残響
晃哉から、連絡はなかった。
朝、目を覚ました唯は、いつものように仕事へ行く支度をしようとした。
ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。
ハンガーに掛けられた制服に手を伸ばし、袖を通そうとした、その瞬間だった。
ぽろり、と。
堪えていたわけでもないのに、唯の瞳から涙が溢れた。
「……着れないよ……」
制服を胸元に抱きしめる。
晃哉が、似合うと言ってくれた制服だった。
晃哉の部屋で朝を迎え、そこで着替えてから仕事へ向かった日も、何度もあった。
眠そうな顔で見送ってくれたこと。
出勤前の慌ただしい時間。
「いってきます」と言って部屋を出る自分。
そんな何気ない朝のひとつひとつに、晃哉がいた。
もう、いない。
頭ではわかっている。
昨日まであったものが、今日にはなくなってしまうことだって。
けれど、心だけがどうしても追いつかなかった。
制服を握りしめたまま、唯はその場にしゃがみ込んだ。
「……こうちゃん……」
名前を呼んでも、返事はない。
会社にはインフルエンザだと説明して、仕事を休んだ。
本当のことなど、言えるはずがなかった。
今頃、晃哉は飛行機に乗っているのだろうか。
それとも、まだこの街のどこかにいるのだろうか。
考えたところで、答えなんて出るはずもなかった。
*
午後になると、澄香が家に来た。
唯の顔を見るなり、澄香は言葉を失った。
泣き腫らした目。
生気のない顔。
食べ物もほとんど受け付けず、短い時間で目に見えて痩せてしまった身体。
それでも唯は、澄香に力なく笑いかけた。
「……行こっか」
その声があまりにも弱々しくて、澄香は胸の奥が締めつけられた。
二人は、晃哉が暮らしていた社宅へ向かった。
何度も通った道。
何度も晃哉に会いに行った道。
社宅に着くと、唯はゆっくりと車を降りた。
唯は玄関の前に立ち、インターホンを押した。
ピンポーン。
部屋の中からは何の音もしなかった。
唯は扉を見つめたまま、ぽつりと話し始めた。
「いつもね、私が来る日は、こうちゃん、鍵を開けててくれたんだよ……」
澄香は黙って聞いていた。
「だから私、いつも勝手に入って……ただいま、って言ってたの」
その声には、懐かしさと寂しさが滲んでいた。
唯は、そっとドアノブに手を掛けた。
すると――
ギイッ。
鉄の扉が、音を立てて開いた。
「……えっ?!」
唯と澄香は、同時に目を見開いた。
鍵が、掛かっていなかった。
二人は顔を見合わせ、それから恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。
玄関に立ち尽くす。
そこには、何もなかった。
家具も。
照明も。
晃哉の生活の跡も。
すべてが、なくなっていた。
ただ、空っぽの部屋だけが、二人の目の前に広がっていた。
「……運命?」
澄香が、ぽつりと呟いた。
けれど、唯には何も答えられなかった。
どうして鍵が開いていたのか。
どうして、最後にもう一度だけ、この部屋に入ることができたのか。
そんなことを考える余裕さえなかった。
唯は一歩、部屋の中へ進んだ。
「……こうちゃん……」
声が震える。
「こうちゃん……ただいま……」
いつものように。
まるで、そこに晃哉がいるかのように。
唯は涙を流しながら、ゆっくりと部屋の奥へ歩いていった。
そして、ふと立ち止まる。
「……こうちゃんの匂いがする……」
誰もいないはずの部屋。
何も残っていないはずの部屋。
それなのに、そこには確かに、晃哉の気配が残っているような気がした。
唯は泣きながら、澄香に話し始めた。
「澄香……ここを入るとね、ここにDJブースがあったの」
何もない空間を指さす。
「後ろの押し入れには、レコードが山のようにあってね……星型の照明が、ゆらゆら揺れてて……」
声を詰まらせながら、唯は少しずつ記憶をたどっていく。
「うん……」
