残響
昨日から、何度も着信が入っていた。
けれど、唯は携帯を手に取ることさえできなかった。
画面に並ぶ、澄香の名前。
何度目かの着信で、ようやく震える指が通話ボタンに触れた。
「もしもし?! 唯?!」
耳元から飛び込んできた澄香の声に、唯はしばらく何も言えなかった。
「……ごめん、澄香……」
「大丈夫? 仕事は?!」
「……休んじゃった……」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「今から行くから!」
それだけ言って、澄香は電話を切った。
しばらくして、家の前に車が止まった。
唯は重たい身体を引きずるようにして外へ出る。
助手席のドアが開く。
「乗って」
澄香はそれ以上、何も聞かなかった。
唯が助手席に乗り込むと、シートベルトを締める音だけが車内に響いた。
車が走り出す。
窓の外を流れていく景色を、唯はぼんやり眺めていた。
昨日のことを、少しずつ澄香に話した。
晃哉が何も言わずに帰ること。
いつもの部屋。
いつもの場所。
そして――そこから突然、いなくなるという現実。
話しているうちに、澄香の表情も変わっていった。
「……こうちゃん家、見に行こう!」
「え……?」
「私の車だし、バレないって!」
澄香はそう言って、ハンドルを握り直した。
唯は何も答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
車は、晃哉の暮らしていた社宅へ向かっていった。
やがて、見慣れた建物が見えてくる。
その前に――
大きな引っ越しトラックが止まっていた。
作業員が荷物を運び出している。
段ボール。
家具。
見慣れた場所から、誰かの生活が少しずつ消えていく。
唯は、息をすることさえ忘れたように、その光景を見つめた。
「……マジなんだ……」
澄香が小さく呟いた。
思わず、ため息が漏れる。
唯は何も言わなかった。
ただ、窓越しにその光景を見ていた。
本当に、帰ってしまう。
昨日までそこにあったはずの晃哉の生活が、今、トラックの中へ運ばれていく。
現実なのだと、目の前に突きつけられていた。
澄香はそれ以上、社宅の前に車を停めていることができなかった。
そのまま車を走らせる。
そして二人が向かったのは、唯が何かあるたびに訪れていた海だった。
海沿いに車を停める。
窓の外には、静かな海が広がっていた。
いつもなら、ここへ来れば少しだけ気持ちが落ち着いた。
けれど今日は、何も感じなかった。
「……こうちゃん、なんで……」
澄香の声が震えた。
唯はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で答えた。
「……しょうがないよ……」
その言葉を口にした瞬間だった。
晃哉の顔が浮かんだ。
笑っていた顔。
自分を見つめる目。
くだらない話をして笑った時間。
何気なく触れた手。
大切にしてくれた記憶。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に込み上げてくる。
「……しょうがない……」
唯は呟いた。
けれど、次の瞬間。
「しょうがないって……なに……」
声が震えた。
「……あの日が最後だったなんて……」
唇を噛む。
「なんで何も言ってくれなかったの……」
目の前の海が滲んだ。
「私……そんなにどうでもいい?」
澄香は何も言わず、唯を見つめていた。
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「……言えなかったんじゃないかなって、私は思う」
唯は黙ったままだった。
「だってさ、どうでもよかったら……」
澄香は少し考えてから続けた。
「『地元帰るね。またタイミング合ったら会おうね』くらいで、普通に言えるじゃん」
唯の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「でも……大事な人ほど、言えないことってあると思うんだよね」
澄香は海の方へ視線を向けた。
「『さよなら』とか、『今日で帰るから』とか……」
少しだけ間を置く。
「私だったら、たぶん言えない」
唯がゆっくり顔を上げる。
「だって……さよならしたくないもん」
その言葉が、唯の胸に刺さった。
「だから、こうちゃんも……『またね』って言うしかなかったんじゃないかなって、私は思う」
「……」
「別に、こうちゃんのこと庇ってるわけじゃないよ?」
澄香は唯を見る。
「不器用すぎるし。もっとちゃんと話せばいいのにって、私も思うよ」
唯は何も答えなかった。
ただ、バッグから煙草を取り出した。
一本を唇に咥え、火をつける。
煙が、ゆっくりと車内に広がった。
そして、唯は呟いた。
「……遊び」
「えっ?」
「最初から遊びだったんだよ」
声には、感情がなかった。
「だって、地元に奥さんいるんでしょ」
煙を吐く。
「こっちにいる間の遊び」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
そう思わなければ、耐えられなかった。
