残響
晃哉から、連絡はなかった。

朝、目を覚ました唯は、いつものように仕事へ行く支度をしようとした。

ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。
ハンガーに掛けられた制服に手を伸ばし、袖を通そうとした、その瞬間だった。

ぽろり、と。

堪えていたわけでもないのに、唯の瞳から涙が溢れた。

「……着れないよ……」

制服を胸元に抱きしめる。

晃哉が、似合うと言ってくれた制服だった。

晃哉の部屋で朝を迎え、そこで着替えてから仕事へ向かった日も、何度もあった。

眠そうな顔で見送ってくれたこと。
出勤前の慌ただしい時間。
「いってきます」と言って部屋を出る自分。

そんな何気ない朝のひとつひとつに、晃哉がいた。

もう、いない。

頭ではわかっている。
昨日まであったものが、今日にはなくなってしまうことだって。

けれど、心だけがどうしても追いつかなかった。

制服を握りしめたまま、唯はその場にしゃがみ込んだ。

「……こうちゃん……」

名前を呼んでも、返事はない。

会社にはインフルエンザだと説明して、仕事を休んだ。

本当のことなど、言えるはずがなかった。

今頃、晃哉は飛行機に乗っているのだろうか。

それとも、まだこの街のどこかにいるのだろうか。

考えたところで、答えなんて出るはずもなかった。

*

午後になると、澄香が家に来た。

唯の顔を見るなり、澄香は言葉を失った。

泣き腫らした目。
生気のない顔。
食べ物もほとんど受け付けず、短い時間で目に見えて痩せてしまった身体。

それでも唯は、澄香に力なく笑いかけた。

「……行こっか」

その声があまりにも弱々しくて、澄香は胸の奥が締めつけられた。

二人は、晃哉が暮らしていた社宅へ向かった。

何度も通った道。
何度も晃哉に会いに行った道。

社宅に着くと、唯はゆっくりと車を降りた。

唯は玄関の前に立ち、インターホンを押した。

ピンポーン。

部屋の中からは何の音もしなかった。

唯は扉を見つめたまま、ぽつりと話し始めた。

「いつもね、私が来る日は、こうちゃん、鍵を開けててくれたんだよ……」

澄香は黙って聞いていた。

「だから私、いつも勝手に入って……ただいま、って言ってたの」

その声には、懐かしさと寂しさが滲んでいた。

唯は、そっとドアノブに手を掛けた。

すると――

ギイッ。

鉄の扉が、音を立てて開いた。

「……えっ?!」

唯と澄香は、同時に目を見開いた。

鍵が、掛かっていなかった。

二人は顔を見合わせ、それから恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。

玄関に立ち尽くす。

そこには、何もなかった。

家具も。
照明も。
晃哉の生活の跡も。

すべてが、なくなっていた。

ただ、空っぽの部屋だけが、二人の目の前に広がっていた。

「……運命?」

澄香が、ぽつりと呟いた。

けれど、唯には何も答えられなかった。

どうして鍵が開いていたのか。

どうして、最後にもう一度だけ、この部屋に入ることができたのか。

そんなことを考える余裕さえなかった。

唯は一歩、部屋の中へ進んだ。

「……こうちゃん……」

声が震える。

「こうちゃん……ただいま……」

いつものように。

まるで、そこに晃哉がいるかのように。

唯は涙を流しながら、ゆっくりと部屋の奥へ歩いていった。

そして、ふと立ち止まる。

「……こうちゃんの匂いがする……」

誰もいないはずの部屋。

何も残っていないはずの部屋。

それなのに、そこには確かに、晃哉の気配が残っているような気がした。

唯は泣きながら、澄香に話し始めた。

「澄香……ここを入るとね、ここにDJブースがあったの」

何もない空間を指さす。

「後ろの押し入れには、レコードが山のようにあってね……星型の照明が、ゆらゆら揺れてて……」

声を詰まらせながら、唯は少しずつ記憶をたどっていく。

