残響
晃哉と唯は、お互いに不安や矛盾を抱えながらも、二人で会う日もあった。
Sugarで顔を合わせることもあった。
仕事が終わってから、少しだけ会うこともあった。
どちらからともなく連絡をして、そのまま一緒に過ごすこともあった。
会う理由なんて、もう必要なかった。
「今日、会える?」
それだけでよかった。
短い時間でも顔を見られれば嬉しかったし、少し話して、笑って、それぞれの生活へ戻っていった。
そんなことが、いつの間にか当たり前になっていた。
普通だった。
あまりにも普通だったからこそ、私はきっと、何かを失うなんて思っていなかった。
その日も、いつものように二人でいた。
ベッドに横になり、私は晃哉の腕の中にいた。
彼は仕事の話をしていた。
私はその声を聞きながら、ときどき相槌を打った。
何か特別なことをしているわけじゃない。
ただ一緒にいて。
くだらないことで笑って。
昔の話をして。
これからの話をすることもあった。
そんな何気ない時間が、私は好きだった。
でも、唯は気づいていた。
狭い街だから、話は嫌でも入ってくる。
晃哉が誰と飲んでいるとか。
誰と遊んでいるとか。
仕事のこととか。
私の耳に入ってくるたびに、胸の奥が小さくざわついた。
それでも、もう何も言わなかった。
言えば、彼を困らせるような気がしたから。
そんなある日。
いつものように二人で過ごしたあと、ベッドの上で晃哉が私の頭を腕に乗せたまま、ふっと黙った。
さっきまで話していたのに、急に静かになった。
私は彼の横顔を見上げた。
「唯」
「ん?」
「俺……仕事とか……いろいろあってさ」
晃哉の声が、少しだけ低くなった。
そこで一度、言葉が止まった。
私は何も言わず、彼の顔を見た。
「少し、会えなくなるかもしれない」
その言葉は、思っていたより静かに私の中へ入ってきた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
「……そっか」
少し間を置いて、私は笑った。
「……寂しいな」
それだけ言った。
本当は、
どうして?
いつまで?
何があるの?
と、聞きたかった。
もっと聞きたかった。
でも、聞けなかった。
晃哉は私を見ていた。
何かを言おうとしているようにも見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
私は、少しだけ笑って言った。
「仕事なら仕方ないよ。メールするね」
大丈夫。
私は大丈夫。
そう言っているようなものだった。
たぶん私は、そのとき晃哉を安心させたかった。
困らせたくなかった。
重い女だと思われたくなかった。
「会えない」と言われて、
どうして?
なんて聞く自分になりたくなかった。
でも、本当は違った。
寂しかった。
ものすごく寂しかった。
帰ってからも、私は何度も携帯を見た。
仕事中も。
眠る前も。
何か連絡が来るんじゃないかと思ってしまう。
画面が光るたびに、もしかしたら、と期待する。
でも、何もない。
静かな画面を見つめて、また伏せる。
そんなことを繰り返した。
それから少しして、晃哉は本当に遊び始めた。
友達と飲みに行く。
出かける。
歳の近い仲間と集まる。
Sugarにも来ていた。
楽しそうだった。
笑っていた。
私と会えなくなると言った人が。
私と会えない時間を、楽しそうに過ごしている。
その姿を見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
最初は、
仕事が忙しいんだ。
付き合いもあるんだ。
そう思おうとした。
そう思ったほうが、私も楽だった。
でも、何度も続くと、さすがに分かってしまう。
ああ。
私と会う時間だけが、減っている。
そんな気がした。
私は、彼に何も言わなかった。
責めなかった。
問い詰めなかった。
ただ、少しずつ離れた。
自分から連絡することを減らした。
彼から連絡が来ても、以前ほど携帯を握りしめなくなった。
でも、会いたいときは、素直に、
「会いたいよ」
とメールした。
そこだけは、嘘をつけなかった。
会いたいものは、会いたかった。
その代わり、私は外へ出るようになった。
隣町のクラブへ行った。
会社の男性たちと飲みに行くことも増えた。
誰かと一緒にいれば、晃哉と会えない時間を考えなくて済む。
笑っていれば、寂しさを忘れられる。
そんな単純な理由だった。