「唯、それは違うって」
澄香がすぐに否定する。
「確かに、結婚してるのに唯と一緒にいたのは間違ってると思うよ。でもさ……」
澄香は唯を見つめた。
「唯のこと、本当に好きだったと思う。失いたくなかったんじゃないかな」
唯は海を見たまま答えた。
「……でも、いなくなった」
その一言だけだった。
澄香は言葉を失った。
何を言えばいいのかわからなかった。
今の唯に届く言葉が、どこにも見つからない。
唯は煙草を指に挟んだまま、淡々と続けた。
「ヤレればよかったんじゃない?」
「……唯」
「都合がよかったんだよ」
自分を傷つけるために、一つずつ言葉を並べる。
「全部演技だったんだよ」
そして、乾いた笑いを浮かべた。
「俳優なれるんじゃない?」
「それだけは絶対違うから!」
澄香の声が強くなる。
「慰めとかじゃなくて、本当にそう思う」
唯は黙った。
「唯はさ、こうちゃんと一番一緒にいたじゃん」
澄香は、唯の目をまっすぐ見た。
「本当に……ただの遊びだったと思う?」
その瞬間だった。
唯の瞳から、一粒の涙が落ちた。
頬を伝い、膝へ落ちる。
止めようとしても、次から次へと溢れてくる。
「……最初から、いなくなるってわかってたのに……」
声が震えた。
「どうして出会っちゃったのかな……」
涙を拭うこともできない。
「なんでこんなに好きになっちゃったのかな……」
胸の奥にあった疑問が、次々に溢れ出す。
「全部嘘だったのかな……」
そして――
「もう……こうちゃんは唯いらないのかな……」
澄香は何も言わず、唯を抱きしめた。
小さな身体を、両腕で包み込む。
「唯……」
唯の肩が震える。
「こうちゃんに手紙書いたんでしょ?」
唯が顔を上げる。
「ポストに入れに行こう」
澄香は涙で濡れた唯の髪を撫でた。
「まだ部屋にいるうちに」
そして、思い出したように付け加える。
「大輔が言ってた。明後日からホテルに泊まって、そのまま地元に帰るらしいよ」
唯の胸が、また締め付けられた。
「だったら、後悔しないようにしよ」
澄香は唯の目を見た。
「言いたいこと、ちゃんと伝えよ?」
そして、優しく続ける。
「返事がなくてもいいじゃん。唯が伝えたいって思ったこと、ちゃんと届けようよ」
唯はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
---
夜になった。
二人はもう一度、社宅へ戻った。
昼間とは違う静けさがあった。
建物を見上げる。
晃哉の部屋には、明かりがついていなかった。
唯の足が止まる。
「……あ」
澄香が思い出したように呟いた。
「そういえば、今日夜勤だったね……」
唯は何も言わなかった。
澄香は唯の手を取った。
そのまま、二人でポストへ向かう。
唯の手には、一通の手紙。
何度も書き直した。
泣きながら書いた。
大好きだったこと。
大切だったこと。
離れたくないこと。
出逢えて幸せだったこと。
晃哉と過ごした日々が幸せだったこと。
そして――
全部に、ありがとうという気持ち。
最後に唯は、自分らしい言葉を書いた。
――こんなに世界一こうちゃんのこと大好きな女いないぞ!
便箋を封筒に入れる。
唯はしばらく、その封筒を見つめていた。
これを入れたら、本当に何かが終わってしまうような気がした。
それでも、澄香がそっと背中を押す。
唯はポストの口へ手紙を入れた。
小さな音を立てて、手紙が中へ落ちていく。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「唯?」
澄香が静かに呼ぶ。
「絶対、違うからね」
唯は顔を上げた。
「こうちゃんも、きっと苦しいと思うよ」
澄香は少し考えるように言葉を探した。
「私たち、まだガキかもしれないけどさ……」
一度、息を吐く。
「自分が同じ立場だったら、頭で考えた通りにできるのかなって、私も考えてみたんだよね」
唯は黙って聞いている。
「もちろん、現実を見なきゃいけないのも分かってるよ」
澄香は唯の手を握った。
「でもさ……どうしようもないくらい好きになっちゃったら、理屈通りになんてできないんじゃないかな」
「……」
「私だったら……もしかしたら、矛盾だらけのことしちゃうかもしれない」
唯は俯いた。
そして、小さく笑うように呟いた。
「うん……」
しばらくして、唯は海の方を見ながら続けた。
「でも、私……罰が当たったのかも」
「唯……」
「ずっとどこかで……知らない奥さんに」
声が詰まる。
「こっちにいる間だけでも、私とこうちゃん一緒にいさせてくださいって……勝手に願ってた」
自分でもわかっていた。
許されることではない。
それでも、好きだった。
離れられなかった。
「確かに……頭では分かってても……」
唯は涙を堪えながら呟く。
「私も離れられなかった……」
澄香は何も責めなかった。
ただ、隣にいた。
やがて澄香が言った。
「唯、明後日」
唯が顔を上げる。
「また一緒に社宅来よう」
澄香は唯の手を握った。
「私、ずっと一緒にいるから」
そして、少しだけ笑った。
「ポスト、見てみよ?」
