王太子殿下、終了のお知らせです。
番外編:エリオット公爵令嬢 グレースの回想
王太女指名式典を明日に控え、アルテーヌからの一行が城門に到着したとの先触れがあり、懐かしい人々の顔を思い浮かべて思わず笑みがこぼれる。
摂政家として、王家の瓦解と兄の夭折を家族と共に乗り越え、怒涛のような国変を見届けた後、私はアルテーヌへ3年間の留学を果たした。
王都へ戻って6年、王太子候補として必死に研鑽を積んだ月日はあっという間だった。
国変の前のまだ何も分からない少女時代の思い出、とりわけ彼の方との思い出は今なおキラキラと輝いている。
窓の外に広がる庭園に目を遣ると、あの頃の出来事が走馬灯のように蘇った。
◇
お母様のお茶会でご挨拶をして以来、私はアンジェお姉さまを『女神様』と呼んでいた。
もちろん、心の中だけだ。
あの日、アンジェリカ様に初めてお会いした私の目は、その麗しい姿に釘付けになってしまった。凛と立つ姿に優雅な物腰、光を受けて虹色に輝く黒真珠のような黒髪からはびっくりするほどいい香りが漂っていた。
優し気に細められた榛色の瞳に吸い込まれるように、その時の私はご挨拶も忘れて見とれてしまったのだ。
「……女神様ですか?」
そう言った私に、美しい微笑みを向けた『女神様』は、優しく言葉を返してくれた。
「もしも私が女神なら、あなたを花の妖精に任命するわ」
非礼を詫びるお母様を押しとどめ、眉尻を下げて取り成してくれた。
「女神様だなんて、この上ない褒め言葉を頂いたのに、咎めるなんてとんでもないことですわ」
そして私と視線を合わせるように腰を落とし、その細く美しい指で鼻先をちょこんと触られた。
「私の事はアンジェと呼んでね。私の可愛い妖精さん」
この瞬間、私の心は鷲掴みにされてしまったのだった。
それから程なく招かれた王妃様のお茶会で、私はお母様と共に王城に赴いていた。
到着して王妃様にご挨拶を済ませ、お茶の用意が整うまで子どもたちは母親たちと離れて近くの花壇で待っていた時だった。
そこで、私は一塊になって怯えた様子の女の子たちを見つけたのだ。彼女たちの視線の先には、ニヤニヤしながら彼女たちに何かを投げつける令息の姿が目に入った。
「あなた、レディに物を投げるなんて、紳士のする事ではないわ!」
彼女たちの前に出て令息にそう言うと、その令息が投げたものが私の頭の上にぽとり落ちた。肩にころりと転がってきたそれに目を遣ると、綺麗な緑色の立派な芋虫だった。
私は青虫を摘まみ上げ、投げた令息に目を向けた。すると彼は私を指差して笑いながら茂みの中に入って行ったのだ。
女の子たちは、芋虫を摘まんだ私を見て顔を引きつらせている。
彼女たちの顔つきはなんだか見覚えがある。もう少し小さかった頃、お庭の花壇の近くで遊んでいて、初めて芋虫を間近で見た時のことだ。葉っぱをむしゃむしゃ食べている様子が不思議でじっと眺めていたのだ。
「ねえ、芋虫って、緑の葉っぱを食べるから緑色なの?」
そう言って侍女たちを振り返ると、みんな青白い顔を引きつらせていた。
そこで、近くにいた庭師のおじいさんにたのんで、芋虫の乗った葉っぱを切ってもらい、剣のお稽古をしていたお兄様の顔の前に掲げて同じ質問をすると、叫び声を上げて逃げて行ったっけ。
そう言うことね、みんな芋虫が嫌いなんだわ。緑色でふにふにしていて可愛いのに。
そう思い、摘まんで持ち上げた芋虫を眺めているところへ、『女神様』からお声かけがあったのだ。
「私の可愛い妖精さんは、これも平気かしら?」
『女神様』が持つ小さな扇子には、数匹のミミズたちが乗っている。