別に、誰かを好きになろうとしていたわけじゃない。
晃哉の代わりを探していたわけでもない。
ただ、空いた時間を埋めたかった。
夜が長かったから。
一人でいると、どうしても晃哉のことを考えてしまったから。
ある夜、私は澄香と飲んでいた。
店内には、グラスの触れ合う音と、周りの笑い声が響いていた。
少し酔っていた。
私は何度か晃哉の話をしようとして、やめた。
口にしてしまえば、また自分の気持ちが分からなくなりそうだった。
それでも、結局ぽつりとこぼした。
「最近さ……こうちゃん、あんまり会ってくれなくなった」
澄香はすぐには何も言わなかった。
私の顔を見て、それからゆっくりグラスをテーブルに置いた。
「私も聞いたんだ」
「え?」
「やっぱり晃哉さん、結婚してる?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「うん……」
少し考えてから、私は続けた。
「なんか、そんな気もする。だから……無理やり距離作ってるのかなって」
口にしてしまうと、自分の中にあった疑問が、急に現実味を帯びた。
澄香は私を見た。
「唯、モテるんだから、自信持ちな」
私は思わず笑った。
「急に何それ」
「だって本当じゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
澄香は笑った。
「本人が一番気づいてないんだよ」
私はグラスの中の氷を見た。
カラン、と小さな音がした。
「でも……」
「ん?」
「複雑なのがさ」
澄香が少し身を乗り出す。
「晃哉さん、唯に対して遊びって感じじゃ、全然ないんだよね」
私は黙っていた。
「慰めるわけじゃないけど。だから、晃哉さんなりに葛藤があるのかなとも思ったり」
「まあ……」
私は曖昧に笑った。
確かに、声をかけてくれる人はいた。
飲みに行こうと言ってくれる人もいた。
私を見てくれる人だっていた。
でも。
その「いくらでもいる」が、今の私には何の意味もなかった。
澄香が続ける。
「そんなに一人の男のことで悩まなくてもいいじゃん」
「……分かってる」
「じゃあ、もっと遊べばいいんだよ」
私は少し笑った。
「ね」
そう言ってから、私はグラスを見つめた。
「でも……こんな好きになってから知っても、どうしていいか分からないよ」
澄香は黙って聞いている。
「彼が言うこと、信じたいのに……」
声が少し小さくなった。
「でも、何が本当なのか分からなくなる」
澄香がため息をつくように言った。
「いや、本当にそれはどうかと思うけどさ」
「うん」
「でも、失いたくないんだろうね……ズルいけど」
私は顔を上げた。
「晃哉さん自身も、実はすごく悩んでるかもね」
「なのかな……」
私は少しだけ笑った。
「ただ、会いたいな」
その言葉は、思っていたより素直に出た。
澄香は何も言わなかった。
私はグラスを指先で回しながら、続けた。
「馬鹿だよね」
「何が?」
「私」
笑った。
「こんなに他の人と飲みに行ったりしてるのに」
「うん」
「結局、こうちゃんに会いたいんだもん」
澄香が少しだけ眉を寄せた。
「唯、もしかしてさ」
「何?」
「晃哉さん、唯が隣町でクラブ行ってるの知ってるかもよ?」
「え?」
「この前、大輔がそういう話を晃哉さんとしたって言ってた」
グラスの中の氷が、またカランと鳴った。
私はそれを見つめた。
「……狭い街だからね」
少し笑ってから、
「実際、私もこうちゃんが遊んでるって聞いてるし」
と続けた。
「遊び人か? あいつは」
自分で言って、笑った。
でも、その笑いの奥には、少しだけ寂しさがあった。
澄香は私を見ながら、静かに言った。
「なんかさ、無理やり距離作ろうとしてる感じがするんだよね」
私は答えなかった。
でも。
私も、そんな感じがしていた。
連絡は来る。
会えば、今まで通り。
話せば笑う。
それなのに、どこか遠い。
離れようとしているのに、完全には離れない。
私も、Sugarに彼がいるか気にしてしまう。
誰かと飲んでいても、ふとした瞬間に彼の顔を思い出す。
結局、どこにいても、心のどこかに彼がいた。
「馬鹿でも……」
私は小さく呟いた。
「私、こうちゃんの嘘を信じていたい」
澄香は何も言わなかった。
私はもう一度、言った。
「こうちゃんが言うこと、信じたいんだよ」
今度は、自分に言い聞かせるように。
本当なのかもしれない。
嘘なのかもしれない。
私には分からない。