澄香は、静かに頷いた。
「あ、こっちはね、テーブルがあって、ソファーがあったの。私、いつもこっちに座って……こうちゃんは、ここ」
唯は、何もない床の上に、それぞれの居場所を描くように手を動かした。
「それでね、ここにテレビがあって……上の棚には、スター・ウォーズのフィギュアが飾ってあったの。テレビの隣には、私があげた観葉植物があって……」
ひとつ、またひとつ。
思い出すたびに、涙が溢れた。
家具の配置も。
照明の形も。
晃哉がいつも座っていた場所も。
唯の中には、何ひとつ失われずに残っていた。
澄香も、いつしか涙を流していた。
「うん……」
それしか言えなかった。
唯は、何もない部屋を見渡した。
そこには、確かに二人が過ごした時間があった。
笑ったことも。
ふざけ合ったことも。
音楽を聴いたことも。
何でもない話をしながら、同じ時間を過ごしたことも。
全部、この部屋にあった。
それなのに。
「……おかしいよね……」
唯の声が、かすかに震えた。
「私、全部覚えてるよ?」
涙が頬を伝い、顎から落ちた。
「服を片付けてた場所も、何もかもわかるのに……」
空っぽの押し入れを見つめる。
そこに、晃哉の服が並んでいたことを覚えている。
目を閉じれば、今でも鮮明に浮かんでくる。
なのに。
「……なんで……なんで、何もないのかな……」
*
ふと、澄香が何かを思い出したように玄関へ向かった。
「唯!」
呼ばれて、唯が振り返る。
「晃哉さん、手紙、見たと思う」
澄香は、少しでも唯を安心させるように言った。
「ポストに手紙、なかったよ。だから……唯の気持ち、ちゃんと届いたんだよ」
唯は、その場にゆっくりと座り込んだ。
「……そっか……」
小さく頷く。
「……でも、何も連絡なかったな……」
澄香は、慌てて言葉を重ねた。
「……気持ちは届いてるよ! 連絡だって、いつか落ち着いたら来るかもしれない」
「っ、来ないよ……」
唯は、首を横に振った。
「奥さんと暮らすんだよ……?」
声が震える。
「何もなかったみたいに……ここでのことなんて、全部忘れて……」
涙が、また溢れた。
「きっと、私のことも忘れちゃうんだよ……」
晃哉は、もうこの部屋には戻ってこない。
ここで過ごした時間を胸に抱えたまま、別の場所で暮らしていく。
自分の知らない毎日を生きていく。
その隣には、奥さんがいる。
自分の知らない晃哉の顔を見て、自分の知らない話をして、何事もなかったように笑うのだろう。
その日常の中に、唯の居場所はない。
「……まだわからないよ!」
澄香が、必死に言った。
「期待して待たなくていい。でも……わからないじゃん」
確かに、未来のことなんて誰にもわからない。
けれど、今の唯には、そんなわずかな可能性にすがって生きていくことさえ苦しかった。
「……もう、ダメなの……」
かすれた声が、空っぽの部屋に落ちた。
「私、こうちゃんの家に泊まる日は、ここで制服に着替えて仕事に行ってたの……」
唯は、膝の上で両手を握りしめた。
「その制服を着ることさえ、今はできない……」
涙が止まらない。
「携帯電話だって、持って歩けないの。連絡が来てないか、気になって……」
画面を見てしまう。
何もないとわかっているのに、確認せずにはいられない。
そんな期待をする自分が嫌だった。
「……連絡を待ってしまう自分が、おかしくなりそう……」
澄香は、唯の隣に膝をついた。
「唯、少しは食べないと……」
優しく背中に手を添える。
「唯が辛いと、私も辛いよ。少しずつでいいから。ね?」
その言葉を聞いた途端、唯の中で何かが崩れた。
「……どうして……?」
顔を覆い、声を絞り出す。
「どうして……まだ、こんなにこうちゃんの匂いがするのに……」
嗚咽が漏れる。
「なんで何もないの……?」
晃哉の匂いだけが残っている。
まるで、ついさっきまでここにいたかのように。
「なんで……こうちゃん、いないの……?」
もう、耐えられなかった。