「うん……」

澄香は、静かに頷いた。

「あ、こっちはね、テーブルがあって、ソファーがあったの。私、いつもこっちに座って……こうちゃんは、ここ」

唯は、何もない床の上に、それぞれの居場所を描くように手を動かした。

「それでね、ここにテレビがあって……上の棚には、スター・ウォーズのフィギュアが飾ってあったの。テレビの隣には、私があげた観葉植物があって……」

ひとつ、またひとつ。

思い出すたびに、涙が溢れた。

家具の配置も。
照明の形も。
晃哉がいつも座っていた場所も。

唯の中には、何ひとつ失われずに残っていた。

澄香も、いつしか涙を流していた。

「うん……」

それしか言えなかった。

唯は、何もない部屋を見渡した。

そこには、確かに二人が過ごした時間があった。

笑ったことも。
ふざけ合ったことも。
音楽を聴いたことも。
何でもない話をしながら、同じ時間を過ごしたことも。

全部、この部屋にあった。

それなのに。

「……おかしいよね……」

唯の声が、かすかに震えた。

「私、全部覚えてるよ?」

涙が頬を伝い、顎から落ちた。

「服を片付けてた場所も、何もかもわかるのに……」

空っぽの押し入れを見つめる。

そこに、晃哉の服が並んでいたことを覚えている。


目を閉じれば、今でも鮮明に浮かんでくる。

なのに。

「……なんで……なんで、何もないのかな……」


*

ふと、澄香が何かを思い出したように玄関へ向かった。

「唯!」

呼ばれて、唯が振り返る。

「晃哉さん、手紙、見たと思う」

澄香は、少しでも唯を安心させるように言った。

「ポストに手紙、なかったよ。だから……唯の気持ち、ちゃんと届いたんだよ」

唯は、その場にゆっくりと座り込んだ。

「……そっか……」

小さく頷く。

「……でも、何も連絡なかったな……」

澄香は、慌てて言葉を重ねた。

「……気持ちは届いてるよ! 連絡だって、いつか落ち着いたら来るかもしれない」

「っ、来ないよ……」

唯は、首を横に振った。

「奥さんと暮らすんだよ……?」

声が震える。

「何もなかったみたいに……ここでのことなんて、全部忘れて……」

涙が、また溢れた。

「きっと、私のことも忘れちゃうんだよ……」


晃哉は、もうこの部屋には戻ってこない。

ここで過ごした時間を胸に抱えたまま、別の場所で暮らしていく。

自分の知らない毎日を生きていく。

その隣には、奥さんがいる。

自分の知らない晃哉の顔を見て、自分の知らない話をして、何事もなかったように笑うのだろう。

その日常の中に、唯の居場所はない。

「……まだわからないよ!」

澄香が、必死に言った。

「期待して待たなくていい。でも……わからないじゃん」

確かに、未来のことなんて誰にもわからない。

けれど、今の唯には、そんなわずかな可能性にすがって生きていくことさえ苦しかった。

「……もう、ダメなの……」

かすれた声が、空っぽの部屋に落ちた。

「私、こうちゃんの家に泊まる日は、ここで制服に着替えて仕事に行ってたの……」

唯は、膝の上で両手を握りしめた。

「その制服を着ることさえ、今はできない……」

涙が止まらない。

「携帯電話だって、持って歩けないの。連絡が来てないか、気になって……」

画面を見てしまう。

何もないとわかっているのに、確認せずにはいられない。


そんな期待をする自分が嫌だった。

「……連絡を待ってしまう自分が、おかしくなりそう……」

澄香は、唯の隣に膝をついた。

「唯、少しは食べないと……」

優しく背中に手を添える。

「唯が辛いと、私も辛いよ。少しずつでいいから。ね?」

その言葉を聞いた途端、唯の中で何かが崩れた。

「……どうして……?」

顔を覆い、声を絞り出す。

「どうして……まだ、こんなにこうちゃんの匂いがするのに……」

嗚咽が漏れる。

「なんで何もないの……?」

晃哉の匂いだけが残っている。

まるで、ついさっきまでここにいたかのように。