唯はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
「今日はありがとう。澄香」
二人は並んで歩いた。
唯の足取りは、まだ重かった。
けれど、もう一人ではなかった。
---
ねぇ、こうちゃん。
こうちゃんを失うことが、こんなに辛かった。
だから私は――
こうちゃんを、最悪な人だと思わなきゃいられなかった。
そうしなければ、自分を保っていられなかったから。
全部嘘だった。
遊びだった。
私なんて、どうでもよかった。
そう思えば、少しは諦められると思った。
でも。
最後には、どうしても思い出してしまう。
私を大切にしてくれていた、こうちゃんのことを。
優しかったこうちゃん。
笑っていたこうちゃん。
私を見ていた、あの目。
私が知っているこうちゃんは――
そんな人じゃなかった。
だから私は、ずっと迷路の中にいた。
こうちゃんの言葉がないから。
どうして何も言わずに帰ったのか。
どうして最後に「さよなら」と言わなかったのか。
どうして――
あの日を最後にしたのか。
答えは、どこにもなかった。
明後日。
こうちゃんはいなくなる。
その事実だけが、胸の中を埋め尽くしていた。
もう、それだけで。
生きた心地がしなかった。
ねぇ、こうちゃん。
この時の私――
たぶん、人生で一番どん底だった。
何をしても苦しくて。
どこにいても、こうちゃんを探してしまって。
もう会えない。
もう連絡もない。
そんな現実を、どう受け入れればいいのかわからなかった。
でもね。
私、時間はかかったけど――
ちゃんと頑張って、乗り越えたんだよ。
会えないこうちゃんを。
連絡のないこうちゃんを。
忘れるために。
もう、ここで終わり。
そう思っていた。
本当に。
これで、終わったんだって。
そう思っていたのに――
まさか、この先。
もう一度、私の中でこうちゃんが動き出す日が来るなんて。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
けれど、唯は携帯を手に取ることさえできなかった。
画面に並ぶ、澄香の名前。
何度目かの着信で、ようやく震える指が通話ボタンに触れた。
「もしもし?! 唯?!」
耳元から飛び込んできた澄香の声に、唯はしばらく何も言えなかった。
「……ごめん、澄香……」
「大丈夫? 仕事は?!」
「……休んじゃった……」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「今から行くから!」
それだけ言って、澄香は電話を切った。
しばらくして、家の前に車が止まった。
唯は重たい身体を引きずるようにして外へ出る。
助手席のドアが開く。
「乗って」
澄香はそれ以上、何も聞かなかった。
唯が助手席に乗り込むと、シートベルトを締める音だけが車内に響いた。
車が走り出す。
窓の外を流れていく景色を、唯はぼんやり眺めていた。
昨日のことを、少しずつ澄香に話した。
晃哉が何も言わずに帰ること。
いつもの部屋。
いつもの場所。
そして――そこから突然、いなくなるという現実。
話しているうちに、澄香の表情も変わっていった。
「……こうちゃん家、見に行こう!」
「え……?」
「私の車だし、バレないって!」
澄香はそう言って、ハンドルを握り直した。
唯は何も答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
車は、晃哉の暮らしていた社宅へ向かっていった。
やがて、見慣れた建物が見えてくる。
その前に――
大きな引っ越しトラックが止まっていた。
作業員が荷物を運び出している。
段ボール。
家具。
見慣れた場所から、誰かの生活が少しずつ消えていく。
唯は、息をすることさえ忘れたように、その光景を見つめた。
「……マジなんだ……」
澄香が小さく呟いた。
思わず、ため息が漏れる。
唯は何も言わなかった。
ただ、窓越しにその光景を見ていた。
本当に、帰ってしまう。
昨日までそこにあったはずの晃哉の生活が、今、トラックの中へ運ばれていく。
現実なのだと、目の前に突きつけられていた。
澄香はそれ以上、社宅の前に車を停めていることができなかった。
そのまま車を走らせる。
そして二人が向かったのは、唯が何かあるたびに訪れていた海だった。
海沿いに車を停める。
窓の外には、静かな海が広がっていた。
いつもなら、ここへ来れば少しだけ気持ちが落ち着いた。
けれど今日は、何も感じなかった。
「……こうちゃん、なんで……」
澄香の声が震えた。
唯はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で答えた。
「……しょうがないよ……」
その言葉を口にした瞬間だった。
晃哉の顔が浮かんだ。
笑っていた顔。
自分を見つめる目。
くだらない話をして笑った時間。
何気なく触れた手。
大切にしてくれた記憶。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に込み上げてくる。
「……しょうがない……」
唯は呟いた。