唯は、その場で泣き崩れた。
「す、すみか……ごめんね……ごめん……っ」
謝ろうとしても、言葉にならない。
「うぁぁぁぁ……っ」
堰を切ったように、声が溢れた。
幼い子どものように。
唯は、泣いた。
泣いて、泣いて。
どれだけ泣いても、晃哉は帰ってこなかった。
澄香は、そんな唯を黙って抱きしめていた。
「唯……唯、大丈夫。大丈夫だから……」
何度も、何度も。
けれど、本当に大丈夫なのかどうかは、澄香にもわからなかった。
ただ、今はこうして抱きしめることしかできなかった。
*
泣き疲れて、気がつけば夕方になっていた。
窓の外の光が、少しずつ薄くなっている。
唯は、ぼんやりとした表情で部屋を見渡した。
そして、ふと思い出したように呟いた。
「……こうちゃん、もう地元、着いたかな……」
その声には、まだ晃哉がどこかで生きているという事実に、すがるような響きがあった。
唯は澄香を見つめ、弱々しく笑った。
「……ごめんね、澄香。付き合わせちゃって……」
澄香は、少しだけ眉を寄せた。
「何言ってんの」
そして、いつもの調子を取り戻そうとするように笑った。
「私がいたいから、いるの」
唯は黙って澄香を見た。
「唯はいつも人のこと考えてさ……。こんなときぐらい、唯が気の済むまで好きにしていいんだよ」
澄香は、唯の手を握った。
「もうすぐ暗くなるから、今日は帰ろう? また来たくなったら、いつでも私、付き合うから」
少し間を置いて、わざと明るい声を出す。
「ほら、私、今プータローだし(笑)」
唯は、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑顔と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。
けれど澄香は、それ以上何も言わなかった。
二人は、ゆっくりと玄関へ向かった。
そのときだった。
唯の目に、台所に置かれた一枚の皿が映った。
何もない部屋の中に、ぽつんと残された皿。
唯は、足を止めた。
「……これ……」
近づいて、そっと手に取る。
見覚えがあった。
忘れるはずもなかった。
「これ……私がチーズケーキ持ってきたときの……」
声が、震えた。
あの日、晃哉の誕生日。
部屋から、家具も、服も、生活の跡も消えていた。
けれど、この皿だけが残っていた。
唯は、胸に大事に抱いたまま、部屋を出た。
鉄の扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた。
晃哉の匂いだけが残る部屋。
そこにもう、晃哉はいない。
そのことを、唯はようやく実感し始めていた。
*
澄香と別れたあと、唯は一人で、もう一度晃哉の部屋へ向かった。
もう一度だけ、あの匂いに包まれたかった。
玄関の扉を開ける。
「……ただいま……」
小さく呟き、部屋に入る。
真っ暗な室内には、窓から差し込む月明かりだけが伸びていた。
家具のあった場所に、淡い光が落ちている。
唯は、その場に立ち尽くした。
そして、ゆっくりと柱のそばに座り込んだ。
「……こうちゃん……」
涙が、頬を伝った。
「私……おかしくなっちゃいそうだよ……」
返事はない。
「……会いたいよ……」
どれだけ名前を呼んでも、声が枯れるまで泣いても、もうあの声は聞こえない。
「どうして……どこにもいないの……?」
空っぽの部屋に、唯の声だけが響いた。
晃哉がいた場所。
二人が過ごした場所。
もう二度と、あの頃と同じ形には戻らない場所。
唯は、そこでひとしきり泣いた。
泣きながら、何度も何度も晃哉を呼んだ。
やがて涙が落ち着くと、唯はゆっくりと立ち上がった。
最後にもう一度、何もない部屋を見渡す。
そして、静かに社宅を後にした。
*
ねぇ、こうちゃん。
仕事にも行けなくなって、何も食べられなくなって。
そんなふうに弱ってしまった私を見たら、こうちゃんは怒るかな?
「何やってんの、唯」
そう言って、困ったように笑うかな。
それとも、いつものように頭を撫でてくれるかな。
あの頃の私はね、こうちゃんがいなくなってから、たくさんの人に心配をかけたんだよ。
朝、目が覚めても、何をしたらいいのかわからなかった。
仕事に行こうとしても、制服を着ることさえできなかった。
ご飯も食べられなくて、ただ泣いていた。
生きているのに、生きた心地がしなかった。
自分の身体の中から、何か大切なものがごっそり抜け落ちてしまったみたいだった。
どうしたら、この苦しみから逃れられるのか。
どうしたら、こうちゃんのいない毎日を生きていけるのか。
あの頃の私には、何ひとつわからなかった。
ただ、こうちゃんに会いたかった。
もう一度、声が聞きたかった。
もう一度、笑ってほしかった。
それだけだったのに。
*
あの日。
どうして、こうちゃんの部屋には鍵が掛かっていなかったんだろう。
今でも、不思議に思うことがあるんだよ。
いつもみたいにドアノブを回したら、扉が開いた。
もう誰もいないはずの部屋に、私は入ることができた。
あのときの私は、それを神様からのプレゼントなんだと思っていたんだ。
最後に、もう一度だけ。
こうちゃんのいた場所に、帰らせてもらえたんだって。
だって、あの部屋には、こうちゃんの匂いが残っていたから。
その匂いだけが、あの頃の私を支えていた。
何もない部屋に座り込んで、どれくらい泣いたんだろう。
もう覚えていない。
ただ、毎日部屋に行ったことだけは覚えている。
家具がなくても、照明がなくても、そこにあったものは全部、私の中に残っていた。
三日ほど経った頃…
いつものように部屋へ行って、ドアノブに手を掛けた。
回しても、扉は開かなかった。
鍵が、掛かっていた。
あの日、開いていた扉は、もう二度と私を中へ入れてはくれなかった。
まるで、そこで本当に終わりだと告げられたみたいだった。
*
幼かった私にとって、こうちゃんは、世界のすべてだった。
一緒に笑って。
一緒に音楽を聴いて。
同じ部屋で、それぞれの時間を過ごして。
そんな、誰かにとっては当たり前のことが、私には何より幸せだった。
だから、こうちゃんがいなくなっただけで、私はこんなにも崩れてしまった。
自分の半身を失くしたみたいだった。
どこへ行っても、何をしていても、心の真ん中にぽっかりと穴が開いていた。
笑わなきゃいけないときには笑った。
仕事にも、いつか戻った。
少しずつ食べられるようにもなった。
そうやって、周りから見れば、いつもの私に戻っていったのかもしれない。
でも、本当は違った。
あの頃の私は、ただ、自分を立て直すことだけで精いっぱいだった。
何もないあの部屋で、何度も泣いて。
どうしようもないほど落ち込んで。
それでも、明日を迎えなければいけなくて。
そうやって、ひとつずつ、どうにか生きてきた。
こうちゃんがいなくなった世界で、こうちゃんのいない毎日を生きることを、少しずつ覚えていった。
忘れたわけじゃない。
平気になったわけでもない。
ただ、泣きながらでも、生きていくしかなかったんだよ。
ねぇ、こうちゃん。
こんな思いをするのなら。
こんなにも苦しくて、こんなにも寂しくて。
いなくなったあとまで、こんなに長く、あなたを想い続けるのなら。
最初から、出逢わなければよかったのかな。
何度も、そう思いかけた。
出逢わなければ、こんなに苦しまなくて済んだ。
好きにならなければ、こんなに泣かなくて済んだ。
一緒に過ごした時間がなければ、何もない部屋を見て、こんなにも胸を引き裂かれることもなかった。
……でもね。
それでも、私は。
こうちゃんと出逢ったことを、一度だって後悔したことはなかったんだよ。
どんなに辛くても。
どんなに苦しくても。
こうちゃんと出逢えたこと。
こうちゃんを好きになったこと。
こうちゃんと過ごした、あの時間。
その全部を、なかったことになんてしたくなかった。
だって、あの頃の私は、本当に幸せだったから。
こうちゃんが笑ってくれるだけで嬉しかった。
名前を呼んでくれるだけで、胸がいっぱいになった。
好きだと言ってくれることが、何よりも幸せだった。
あの部屋で過ごした時間は、確かに私のものだった。
たとえ、こうちゃんが遠くへ行ってしまっても。
たとえ、あの部屋から何もかもなくなってしまっても。
私の中には、ずっと残っている。
今でも、全部覚えているんだよ。
あなたの匂いにすがって。
あなたのいた場所を見つめて。
もう一度だけ会いたいと、何度も願って。
……ねぇ、こうちゃん。
あの頃の私は、あなたがいないだけで、世界が終わってしまったように感じていたんだよ。
それほどまでに、あなたがすべてだった。
それほどまでに、あなたを愛していたんだよ。
朝、目を覚ました唯は、いつものように仕事へ行く支度をしようとした。
ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。
ハンガーに掛けられた制服に手を伸ばし、袖を通そうとした、その瞬間だった。
ぽろり、と。
堪えていたわけでもないのに、唯の瞳から涙が溢れた。
「……着れないよ……」
制服を胸元に抱きしめる。
晃哉が、似合うと言ってくれた制服だった。
晃哉の部屋で朝を迎え、そこで着替えてから仕事へ向かった日も、何度もあった。
眠そうな顔で見送ってくれたこと。
出勤前の慌ただしい時間。
「いってきます」と言って部屋を出る自分。
そんな何気ない朝のひとつひとつに、晃哉がいた。
もう、いない。
頭ではわかっている。
昨日まであったものが、今日にはなくなってしまうことだって。
けれど、心だけがどうしても追いつかなかった。
制服を握りしめたまま、唯はその場にしゃがみ込んだ。
「……こうちゃん……」
名前を呼んでも、返事はない。
会社にはインフルエンザだと説明して、仕事を休んだ。
本当のことなど、言えるはずがなかった。
今頃、晃哉は飛行機に乗っているのだろうか。
それとも、まだこの街のどこかにいるのだろうか。
考えたところで、答えなんて出るはずもなかった。
*
午後になると、澄香が家に来た。
唯の顔を見るなり、澄香は言葉を失った。
泣き腫らした目。
生気のない顔。
食べ物もほとんど受け付けず、短い時間で目に見えて痩せてしまった身体。
それでも唯は、澄香に力なく笑いかけた。
「……行こっか」
その声があまりにも弱々しくて、澄香は胸の奥が締めつけられた。
二人は、晃哉が暮らしていた社宅へ向かった。
何度も通った道。
何度も晃哉に会いに行った道。
社宅に着くと、唯はゆっくりと車を降りた。
唯は玄関の前に立ち、インターホンを押した。
ピンポーン。
部屋の中からは何の音もしなかった。
唯は扉を見つめたまま、ぽつりと話し始めた。
「いつもね、私が来る日は、こうちゃん、鍵を開けててくれたんだよ……」
澄香は黙って聞いていた。
「だから私、いつも勝手に入って……ただいま、って言ってたの」
その声には、懐かしさと寂しさが滲んでいた。
唯は、そっとドアノブに手を掛けた。
すると――
ギイッ。
鉄の扉が、音を立てて開いた。
「……えっ?!」
唯と澄香は、同時に目を見開いた。
鍵が、掛かっていなかった。
二人は顔を見合わせ、それから恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。
玄関に立ち尽くす。
そこには、何もなかった。
家具も。
照明も。
晃哉の生活の跡も。
すべてが、なくなっていた。
ただ、空っぽの部屋だけが、二人の目の前に広がっていた。
「……運命?」
澄香が、ぽつりと呟いた。
けれど、唯には何も答えられなかった。
どうして鍵が開いていたのか。
どうして、最後にもう一度だけ、この部屋に入ることができたのか。
そんなことを考える余裕さえなかった。
唯は一歩、部屋の中へ進んだ。
「……こうちゃん……」
声が震える。
「こうちゃん……ただいま……」
いつものように。
まるで、そこに晃哉がいるかのように。
唯は涙を流しながら、ゆっくりと部屋の奥へ歩いていった。
そして、ふと立ち止まる。
「……こうちゃんの匂いがする……」
誰もいないはずの部屋。
何も残っていないはずの部屋。
それなのに、そこには確かに、晃哉の気配が残っているような気がした。
唯は泣きながら、澄香に話し始めた。
「澄香……ここを入るとね、ここにDJブースがあったの」
何もない空間を指さす。
「後ろの押し入れには、レコードが山のようにあってね……星型の照明が、ゆらゆら揺れてて……」
声を詰まらせながら、唯は少しずつ記憶をたどっていく。
「うん……」
澄香は、静かに頷いた。
「あ、こっちはね、テーブルがあって、ソファーがあったの。私、いつもこっちに座って……こうちゃんは、ここ」
唯は、何もない床の上に、それぞれの居場所を描くように手を動かした。
「それでね、ここにテレビがあって……上の棚には、スター・ウォーズのフィギュアが飾ってあったの。テレビの隣には、私があげた観葉植物があって……」
ひとつ、またひとつ。
思い出すたびに、涙が溢れた。
家具の配置も。
照明の形も。
晃哉がいつも座っていた場所も。
唯の中には、何ひとつ失われずに残っていた。
澄香も、いつしか涙を流していた。
「うん……」
それしか言えなかった。
唯は、何もない部屋を見渡した。
そこには、確かに二人が過ごした時間があった。
笑ったことも。
ふざけ合ったことも。
音楽を聴いたことも。
何でもない話をしながら、同じ時間を過ごしたことも。
全部、この部屋にあった。
それなのに。
「……おかしいよね……」
唯の声が、かすかに震えた。
「私、全部覚えてるよ?」
涙が頬を伝い、顎から落ちた。
「服を片付けてた場所も、何もかもわかるのに……」
空っぽの押し入れを見つめる。
そこに、晃哉の服が並んでいたことを覚えている。
目を閉じれば、今でも鮮明に浮かんでくる。
なのに。
「……なんで……なんで、何もないのかな……」
*
ふと、澄香が何かを思い出したように玄関へ向かった。
「唯!」
呼ばれて、唯が振り返る。
「晃哉さん、手紙、見たと思う」
澄香は、少しでも唯を安心させるように言った。
「ポストに手紙、なかったよ。だから……唯の気持ち、ちゃんと届いたんだよ」
唯は、その場にゆっくりと座り込んだ。
「……そっか……」
小さく頷く。
「……でも、何も連絡なかったな……」
澄香は、慌てて言葉を重ねた。
「……気持ちは届いてるよ! 連絡だって、いつか落ち着いたら来るかもしれない」
「っ、来ないよ……」
唯は、首を横に振った。
「奥さんと暮らすんだよ……?」
声が震える。
「何もなかったみたいに……ここでのことなんて、全部忘れて……」
涙が、また溢れた。
「きっと、私のことも忘れちゃうんだよ……」
晃哉は、もうこの部屋には戻ってこない。
ここで過ごした時間を胸に抱えたまま、別の場所で暮らしていく。
自分の知らない毎日を生きていく。
その隣には、奥さんがいる。
自分の知らない晃哉の顔を見て、自分の知らない話をして、何事もなかったように笑うのだろう。
その日常の中に、唯の居場所はない。
「……まだわからないよ!」
澄香が、必死に言った。
「期待して待たなくていい。でも……わからないじゃん」
確かに、未来のことなんて誰にもわからない。
けれど、今の唯には、そんなわずかな可能性にすがって生きていくことさえ苦しかった。
「……もう、ダメなの……」
かすれた声が、空っぽの部屋に落ちた。
「私、こうちゃんの家に泊まる日は、ここで制服に着替えて仕事に行ってたの……」
唯は、膝の上で両手を握りしめた。
「その制服を着ることさえ、今はできない……」
涙が止まらない。
「携帯電話だって、持って歩けないの。連絡が来てないか、気になって……」
画面を見てしまう。
何もないとわかっているのに、確認せずにはいられない。
そんな期待をする自分が嫌だった。
「……連絡を待ってしまう自分が、おかしくなりそう……」
澄香は、唯の隣に膝をついた。
「唯、少しは食べないと……」
優しく背中に手を添える。
「唯が辛いと、私も辛いよ。少しずつでいいから。ね?」
その言葉を聞いた途端、唯の中で何かが崩れた。
「……どうして……?」
顔を覆い、声を絞り出す。
「どうして……まだ、こんなにこうちゃんの匂いがするのに……」
嗚咽が漏れる。
「なんで何もないの……?」
晃哉の匂いだけが残っている。
まるで、ついさっきまでここにいたかのように。
「なんで……こうちゃん、いないの……?」
もう、耐えられなかった。
唯は、その場で泣き崩れた。
「す、すみか……ごめんね……ごめん……っ」
謝ろうとしても、言葉にならない。
「うぁぁぁぁ……っ」
堰を切ったように、声が溢れた。
幼い子どものように。
唯は、泣いた。
泣いて、泣いて。
どれだけ泣いても、晃哉は帰ってこなかった。
澄香は、そんな唯を黙って抱きしめていた。
「唯……唯、大丈夫。大丈夫だから……」
何度も、何度も。
けれど、本当に大丈夫なのかどうかは、澄香にもわからなかった。
ただ、今はこうして抱きしめることしかできなかった。
*
泣き疲れて、気がつけば夕方になっていた。
窓の外の光が、少しずつ薄くなっている。
唯は、ぼんやりとした表情で部屋を見渡した。
そして、ふと思い出したように呟いた。
「……こうちゃん、もう地元、着いたかな……」
その声には、まだ晃哉がどこかで生きているという事実に、すがるような響きがあった。
唯は澄香を見つめ、弱々しく笑った。
「……ごめんね、澄香。付き合わせちゃって……」
澄香は、少しだけ眉を寄せた。
「何言ってんの」
そして、いつもの調子を取り戻そうとするように笑った。
「私がいたいから、いるの」
唯は黙って澄香を見た。
「唯はいつも人のこと考えてさ……。こんなときぐらい、唯が気の済むまで好きにしていいんだよ」
澄香は、唯の手を握った。
「もうすぐ暗くなるから、今日は帰ろう? また来たくなったら、いつでも私、付き合うから」
少し間を置いて、わざと明るい声を出す。
「ほら、私、今プータローだし(笑)」
唯は、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑顔と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。
けれど澄香は、それ以上何も言わなかった。
二人は、ゆっくりと玄関へ向かった。
そのときだった。
唯の目に、台所に置かれた一枚の皿が映った。
何もない部屋の中に、ぽつんと残された皿。
唯は、足を止めた。
「……これ……」
近づいて、そっと手に取る。
見覚えがあった。
忘れるはずもなかった。
「これ……私がチーズケーキ持ってきたときの……」
声が、震えた。
あの日、晃哉の誕生日。
部屋から、家具も、服も、生活の跡も消えていた。
けれど、この皿だけが残っていた。
唯は、胸に大事に抱いたまま、部屋を出た。
鉄の扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた。
晃哉の匂いだけが残る部屋。
そこにもう、晃哉はいない。
そのことを、唯はようやく実感し始めていた。
*
澄香と別れたあと、唯は一人で、もう一度晃哉の部屋へ向かった。
もう一度だけ、あの匂いに包まれたかった。
玄関の扉を開ける。
「……ただいま……」
小さく呟き、部屋に入る。
真っ暗な室内には、窓から差し込む月明かりだけが伸びていた。
家具のあった場所に、淡い光が落ちている。
唯は、その場に立ち尽くした。
そして、ゆっくりと柱のそばに座り込んだ。
「……こうちゃん……」
涙が、頬を伝った。
「私……おかしくなっちゃいそうだよ……」
返事はない。
「……会いたいよ……」
どれだけ名前を呼んでも、声が枯れるまで泣いても、もうあの声は聞こえない。
「どうして……どこにもいないの……?」
空っぽの部屋に、唯の声だけが響いた。
晃哉がいた場所。
二人が過ごした場所。
もう二度と、あの頃と同じ形には戻らない場所。
唯は、そこでひとしきり泣いた。
泣きながら、何度も何度も晃哉を呼んだ。
やがて涙が落ち着くと、唯はゆっくりと立ち上がった。
最後にもう一度、何もない部屋を見渡す。
そして、静かに社宅を後にした。
*
ねぇ、こうちゃん。
仕事にも行けなくなって、何も食べられなくなって。
そんなふうに弱ってしまった私を見たら、こうちゃんは怒るかな?