「なんで……こうちゃん、いないの……?」

もう、耐えられなかった。

唯は、その場で泣き崩れた。

「す、すみか……ごめんね……ごめん……っ」

謝ろうとしても、言葉にならない。

「うぁぁぁぁ……っ」

堰を切ったように、声が溢れた。

幼い子どものように。

唯は、泣いた。

泣いて、泣いて。

どれだけ泣いても、晃哉は帰ってこなかった。

澄香は、そんな唯を黙って抱きしめていた。

「唯……唯、大丈夫。大丈夫だから……」

何度も、何度も。

けれど、本当に大丈夫なのかどうかは、澄香にもわからなかった。

ただ、今はこうして抱きしめることしかできなかった。

*

泣き疲れて、気がつけば夕方になっていた。

窓の外の光が、少しずつ薄くなっている。

唯は、ぼんやりとした表情で部屋を見渡した。

そして、ふと思い出したように呟いた。

「……こうちゃん、もう地元、着いたかな……」

その声には、まだ晃哉がどこかで生きているという事実に、すがるような響きがあった。

唯は澄香を見つめ、弱々しく笑った。

「……ごめんね、澄香。付き合わせちゃって……」

澄香は、少しだけ眉を寄せた。

「何言ってんの」

そして、いつもの調子を取り戻そうとするように笑った。

「私がいたいから、いるの」

唯は黙って澄香を見た。

「唯はいつも人のこと考えてさ……。こんなときぐらい、唯が気の済むまで好きにしていいんだよ」

澄香は、唯の手を握った。

「もうすぐ暗くなるから、今日は帰ろう? また来たくなったら、いつでも私、付き合うから」

少し間を置いて、わざと明るい声を出す。

「ほら、私、今プータローだし(笑)」

唯は、ほんのわずかに口元を緩めた。

笑顔と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。

けれど澄香は、それ以上何も言わなかった。

二人は、ゆっくりと玄関へ向かった。

そのときだった。

唯の目に、台所に置かれた一枚の皿が映った。

何もない部屋の中に、ぽつんと残された皿。

唯は、足を止めた。

「……これ……」

近づいて、そっと手に取る。

見覚えがあった。

忘れるはずもなかった。

「これ……私がチーズケーキ持ってきたときの……」

声が、震えた。

あの日、晃哉の誕生日。


部屋から、家具も、服も、生活の跡も消えていた。

けれど、この皿だけが残っていた。

唯は、胸に大事に抱いたまま、部屋を出た。

鉄の扉が閉まる。

その音が、やけに大きく響いた。

晃哉の匂いだけが残る部屋。

そこにもう、晃哉はいない。

そのことを、唯はようやく実感し始めていた。

*

澄香と別れたあと、唯は一人で、もう一度晃哉の部屋へ向かった。

もう一度だけ、あの匂いに包まれたかった。

玄関の扉を開ける。

「……ただいま……」

小さく呟き、部屋に入る。

真っ暗な室内には、窓から差し込む月明かりだけが伸びていた。


家具のあった場所に、淡い光が落ちている。

唯は、その場に立ち尽くした。

そして、ゆっくりと柱のそばに座り込んだ。

「……こうちゃん……」

涙が、頬を伝った。

「私……おかしくなっちゃいそうだよ……」

返事はない。

「……会いたいよ……」

どれだけ名前を呼んでも、声が枯れるまで泣いても、もうあの声は聞こえない。

「どうして……どこにもいないの……?」

空っぽの部屋に、唯の声だけが響いた。

晃哉がいた場所。

二人が過ごした場所。

もう二度と、あの頃と同じ形には戻らない場所。

唯は、そこでひとしきり泣いた。

泣きながら、何度も何度も晃哉を呼んだ。

やがて涙が落ち着くと、唯はゆっくりと立ち上がった。

最後にもう一度、何もない部屋を見渡す。

そして、静かに社宅を後にした。

*

ねぇ、こうちゃん。

仕事にも行けなくなって、何も食べられなくなって。

そんなふうに弱ってしまった私を見たら、こうちゃんは怒るかな?

