残響
ホワイトデー

晃哉から電話が鳴った。

バレンタイン以来だった。

携帯の画面に表示された名前を見て、唯は少しだけ目を見開いた。

今日は、男性アーティストのライブの日。

会場の入口には、これから始まるステージを待つ人たちがたくさんいて、周りは話し声や笑い声で賑わっていた。

まだ開演前。

唯はその場の空気を楽しみながら、電話に出た。

「はいはーい?」

「……あ、どこかいた?」

電話の向こうから聞こえる声に、晃哉が周りの音を気にしているのがわかった。

「うん、今LIVEに来てて。今から会場入るよ。なしたの?」

「いや、大丈夫」

「……?」

なんだろう。

わざわざ電話をしてきたのに。

けれど、晃哉が「大丈夫」と言うと、それ以上は聞けなかった。

「LIVE終わったら電話してみるね!」

「うん」

そう言って電話を切った。

携帯をバッグにしまいながら、唯はふと考えた。

今日は、ホワイトデー。

もしかしたら。

何か意味があったのかもしれない。

でも、そのときの唯には、それ以上深く考えることはできなかった。

すぐに開演時間になり、会場の照明が落ちた。

大好きなアーティストの歌声が響き渡る。

その瞬間、さっきまで頭の片隅にあった晃哉のことも、日々のことも、全部どこかへ消えていった。

ただ音楽に身を預けた。

笑って、騒いで、歌って。

最高だった。

ライブが終わる頃には、身体には少し疲れが残っていたけれど、心は満たされていた。

外へ出ると、夜の空気が少し冷たかった。

車に乗り込み、エンジンをかける。

時計を見ると、もう21時を過ぎていた。

唯は晃哉に電話をかけた。

何度か呼び出し音が鳴ったあと、メールが届いた。

――22時くらいに仕事終わるよ。終わったら電話するね。気をつけて帰ってくるんだよ。

その文章を見て、唯は小さく笑った。

「うん」

誰もいない車の中で、ひとり呟く。

一番好きなアーティストのライブ。

その余韻がまだ身体の中に残っていた。

流れる音楽を聞きながら、唯は幸せな気持ちで車を走らせた。

やがて見慣れた街の明かりが近づいてくる。

もうすぐ街に入る。

その頃だった。

携帯が鳴った。

晃哉からだった。

「唯、いまどこ?」

「今ね、もうすぐ街にはいるとこだよ」

「LIVE楽しかった?」

「うん!最高にかっこよかったよぉ!」

興奮したまま話す唯の声に、晃哉は小さく笑った。

「一人で行ったの?」

「うん、1人だよ」

電話の向こうから、カチッという音が聞こえた。

晃哉がタバコに火をつけた音だった。

その音だけで、いつもの彼の部屋が頭に浮かぶ。

「唯、渡したいものあるから会える?」

「え?」

一瞬、胸が高鳴った。

「じゃぁ帰り寄るね?いつものいる?」

「うん。気をつけてね。待ってる」

「うん」

電話を切る。

唯は少しだけアクセルを踏んだ。

胸の奥が、さっきとは違う意味で落ち着かなかった。

*

部屋のドアを開けると、晃哉はラフな格好で迎えてくれた。

いつもの部屋。

いつもの空気。

そして、いつものソファ。

唯はそこに腰を下ろした。

ライブの興奮がまだ冷めていなくて、さっき見たステージのことを次から次へと話した。

「あの曲がね、もう本当にかっこよくて!」

「うん」

「あとね、めちゃくちゃいい匂いした!」

「……匂い?」

「そう!めちゃくちゃいい匂い!」

唯が楽しそうに話すのを、晃哉は隣で静かに聞いていた。

そのアーティストのことを、唯がずっと好きなのは知っている。

だから、嫉妬するわけでもなく、ただ唯の話を聞いていた。

「今日だったんだな、LIVE」

「そうなの!今日だったの!」

そんな何気ない会話をしながら、唯は思う。

こうしている時間が、なんだか好きだった。

特別なことをしているわけじゃない。

いつもの部屋。

いつものソファ。

ただ隣にいるだけ。

それなのに、どうしてこんなに安心するんだろう。

そんなことを考えていると、晃哉が隣に置いていたものを手に取った。

「これ」

差し出されたのは、お菓子と一枚のCDだった。

「バレンタインのお返し。渡したかったんだ」

「えっ!」

唯の顔がぱっと明るくなる。

「ありがとう!嬉しい!」

CDを手に取る。

「こうちゃんのCDがまた増えた!」

嬉しそうに笑う唯を見て、晃哉も笑った。

「最近、ハウスってジャンルも好きでさ」

そう言いながら、CDを指差す。

「いい曲見つけたから、それも入れたよ。きっと唯も好きだと思う」

「え、気になる!」

唯はCDを眺めながら聞いた。

「なんて曲?」

晃哉は答える代わりに、立ち上がった。

そしてターンテーブルの方へ歩いていく。

レコードを手に取り、静かにセットする。

針が落ちる。

小さなノイズのあと、部屋に音楽が流れ始めた。

「akの『say that you love me』って曲」

唯は黙って耳を傾けた。

さっきまでのライブの熱気とは違う。

静かで、どこか切なくて。

夜の部屋にゆっくりと音が広がっていく。

その音に包まれているうちに、唯の胸の奥に何かが触れた。

気づけば、目に涙が浮かんでいた。

「……いい曲だね」

唯は小さく呟いた。

「うん、好き」

晃哉がこちらを見る。

「笑。唯、感受性良すぎ笑」

「……なんか切ない」

涙を隠すように笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。

どうしてだろう。

ただ曲を聴いているだけなのに。

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

晃哉は、そんな唯を黙って見つめていた。

そして、何も言わずに近づいてきた。

そっと唇が重なる。

音楽は、そのまま流れていた。

その夜。

その曲は、ただの一曲ではなくなった。

二人の間に、静かに残った。

*

ねぇ、こうちゃん。

私は今でも、この曲が大好きだよ。

あの夜から、ずっと。

私は単純だから。

歌詞の意味をひとつひとつ見ながら、どうしてか、この曲をこうちゃんと私の話に重ねてしまったんだ。

聴けば聴くほど、あの頃の私たちを思い出す。

会いたいのに、素直になれなかったこと。

大切なのに、失うのが怖かったこと。

近づきたいのに、近づきすぎるのが怖かったこと。

言いたいことがあったのに、言葉にしなかったこと。

なんだかんだ、私たちはずっと、この曲に支配されているのかもしれない。

今思えば。

私たち二人は、いなくなるのが怖くて、どこか遠回りをしていたのかもしれないね。

もっとぶつかり合えていたら。

もっと欲しいものを欲しいと言えていたら。

もっと怖がらずに、お互いの気持ちをさらけ出していたら。

何かが変わっていたのかもしれない。

そう思うことがある。

でも。

あの夜、こうちゃんが私のために選んでくれたこの曲は、今でも私の宝物だよ。

きっとこれからも。

何年経っても、この曲を聴けば、あの部屋を思い出す。

いつものソファ。

ターンテーブル。

タバコの匂い。

夜の静けさ。

そして、隣にいたこうちゃん。

あの頃の私は知らなかった。

この一曲が、こんなにも長く私の中に残り続けるなんて。

「俺も好き」

そう言っていたね。

いつも、少し苦しそうに。

その声まで、今でも覚えている。

だから私は、この曲を聴くたびに思う。

あのときの「好き」は、

曲のことだけだったのかなって。

それとも――

私たち二人のことも、少しだけ重なっていたのかなって。
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