けれど、次の瞬間。
「しょうがないって……なに……」
声が震えた。
「……あの日が最後だったなんて……」
唇を噛む。
「なんで何も言ってくれなかったの……」
目の前の海が滲んだ。
「私……そんなにどうでもいい?」
澄香は何も言わず、唯を見つめていた。
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「……言えなかったんじゃないかなって、私は思う」
唯は黙ったままだった。
「だってさ、どうでもよかったら……」
澄香は少し考えてから続けた。
「『地元帰るね。またタイミング合ったら会おうね』くらいで、普通に言えるじゃん」
唯の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「でも……大事な人ほど、言えないことってあると思うんだよね」
澄香は海の方へ視線を向けた。
「『さよなら』とか、『今日で帰るから』とか……」
少しだけ間を置く。
「私だったら、たぶん言えない」
唯がゆっくり顔を上げる。
「だって……さよならしたくないもん」
その言葉が、唯の胸に刺さった。
「だから、こうちゃんも……『またね』って言うしかなかったんじゃないかなって、私は思う」
「……」
「別に、こうちゃんのこと庇ってるわけじゃないよ?」
澄香は唯を見る。
「不器用すぎるし。もっとちゃんと話せばいいのにって、私も思うよ」
唯は何も答えなかった。
ただ、バッグから煙草を取り出した。
一本を唇に咥え、火をつける。
煙が、ゆっくりと車内に広がった。
そして、唯は呟いた。
「……遊び」
「えっ?」
「最初から遊びだったんだよ」
声には、感情がなかった。
「だって、地元に奥さんいるんでしょ」
煙を吐く。
「こっちにいる間の遊び」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
そう思わなければ、耐えられなかった。
「唯、それは違うって」
澄香がすぐに否定する。
「確かに、結婚してるのに唯と一緒にいたのは間違ってると思うよ。でもさ……」
澄香は唯を見つめた。
「唯のこと、本当に好きだったと思う。失いたくなかったんじゃないかな」
唯は海を見たまま答えた。
「……でも、いなくなった」
その一言だけだった。
澄香は言葉を失った。
何を言えばいいのかわからなかった。
今の唯に届く言葉が、どこにも見つからない。
唯は煙草を指に挟んだまま、淡々と続けた。
「ヤレればよかったんじゃない?」
「……唯」
「都合がよかったんだよ」
自分を傷つけるために、一つずつ言葉を並べる。
「全部演技だったんだよ」
そして、乾いた笑いを浮かべた。
「俳優なれるんじゃない?」
「それだけは絶対違うから!」
澄香の声が強くなる。
「慰めとかじゃなくて、本当にそう思う」
唯は黙った。
「唯はさ、こうちゃんと一番一緒にいたじゃん」
澄香は、唯の目をまっすぐ見た。
「本当に……ただの遊びだったと思う?」
その瞬間だった。
唯の瞳から、一粒の涙が落ちた。
頬を伝い、膝へ落ちる。
止めようとしても、次から次へと溢れてくる。
「……最初から、いなくなるってわかってたのに……」
声が震えた。
「どうして出会っちゃったのかな……」
涙を拭うこともできない。
「なんでこんなに好きになっちゃったのかな……」
胸の奥にあった疑問が、次々に溢れ出す。
「全部嘘だったのかな……」
そして――
「もう……こうちゃんは唯いらないのかな……」
澄香は何も言わず、唯を抱きしめた。
小さな身体を、両腕で包み込む。
「唯……」
唯の肩が震える。
「こうちゃんに手紙書いたんでしょ?」
唯が顔を上げる。
「ポストに入れに行こう」
澄香は涙で濡れた唯の髪を撫でた。
「まだ部屋にいるうちに」
そして、思い出したように付け加える。
「大輔が言ってた。明後日からホテルに泊まって、そのまま地元に帰るらしいよ」
唯の胸が、また締め付けられた。
「だったら、後悔しないようにしよ」
澄香は唯の目を見た。
「言いたいこと、ちゃんと伝えよ?」
そして、優しく続ける。
「返事がなくてもいいじゃん。唯が伝えたいって思ったこと、ちゃんと届けようよ」
唯はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
---
夜になった。
二人はもう一度、社宅へ戻った。
昼間とは違う静けさがあった。
建物を見上げる。
晃哉の部屋には、明かりがついていなかった。
唯の足が止まる。
「……あ」
澄香が思い出したように呟いた。
「そういえば、今日夜勤だったね……」
唯は何も言わなかった。
澄香は唯の手を取った。
そのまま、二人でポストへ向かう。
唯の手には、一通の手紙。
何度も書き直した。
泣きながら書いた。
大好きだったこと。
大切だったこと。
離れたくないこと。
出逢えて幸せだったこと。
晃哉と過ごした日々が幸せだったこと。
そして――
全部に、ありがとうという気持ち。
最後に唯は、自分らしい言葉を書いた。
――こんなに世界一こうちゃんのこと大好きな女いないぞ!