「何やってんの、唯」

そう言って、困ったように笑うかな。

それとも、いつものように頭を撫でてくれるかな。

あの頃の私はね、こうちゃんがいなくなってから、たくさんの人に心配をかけたんだよ。

朝、目が覚めても、何をしたらいいのかわからなかった。

仕事に行こうとしても、制服を着ることさえできなかった。

ご飯も食べられなくて、ただ泣いていた。

生きているのに、生きた心地がしなかった。

自分の身体の中から、何か大切なものがごっそり抜け落ちてしまったみたいだった。

どうしたら、この苦しみから逃れられるのか。

どうしたら、こうちゃんのいない毎日を生きていけるのか。

あの頃の私には、何ひとつわからなかった。

ただ、こうちゃんに会いたかった。

もう一度、声が聞きたかった。

もう一度、笑ってほしかった。

それだけだったのに。

*

あの日。

どうして、こうちゃんの部屋には鍵が掛かっていなかったんだろう。

今でも、不思議に思うことがあるんだよ。

いつもみたいにドアノブを回したら、扉が開いた。

もう誰もいないはずの部屋に、私は入ることができた。

あのときの私は、それを神様からのプレゼントなんだと思っていたんだ。

最後に、もう一度だけ。

こうちゃんのいた場所に、帰らせてもらえたんだって。

だって、あの部屋には、こうちゃんの匂いが残っていたから。

その匂いだけが、あの頃の私を支えていた。

何もない部屋に座り込んで、どれくらい泣いたんだろう。

もう覚えていない。

ただ、毎日部屋に行ったことだけは覚えている。

家具がなくても、照明がなくても、そこにあったものは全部、私の中に残っていた。

三日ほど経った頃…

いつものように部屋へ行って、ドアノブに手を掛けた。

回しても、扉は開かなかった。

鍵が、掛かっていた。


あの日、開いていた扉は、もう二度と私を中へ入れてはくれなかった。

まるで、そこで本当に終わりだと告げられたみたいだった。


*

幼かった私にとって、こうちゃんは、世界のすべてだった。


一緒に笑って。
一緒に音楽を聴いて。
同じ部屋で、それぞれの時間を過ごして。

そんな、誰かにとっては当たり前のことが、私には何より幸せだった。

だから、こうちゃんがいなくなっただけで、私はこんなにも崩れてしまった。

自分の半身を失くしたみたいだった。

どこへ行っても、何をしていても、心の真ん中にぽっかりと穴が開いていた。

笑わなきゃいけないときには笑った。

仕事にも、いつか戻った。

少しずつ食べられるようにもなった。

そうやって、周りから見れば、いつもの私に戻っていったのかもしれない。

でも、本当は違った。

あの頃の私は、ただ、自分を立て直すことだけで精いっぱいだった。

何もないあの部屋で、何度も泣いて。

どうしようもないほど落ち込んで。

それでも、明日を迎えなければいけなくて。

そうやって、ひとつずつ、どうにか生きてきた。

こうちゃんがいなくなった世界で、こうちゃんのいない毎日を生きることを、少しずつ覚えていった。

忘れたわけじゃない。

平気になったわけでもない。

ただ、泣きながらでも、生きていくしかなかったんだよ。

ねぇ、こうちゃん。

こんな思いをするのなら。

こんなにも苦しくて、こんなにも寂しくて。

いなくなったあとまで、こんなに長く、あなたを想い続けるのなら。

最初から、出逢わなければよかったのかな。

何度も、そう思いかけた。

出逢わなければ、こんなに苦しまなくて済んだ。

好きにならなければ、こんなに泣かなくて済んだ。

一緒に過ごした時間がなければ、何もない部屋を見て、こんなにも胸を引き裂かれることもなかった。

……でもね。

それでも、私は。

こうちゃんと出逢ったことを、一度だって後悔したことはなかったんだよ。

どんなに辛くても。

どんなに苦しくても。

こうちゃんと出逢えたこと。
こうちゃんを好きになったこと。
こうちゃんと過ごした、あの時間。

その全部を、なかったことになんてしたくなかった。

だって、あの頃の私は、本当に幸せだったから。

こうちゃんが笑ってくれるだけで嬉しかった。

名前を呼んでくれるだけで、胸がいっぱいになった。

好きだと言ってくれることが、何よりも幸せだった。

あの部屋で過ごした時間は、確かに私のものだった。

たとえ、こうちゃんが遠くへ行ってしまっても。

たとえ、あの部屋から何もかもなくなってしまっても。

私の中には、ずっと残っている。

今でも、全部覚えているんだよ。


あなたの匂いにすがって。
あなたのいた場所を見つめて。
もう一度だけ会いたいと、何度も願って。


……ねぇ、こうちゃん。

あの頃の私は、あなたがいないだけで、世界が終わってしまったように感じていたんだよ。

それほどまでに、あなたがすべてだった。

それほどまでに、あなたを愛していたんだよ。
< 37 / 37 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop