいだった。

ねぇ、こうちゃん。

どれだけ距離を取っても。

どれだけ平気なふりをしても。

前にこうちゃんは、私のことを猫みたいだと笑ったね。

近づいたり。

離れたり。

気まぐれみたいに見えて。

でも、本当は違った。

私は、離れたかったわけじゃない。

傷つきたくなくて、少しだけ距離を取っただけだった。

そして結局、こうちゃんの声を聞けば、また戻ってしまう。

それは、私だけじゃなかったのかもしれないね。

こうちゃんだって、距離を置こうとしていた。

仕事やいろいろなことを理由に、

「少し会えなくなるかもしれない」

と言った。

私から離れようとしていた。

私が追わなくなれば、そのまま離れていけると思ったのかもしれない。

でも。

離れてみたら、苦しかったのかもしれない。

会わない時間が増えるほど、楽になるどころか、余計にお互いの存在が大きくなってしまったのかもしれない。

だから、電話をくれたの?

だから、

「迎えに行く」

と言ったの?

あの頃の私は、そんなことまで深く考えなかった。

ただ嬉しかった。

待っていてくれることが。

迎えに来てくれることが。

私がまだ、こうちゃんのところへ帰れることが。

そして、きっとこうちゃんも。

離れようとしては、離れられなかった。

近づけば苦しくて。

離れれば、もっと苦しくて。

そんなことを繰り返していたのかもしれない。

今になって思う。

彼も。

私も。

お互いに相手を困らせないようにして。

お互いに傷つけないようにして。

そのくせ、自分の本当の気持ちだけは隠して。

そうやって、少しずつ距離を作った。

そして、その距離ができるたびに、また寂しくなって。

また近づいて。

また離れて。

私たちは、何度も同じことを繰り返した。

ねぇ、こうちゃん。

私たちは、どうしてこんなにも苦しくなっていったんだろうね。

いつもこうちゃんは、そうだった。

かっこ悪くても。

矛盾していても。

本当は全部、言葉にしてくれていたらよかったのに。

そうしたら、こんなにタイミングが合わないこともなかったんじゃないかな。

あんなに苦しい終わりを迎えることも、なかったのかもしれない。

「唯みたく生きれたら……」

あのとき、こうちゃんはそう言っていたね。

ズルい。

弱い。

そういう言葉で片付けるのは、簡単だった。

でも、人はそんなに教科書通りには生きられないんだって。

私は、こうちゃんを好きになって、初めて知った。

矛盾していて。

迷っていて。

近づいたり、離れたりして。

それでも、その人なりに何かを守ろうとしていたのかもしれない。

今となっては、本当のところは分からない。

ただ、あの頃の私には、それだけで十分だった。

こうちゃんに会えることが。

こうちゃんと笑えることが。

こうちゃんの隣にいられることが。

ただ、それだけで幸せだったんだよ。
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