便箋を封筒に入れる。
唯はしばらく、その封筒を見つめていた。
これを入れたら、本当に何かが終わってしまうような気がした。
それでも、澄香がそっと背中を押す。
唯はポストの口へ手紙を入れた。
小さな音を立てて、手紙が中へ落ちていく。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「唯?」
澄香が静かに呼ぶ。
「絶対、違うからね」
唯は顔を上げた。
「こうちゃんも、きっと苦しいと思うよ」
澄香は少し考えるように言葉を探した。
「私たち、まだガキかもしれないけどさ……」
一度、息を吐く。
「自分が同じ立場だったら、頭で考えた通りにできるのかなって、私も考えてみたんだよね」
唯は黙って聞いている。
「もちろん、現実を見なきゃいけないのも分かってるよ」
澄香は唯の手を握った。
「でもさ……どうしようもないくらい好きになっちゃったら、理屈通りになんてできないんじゃないかな」
「……」
「私だったら……もしかしたら、矛盾だらけのことしちゃうかもしれない」
唯は俯いた。
そして、小さく笑うように呟いた。
「うん……」
しばらくして、唯は海の方を見ながら続けた。
「でも、私……罰が当たったのかも」
「唯……」
「ずっとどこかで……知らない奥さんに」
声が詰まる。
「こっちにいる間だけでも、私とこうちゃん一緒にいさせてくださいって……勝手に願ってた」
自分でもわかっていた。
許されることではない。
それでも、好きだった。
離れられなかった。
「確かに……頭では分かってても……」
唯は涙を堪えながら呟く。
「私も離れられなかった……」
澄香は何も責めなかった。
ただ、隣にいた。
やがて澄香が言った。
「唯、明後日」
唯が顔を上げる。
「また一緒に社宅来よう」
澄香は唯の手を握った。
「私、ずっと一緒にいるから」
そして、少しだけ笑った。
「ポスト、見てみよ?」
唯はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
「今日はありがとう。澄香」
二人は並んで歩いた。
唯の足取りは、まだ重かった。
けれど、もう一人ではなかった。
---
ねぇ、こうちゃん。
こうちゃんを失うことが、こんなに辛かった。
だから私は――
こうちゃんを、最悪な人だと思わなきゃいられなかった。
そうしなければ、自分を保っていられなかったから。
全部嘘だった。
遊びだった。
私なんて、どうでもよかった。
そう思えば、少しは諦められると思った。
でも。
最後には、どうしても思い出してしまう。
私を大切にしてくれていた、こうちゃんのことを。
優しかったこうちゃん。
笑っていたこうちゃん。
私を見ていた、あの目。
私が知っているこうちゃんは――
そんな人じゃなかった。
だから私は、ずっと迷路の中にいた。
こうちゃんの言葉がないから。
どうして何も言わずに帰ったのか。
どうして最後に「さよなら」と言わなかったのか。
どうして――
あの日を最後にしたのか。
答えは、どこにもなかった。
明後日。
こうちゃんはいなくなる。
その事実だけが、胸の中を埋め尽くしていた。
もう、それだけで。
生きた心地がしなかった。
ねぇ、こうちゃん。
この時の私――
たぶん、人生で一番どん底だった。
何をしても苦しくて。
どこにいても、こうちゃんを探してしまって。
もう会えない。
もう連絡もない。
そんな現実を、どう受け入れればいいのかわからなかった。
でもね。
私、時間はかかったけど――
ちゃんと頑張って、乗り越えたんだよ。
会えないこうちゃんを。
連絡のないこうちゃんを。
忘れるために。
もう、ここで終わり。
そう思っていた。
本当に。
これで、終わったんだって。
そう思っていたのに――
まさか、この先。
もう一度、私の中でこうちゃんが動き出す日が来るなんて。
あの頃の私は、まだ知らなかった。