「何やってんの、唯」
そう言って、困ったように笑うかな。
それとも、いつものように頭を撫でてくれるかな。
あの頃の私はね、こうちゃんがいなくなってから、たくさんの人に心配をかけたんだよ。
朝、目が覚めても、何をしたらいいのかわからなかった。
仕事に行こうとしても、制服を着ることさえできなかった。
ご飯も食べられなくて、ただ泣いていた。
生きているのに、生きた心地がしなかった。
自分の身体の中から、何か大切なものがごっそり抜け落ちてしまったみたいだった。
どうしたら、この苦しみから逃れられるのか。
どうしたら、こうちゃんのいない毎日を生きていけるのか。
あの頃の私には、何ひとつわからなかった。
ただ、こうちゃんに会いたかった。
もう一度、声が聞きたかった。
もう一度、笑ってほしかった。
それだけだったのに。
*
あの日。
どうして、こうちゃんの部屋には鍵が掛かっていなかったんだろう。
今でも、不思議に思うことがあるんだよ。
いつもみたいにドアノブを回したら、扉が開いた。
もう誰もいないはずの部屋に、私は入ることができた。
あのときの私は、それを神様からのプレゼントなんだと思っていたんだ。
最後に、もう一度だけ。
こうちゃんのいた場所に、帰らせてもらえたんだって。
だって、あの部屋には、こうちゃんの匂いが残っていたから。
その匂いだけが、あの頃の私を支えていた。
何もない部屋に座り込んで、どれくらい泣いたんだろう。
もう覚えていない。
ただ、毎日部屋に行ったことだけは覚えている。
家具がなくても、照明がなくても、そこにあったものは全部、私の中に残っていた。
三日ほど経った頃…
いつものように部屋へ行って、ドアノブに手を掛けた。
回しても、扉は開かなかった。
鍵が、掛かっていた。
あの日、開いていた扉は、もう二度と私を中へ入れてはくれなかった。
まるで、そこで本当に終わりだと告げられたみたいだった。
*
幼かった私にとって、こうちゃんは、世界のすべてだった。
一緒に笑って。
一緒に音楽を聴いて。
同じ部屋で、それぞれの時間を過ごして。
そんな、誰かにとっては当たり前のことが、私には何より幸せだった。
だから、こうちゃんがいなくなっただけで、私はこんなにも崩れてしまった。
自分の半身を失くしたみたいだった。
どこへ行っても、何をしていても、心の真ん中にぽっかりと穴が開いていた。
笑わなきゃいけないときには笑った。
仕事にも、いつか戻った。
少しずつ食べられるようにもなった。
そうやって、周りから見れば、いつもの私に戻っていったのかもしれない。
でも、本当は違った。
あの頃の私は、ただ、自分を立て直すことだけで精いっぱいだった。
何もないあの部屋で、何度も泣いて。
どうしようもないほど落ち込んで。
それでも、明日を迎えなければいけなくて。
そうやって、ひとつずつ、どうにか生きてきた。
こうちゃんがいなくなった世界で、こうちゃんのいない毎日を生きることを、少しずつ覚えていった。
忘れたわけじゃない。
平気になったわけでもない。
ただ、泣きながらでも、生きていくしかなかったんだよ。
ねぇ、こうちゃん。
こんな思いをするのなら。
こんなにも苦しくて、こんなにも寂しくて。
いなくなったあとまで、こんなに長く、あなたを想い続けるのなら。
最初から、出逢わなければよかったのかな。
何度も、そう思いかけた。
出逢わなければ、こんなに苦しまなくて済んだ。
好きにならなければ、こんなに泣かなくて済んだ。
一緒に過ごした時間がなければ、何もない部屋を見て、こんなにも胸を引き裂かれることもなかった。
……でもね。
それでも、私は。
こうちゃんと出逢ったことを、一度だって後悔したことはなかったんだよ。
どんなに辛くても。
どんなに苦しくても。
こうちゃんと出逢えたこと。
こうちゃんを好きになったこと。
こうちゃんと過ごした、あの時間。
その全部を、なかったことになんてしたくなかった。
だって、あの頃の私は、本当に幸せだったから。
こうちゃんが笑ってくれるだけで嬉しかった。
名前を呼んでくれるだけで、胸がいっぱいになった。
好きだと言ってくれることが、何よりも幸せだった。
あの部屋で過ごした時間は、確かに私のものだった。
たとえ、こうちゃんが遠くへ行ってしまっても。
たとえ、あの部屋から何もかもなくなってしまっても。
私の中には、ずっと残っている。
今でも、全部覚えているんだよ。
あなたの匂いにすがって。
あなたのいた場所を見つめて。
もう一度だけ会いたいと、何度も願って。
……ねぇ、こうちゃん。
あの頃の私は、あなたがいないだけで、世界が終わってしまったように感じていたんだよ。
それほどまでに、あなたがすべてだった。
それほどまでに、あなたを愛していたんだよ。