それでも、好きになった人の言葉を疑いながら生きるのは、苦しかった。
澄香はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「唯はさ、もっと自分に自信持っていいと思うよ」
私は「うん」と頷いた。
どうして、こうちゃん一人のことで、こんなに揺れるんだろう。
どうして、他の人から優しくされても、心が埋まらないんだろう。
どうして、会えないと言われた人のことを、こんなに待ってしまうんだろう。
私は、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……でも」
「ん?」
「こうちゃんじゃないんだよね」
澄香が私を見る。
私は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「誰と飲んでも、楽しいんだけどさ」
そこで一度、言葉が止まった。
「こうちゃんじゃない」
言ってしまったら、胸の奥に隠していたものまで、一緒にこぼれてしまいそうだった。
私はグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「こうちゃんの代わりにしてるわけじゃないよ」
「うん」
「ただ……」
言葉が続かなかった。
寂しい。
会いたい。
そんな言葉を、私は飲み込んだ。
澄香は、それ以上聞かなかった。
ただ、
「好きなら、好きでしょうがないよ」
とだけ言った。
その言葉が、妙に優しかった。
私は小さく頷いた。
その夜。
家に帰ってからも、私はなかなか眠れなかった。
ベッドに横になって、携帯を手に取る。
画面を見る。
何もない。
私は小さく息を吐いて、携帯を伏せた。
もう寝よう。
そう思った、そのときだった。
着信音が鳴った。
久しぶりの晃哉からの着信だった。
画面に彼の名前が出ていた。
心臓が、跳ねた。
何度も見た名前なのに。
たった一度、鳴っただけなのに。
それまで張り詰めていたものが、一瞬でほどけてしまった。
私は電話に出た。
「もしもし?」
「唯?」
その声を聞いた瞬間、私はもう駄目だった。
強がっていたはずなのに。
離れていたはずなのに。
彼の声を聞いただけで、昔の私に戻ってしまう。
「久しぶりじゃん。元気にしてた?」
明るく、ふざけるように言った。
「唯、今どこ?」
「え? 友達と飲んで帰ってきたとこだよ」
「そっか」
少し間があった。
「唯、今から会える? 俺、迎えに行くから」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
私は一瞬、迷った。
晃哉から距離を置いたのに。
私も彼と会えない時間を埋めるように遊んでいた。
誰かと飲んでいた。
それでも。
晃哉の声を聞いた瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった。
「急にどうしたの?」
そう言いながら、もう心は決まっていた。
「でも、私……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。
そして次の瞬間。
言葉が勝手に出ていた。
「私……こうちゃんに会いたい」
素直だった。
あまりにも素直だった。
「うん。今から行く」
晃哉の声が少しだけ柔らかくなった。
「公園のとこ着いたら連絡するね」
「うん」
電話が切れた。
静かになった部屋で、私は携帯を握ったまま動けなかった。
胸の奥がいっぱいだった。
ねぇ、こうちゃん。
どれだけ距離を取っても。
どれだけ平気なふりをしても。
前にこうちゃんは、私のことを猫みたいだと笑ったね。
近づいたり。
離れたり。
気まぐれみたいに見えて。
でも、本当は違った。
私は、離れたかったわけじゃない。
傷つきたくなくて、少しだけ距離を取っただけだった。
そして結局、こうちゃんの声を聞けば、また戻ってしまう。
それは、私だけじゃなかったのかもしれないね。
こうちゃんだって、距離を置こうとしていた。
仕事やいろいろなことを理由に、
「少し会えなくなるかもしれない」
と言った。
私から離れようとしていた。
私が追わなくなれば、そのまま離れていけると思ったのかもしれない。
でも。
離れてみたら、苦しかったのかもしれない。
会わない時間が増えるほど、楽になるどころか、余計にお互いの存在が大きくなってしまったのかもしれない。
だから、電話をくれたの?
だから、
「迎えに行く」
と言ったの?
あの頃の私は、そんなことまで深く考えなかった。
ただ嬉しかった。
待っていてくれることが。
迎えに来てくれることが。
私がまだ、こうちゃんのところへ帰れることが。
そして、きっとこうちゃんも。
離れようとしては、離れられなかった。
近づけば苦しくて。
離れれば、もっと苦しくて。
そんなことを繰り返していたのかもしれない。
今になって思う。
彼も。
私も。
お互いに相手を困らせないようにして。
お互いに傷つけないようにして。
そのくせ、自分の本当の気持ちだけは隠して。
そうやって、少しずつ距離を作った。
そして、その距離ができるたびに、また寂しくなって。
また近づいて。
また離れて。
私たちは、何度も同じことを繰り返した。
ねぇ、こうちゃん。
私たちは、どうしてこんなにも苦しくなっていったんだろうね。
いつもこうちゃんは、そうだった。
かっこ悪くても。
矛盾していても。
本当は全部、言葉にしてくれていたらよかったのに。
そうしたら、こんなにタイミングが合わないこともなかったんじゃないかな。
あんなに苦しい終わりを迎えることも、なかったのかもしれない。
「唯みたく生きれたら……」
あのとき、こうちゃんはそう言っていたね。
ズルい。
弱い。
そういう言葉で片付けるのは、簡単だった。
でも、人はそんなに教科書通りには生きられないんだって。
私は、こうちゃんを好きになって、初めて知った。
矛盾していて。
迷っていて。
近づいたり、離れたりして。
それでも、その人なりに何かを守ろうとしていたのかもしれない。
今となっては、本当のところは分からない。
ただ、あの頃の私には、それだけで十分だった。
こうちゃんに会えることが。
こうちゃんと笑えることが。
こうちゃんの隣にいられることが。
ただ、それだけで幸せだったんだよ。
Sugarで顔を合わせることもあった。
仕事が終わってから、少しだけ会うこともあった。
どちらからともなく連絡をして、そのまま一緒に過ごすこともあった。
会う理由なんて、もう必要なかった。
「今日、会える?」
それだけでよかった。
短い時間でも顔を見られれば嬉しかったし、少し話して、笑って、それぞれの生活へ戻っていった。
そんなことが、いつの間にか当たり前になっていた。
普通だった。
あまりにも普通だったからこそ、私はきっと、何かを失うなんて思っていなかった。
その日も、いつものように二人でいた。
ベッドに横になり、私は晃哉の腕の中にいた。
彼は仕事の話をしていた。
私はその声を聞きながら、ときどき相槌を打った。
何か特別なことをしているわけじゃない。
ただ一緒にいて。
くだらないことで笑って。
昔の話をして。
これからの話をすることもあった。
そんな何気ない時間が、私は好きだった。
でも、唯は気づいていた。
狭い街だから、話は嫌でも入ってくる。
晃哉が誰と飲んでいるとか。
誰と遊んでいるとか。
仕事のこととか。
私の耳に入ってくるたびに、胸の奥が小さくざわついた。
それでも、もう何も言わなかった。
言えば、彼を困らせるような気がしたから。
そんなある日。
いつものように二人で過ごしたあと、ベッドの上で晃哉が私の頭を腕に乗せたまま、ふっと黙った。
さっきまで話していたのに、急に静かになった。
私は彼の横顔を見上げた。
「唯」
「ん?」
「俺……仕事とか……いろいろあってさ」
晃哉の声が、少しだけ低くなった。
そこで一度、言葉が止まった。
私は何も言わず、彼の顔を見た。
「少し、会えなくなるかもしれない」
その言葉は、思っていたより静かに私の中へ入ってきた。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
「……そっか」
少し間を置いて、私は笑った。
「……寂しいな」
それだけ言った。
本当は、
どうして?
いつまで?
何があるの?
と、聞きたかった。
もっと聞きたかった。
でも、聞けなかった。
晃哉は私を見ていた。
何かを言おうとしているようにも見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
私は、少しだけ笑って言った。
「仕事なら仕方ないよ。メールするね」
大丈夫。
私は大丈夫。
そう言っているようなものだった。
たぶん私は、そのとき晃哉を安心させたかった。
困らせたくなかった。
重い女だと思われたくなかった。
「会えない」と言われて、
どうして?
なんて聞く自分になりたくなかった。
でも、本当は違った。
寂しかった。
ものすごく寂しかった。
帰ってからも、私は何度も携帯を見た。
仕事中も。
眠る前も。
何か連絡が来るんじゃないかと思ってしまう。
画面が光るたびに、もしかしたら、と期待する。
でも、何もない。
静かな画面を見つめて、また伏せる。
そんなことを繰り返した。
それから少しして、晃哉は本当に遊び始めた。
友達と飲みに行く。
出かける。
歳の近い仲間と集まる。
Sugarにも来ていた。
楽しそうだった。
笑っていた。
私と会えなくなると言った人が。
私と会えない時間を、楽しそうに過ごしている。
その姿を見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
最初は、
仕事が忙しいんだ。
付き合いもあるんだ。
そう思おうとした。
そう思ったほうが、私も楽だった。
でも、何度も続くと、さすがに分かってしまう。
ああ。
私と会う時間だけが、減っている。
そんな気がした。
私は、彼に何も言わなかった。
責めなかった。
問い詰めなかった。
ただ、少しずつ離れた。
自分から連絡することを減らした。
彼から連絡が来ても、以前ほど携帯を握りしめなくなった。
でも、会いたいときは、素直に、
「会いたいよ」
とメールした。
そこだけは、嘘をつけなかった。
会いたいものは、会いたかった。
その代わり、私は外へ出るようになった。
隣町のクラブへ行った。
会社の男性たちと飲みに行くことも増えた。
誰かと一緒にいれば、晃哉と会えない時間を考えなくて済む。
笑っていれば、寂しさを忘れられる。
そんな単純な理由だった。
別に、誰かを好きになろうとしていたわけじゃない。
晃哉の代わりを探していたわけでもない。
ただ、空いた時間を埋めたかった。
夜が長かったから。
一人でいると、どうしても晃哉のことを考えてしまったから。
ある夜、私は澄香と飲んでいた。
店内には、グラスの触れ合う音と、周りの笑い声が響いていた。
少し酔っていた。
私は何度か晃哉の話をしようとして、やめた。
口にしてしまえば、また自分の気持ちが分からなくなりそうだった。
それでも、結局ぽつりとこぼした。
「最近さ……こうちゃん、あんまり会ってくれなくなった」
澄香はすぐには何も言わなかった。
私の顔を見て、それからゆっくりグラスをテーブルに置いた。
「私も聞いたんだ」
「え?」
「やっぱり晃哉さん、結婚してる?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「うん……」
少し考えてから、私は続けた。
「なんか、そんな気もする。だから……無理やり距離作ってるのかなって」
口にしてしまうと、自分の中にあった疑問が、急に現実味を帯びた。
澄香は私を見た。
「唯、モテるんだから、自信持ちな」
私は思わず笑った。
「急に何それ」
「だって本当じゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
澄香は笑った。
「本人が一番気づいてないんだよ」
私はグラスの中の氷を見た。
カラン、と小さな音がした。
「でも……」
「ん?」
「複雑なのがさ」
澄香が少し身を乗り出す。
「晃哉さん、唯に対して遊びって感じじゃ、全然ないんだよね」
私は黙っていた。
「慰めるわけじゃないけど。だから、晃哉さんなりに葛藤があるのかなとも思ったり」
「まあ……」
私は曖昧に笑った。
確かに、声をかけてくれる人はいた。
飲みに行こうと言ってくれる人もいた。
私を見てくれる人だっていた。
でも。
その「いくらでもいる」が、今の私には何の意味もなかった。
澄香が続ける。
「そんなに一人の男のことで悩まなくてもいいじゃん」
「……分かってる」
「じゃあ、もっと遊べばいいんだよ」
私は少し笑った。
「ね」
そう言ってから、私はグラスを見つめた。
「でも……こんな好きになってから知っても、どうしていいか分からないよ」
澄香は黙って聞いている。
「彼が言うこと、信じたいのに……」
声が少し小さくなった。
「でも、何が本当なのか分からなくなる」
澄香がため息をつくように言った。
「いや、本当にそれはどうかと思うけどさ」
「うん」
「でも、失いたくないんだろうね……ズルいけど」
私は顔を上げた。
「晃哉さん自身も、実はすごく悩んでるかもね」
「なのかな……」
私は少しだけ笑った。
「ただ、会いたいな」
その言葉は、思っていたより素直に出た。
澄香は何も言わなかった。
私はグラスを指先で回しながら、続けた。
「馬鹿だよね」
「何が?」
「私」
笑った。
「こんなに他の人と飲みに行ったりしてるのに」
「うん」
「結局、こうちゃんに会いたいんだもん」
澄香が少しだけ眉を寄せた。
「唯、もしかしてさ」
「何?」
「晃哉さん、唯が隣町でクラブ行ってるの知ってるかもよ?」
「え?」
「この前、大輔がそういう話を晃哉さんとしたって言ってた」
グラスの中の氷が、またカランと鳴った。
私はそれを見つめた。
「……狭い街だからね」
少し笑ってから、
「実際、私もこうちゃんが遊んでるって聞いてるし」
と続けた。
「遊び人か? あいつは」
自分で言って、笑った。
でも、その笑いの奥には、少しだけ寂しさがあった。
澄香は私を見ながら、静かに言った。
「なんかさ、無理やり距離作ろうとしてる感じがするんだよね」
私は答えなかった。
でも。
私も、そんな感じがしていた。
連絡は来る。
会えば、今まで通り。
話せば笑う。
それなのに、どこか遠い。
離れようとしているのに、完全には離れない。
私も、Sugarに彼がいるか気にしてしまう。
誰かと飲んでいても、ふとした瞬間に彼の顔を思い出す。
結局、どこにいても、心のどこかに彼がいた。
「馬鹿でも……」
私は小さく呟いた。
「私、こうちゃんの嘘を信じていたい」
澄香は何も言わなかった。
私はもう一度、言った。
「こうちゃんが言うこと、信じたいんだよ」
今度は、自分に言い聞かせるように。
本当なのかもしれない。
嘘なのかもしれない。
私には分からない。
それでも、好きになった人の言葉を疑いながら生きるのは、苦しかった。
澄香はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「唯はさ、もっと自分に自信持っていいと思うよ」
私は「うん」と頷いた。
どうして、こうちゃん一人のことで、こんなに揺れるんだろう。
どうして、他の人から優しくされても、心が埋まらないんだろう。
どうして、会えないと言われた人のことを、こんなに待ってしまうんだろう。
私は、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……でも」
「ん?」
「こうちゃんじゃないんだよね」
澄香が私を見る。
私は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「誰と飲んでも、楽しいんだけどさ」
そこで一度、言葉が止まった。
「こうちゃんじゃない」
言ってしまったら、胸の奥に隠していたものまで、一緒にこぼれてしまいそうだった。
私はグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「こうちゃんの代わりにしてるわけじゃないよ」
「うん」
「ただ……」
言葉が続かなかった。
寂しい。
会いたい。
そんな言葉を、私は飲み込んだ。
澄香は、それ以上聞かなかった。
ただ、
「好きなら、好きでしょうがないよ」
とだけ言った。
その言葉が、妙に優しかった。
私は小さく頷いた。
その夜。
家に帰ってからも、私はなかなか眠れなかった。
ベッドに横になって、携帯を手に取る。
画面を見る。
何もない。
私は小さく息を吐いて、携帯を伏せた。
もう寝よう。
そう思った、そのときだった。
着信音が鳴った。
久しぶりの晃哉からの着信だった。
画面に彼の名前が出ていた。
心臓が、跳ねた。
何度も見た名前なのに。
たった一度、鳴っただけなのに。
それまで張り詰めていたものが、一瞬でほどけてしまった。
私は電話に出た。
「もしもし?」
「唯?」
その声を聞いた瞬間、私はもう駄目だった。
強がっていたはずなのに。
離れていたはずなのに。
彼の声を聞いただけで、昔の私に戻ってしまう。
「久しぶりじゃん。元気にしてた?」
明るく、ふざけるように言った。
「唯、今どこ?」
「え? 友達と飲んで帰ってきたとこだよ」
「そっか」
少し間があった。
「唯、今から会える? 俺、迎えに行くから」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
私は一瞬、迷った。
晃哉から距離を置いたのに。
私も彼と会えない時間を埋めるように遊んでいた。
誰かと飲んでいた。
それでも。
晃哉の声を聞いた瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった。
「急にどうしたの?」
そう言いながら、もう心は決まっていた。
「でも、私……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。
そして次の瞬間。
言葉が勝手に出ていた。
「私……こうちゃんに会いたい」
素直だった。
あまりにも素直だった。
「うん。今から行く」
晃哉の声が少しだけ柔らかくなった。
「公園のとこ着いたら連絡するね」
「うん」
電話が切れた。
静かになった部屋で、私は携帯を握ったまま動けなかった。
胸の奥がいっぱいだった。
ねぇ、こうちゃん。
どれだけ距離を取っても。
どれだけ平気なふりをしても。
前にこうちゃんは、私のことを猫みたいだと笑ったね。
近づいたり。
離れたり。
気まぐれみたいに見えて。
でも、本当は違った。
私は、離れたかったわけじゃない。
傷つきたくなくて、少しだけ距離を取っただけだった。
そして結局、こうちゃんの声を聞けば、また戻ってしまう。
それは、私だけじゃなかったのかもしれないね。
こうちゃんだって、距離を置こうとしていた。
仕事やいろいろなことを理由に、
「少し会えなくなるかもしれない」
と言った。
私から離れようとしていた。
私が追わなくなれば、そのまま離れていけると思ったのかもしれない。
でも。
離れてみたら、苦しかったのかもしれない。
会わない時間が増えるほど、楽になるどころか、余計にお互いの存在が大きくなってしまったのかもしれない。
だから、電話をくれたの?
だから、
「迎えに行く」
と言ったの?
あの頃の私は、そんなことまで深く考えなかった。
ただ嬉しかった。
待っていてくれることが。
迎えに来てくれることが。
私がまだ、こうちゃんのところへ帰れることが。
そして、きっとこうちゃんも。
離れようとしては、離れられなかった。
近づけば苦しくて。
離れれば、もっと苦しくて。
そんなことを繰り返していたのかもしれない。
今になって思う。
彼も。
私も。
お互いに相手を困らせないようにして。
お互いに傷つけないようにして。
そのくせ、自分の本当の気持ちだけは隠して。
そうやって、少しずつ距離を作った。
そして、その距離ができるたびに、また寂しくなって。
また近づいて。
また離れて。
私たちは、何度も同じことを繰り返した。
ねぇ、こうちゃん。
私たちは、どうしてこんなにも苦しくなっていったんだろうね。
いつもこうちゃんは、そうだった。
かっこ悪くても。
矛盾していても。
本当は全部、言葉にしてくれていたらよかったのに。
そうしたら、こんなにタイミングが合わないこともなかったんじゃないかな。
あんなに苦しい終わりを迎えることも、なかったのかもしれない。
「唯みたく生きれたら……」
あのとき、こうちゃんはそう言っていたね。
ズルい。
弱い。
そういう言葉で片付けるのは、簡単だった。
でも、人はそんなに教科書通りには生きられないんだって。
私は、こうちゃんを好きになって、初めて知った。
矛盾していて。
迷っていて。
近づいたり、離れたりして。
それでも、その人なりに何かを守ろうとしていたのかもしれない。
今となっては、本当のところは分からない。
ただ、あの頃の私には、それだけで十分だった。
こうちゃんに会えることが。
こうちゃんと笑えることが。
こうちゃんの隣にいられることが。
ただ、それだけで幸せだったんだよ。