「ほら、あそこでまた芋虫を探しているわ」
私は満面の笑みで大きく頷くと、芋虫を葉っぱにそっと乗せ、『女神様』からの賜りものを恭しく受け取った。
そして、芋虫探しに余念のない令息にこっそり近づくと、彼の頭にそっとその天啓を授けたのだ。
その後の阿鼻叫喚は言わずもがな。
ミミズを頭に乗せられた令息は叫び声を上げ、その声に召喚された母親の侯爵夫人は、彼の頭に乗ったミミズを見て絶叫し、ヒステリックに私と後ろにいる令嬢たちを罵倒し始めた。
ここは王宮、王妃様のお茶会には高位貴族しか招かれていない。
私の後ろに居並ぶ令嬢たちはみんな、目の前で興奮して叫ぶ侯爵夫人に対して落ち着いて対応できている。私よりも小さな子もいるのにと感心した。
もちろん私のマナーも完璧だ。
だって淑女ですもの。
そもそも事の発端は、ママの後ろに隠れて涙目でこっちを睨んでいる令息なのだ。
私は『女神様』の天啓を授けただけ。
後ろの令嬢たちの家は目の前の侯爵家よりも家格が低く、ここで発言できるのは公爵家の私だけだ。
次席公爵家の令嬢に青虫を投げつけた侯爵令息がどうなるか、興奮している侯爵夫人は分かっているのかしら。
そう思って口を開いた瞬間、後ろから麗しい『女神様』のお声が聞こえてきた。
「あら、妖精たちが戯れていると思って見に来たのだけれど……」
振り返ると、『女神様』の後ろには、お母様と王妃様が並んで立っていた。
そこに居た全員が腰を落として礼を執った。
王妃様の合図で全員が直ると、件の侯爵夫人がエリオット公爵夫人に向き直った。
その顔つきと息子を背に庇った様子から、恐らく抗議するつもりだったのだろう。口を開いて声を出そうと息を吸い込み、声を出そうとした瞬間『女神様』が一瞬先に言葉を発した。
「そこの妖精くん、落とし物よ」
そう言って扇子に乗せた芋虫を、侯爵夫人のスカートの陰に隠れた令息の前に差し出した。
流石に王妃様の前で叫ばない礼儀はあるらしい侯爵夫人は、扇子に乗った芋虫と、バツが悪そうに黙ってうつむく息子を交互に見て、ようやく事態を把握したらしく、言葉を失っている。
「妖精たちの虫比べは、引き分けで良いかしら?」
『女神様』がそう言ってにこりと微笑むと、令息はうつむいたままこくりと頷いた。そして私を振り返り、ふわりと微笑んだので、私も黙って頷いた。
後でお小言を頂くことを覚悟して、ちらりとお母様に目を向けると、扇子で口元を覆って『女神様』をじっと見つめていた。
「さあさあ、妖精さんたち、あちらでお茶を頂きましょう。アルテーヌの特産品のお菓子をたくさん用意したのよ。ぜひ召し上がって欲しいわ」
『女神様』はそう言うと子供たちを促してテーブルに案内した。
その時、後ろでお母様と連れ立って歩いていた王妃様が、侯爵夫人に呟いているのが聞こえた。
「妖精の悪戯なら、不敬には問えないわね」
その言葉で顔色を変えた侯爵夫人は、お茶会の間ずっと息子の腕を掴んでいた。
動けなくされたその令息は、ずっと私を睨んでいたので、みんなに見えないようにあっかんベーをしておいた。
お茶会が終り、帰りの馬車の中でお母様にしっかりお灸を据えられ、三日間デザートとおやつ抜きを言い渡されてしまった。
『女神様』にお土産に頂いたお菓子を楽しみにしていたのに……。
その日のうちに『女神様』がお詫びにやって来たと聞かされた。
侍女たちの話では、とても楽しそうに談笑していたという。
『女神様』がお母様に叱られなくて心底ほっとしたことを思い出した。
「だって、あの頃の私は、怒ったお母様がこの世で一番怖かったんですもの」
そう独り言ち、くすりと笑みを零した。
◇
一行が王太子宮の玄関に到着した知らせに席を立つ。
部屋を出る時、執務室のキャビネットに並んだ家族の人形に微笑みかけた。
「今日だけだから許してね」
無邪気にご挨拶できるのは今日が最後だ。
ホールに立つ麗人に向かい、滑るように階段を駆け下りる。
「アンジェお姉さま!」
私は思い切り『女神様』の胸に飛び込んだ。
摂政家として、王家の瓦解と兄の夭折を家族と共に乗り越え、怒涛のような国変を見届けた後、私はアルテーヌへ3年間の留学を果たした。
王都へ戻って6年、王太子候補として必死に研鑽を積んだ月日はあっという間だった。
国変の前のまだ何も分からない少女時代の思い出、とりわけ彼の方との思い出は今なおキラキラと輝いている。
窓の外に広がる庭園に目を遣ると、あの頃の出来事が走馬灯のように蘇った。
◇
お母様のお茶会でご挨拶をして以来、私はアンジェお姉さまを『女神様』と呼んでいた。
もちろん、心の中だけだ。
あの日、アンジェリカ様に初めてお会いした私の目は、その麗しい姿に釘付けになってしまった。凛と立つ姿に優雅な物腰、光を受けて虹色に輝く黒真珠のような黒髪からはびっくりするほどいい香りが漂っていた。
優し気に細められた榛色の瞳に吸い込まれるように、その時の私はご挨拶も忘れて見とれてしまったのだ。
「……女神様ですか?」
そう言った私に、美しい微笑みを向けた『女神様』は、優しく言葉を返してくれた。
「もしも私が女神なら、あなたを花の妖精に任命するわ」
非礼を詫びるお母様を押しとどめ、眉尻を下げて取り成してくれた。
「女神様だなんて、この上ない褒め言葉を頂いたのに、咎めるなんてとんでもないことですわ」
そして私と視線を合わせるように腰を落とし、その細く美しい指で鼻先をちょこんと触られた。
「私の事はアンジェと呼んでね。私の可愛い妖精さん」
この瞬間、私の心は鷲掴みにされてしまったのだった。
それから程なく招かれた王妃様のお茶会で、私はお母様と共に王城に赴いていた。
到着して王妃様にご挨拶を済ませ、お茶の用意が整うまで子どもたちは母親たちと離れて近くの花壇で待っていた時だった。
そこで、私は一塊になって怯えた様子の女の子たちを見つけたのだ。彼女たちの視線の先には、ニヤニヤしながら彼女たちに何かを投げつける令息の姿が目に入った。
「あなた、レディに物を投げるなんて、紳士のする事ではないわ!」
彼女たちの前に出て令息にそう言うと、その令息が投げたものが私の頭の上にぽとり落ちた。肩にころりと転がってきたそれに目を遣ると、綺麗な緑色の立派な芋虫だった。
私は青虫を摘まみ上げ、投げた令息に目を向けた。すると彼は私を指差して笑いながら茂みの中に入って行ったのだ。
女の子たちは、芋虫を摘まんだ私を見て顔を引きつらせている。
彼女たちの顔つきはなんだか見覚えがある。もう少し小さかった頃、お庭の花壇の近くで遊んでいて、初めて芋虫を間近で見た時のことだ。葉っぱをむしゃむしゃ食べている様子が不思議でじっと眺めていたのだ。
「ねえ、芋虫って、緑の葉っぱを食べるから緑色なの?」
そう言って侍女たちを振り返ると、みんな青白い顔を引きつらせていた。
そこで、近くにいた庭師のおじいさんにたのんで、芋虫の乗った葉っぱを切ってもらい、剣のお稽古をしていたお兄様の顔の前に掲げて同じ質問をすると、叫び声を上げて逃げて行ったっけ。
そう言うことね、みんな芋虫が嫌いなんだわ。緑色でふにふにしていて可愛いのに。
そう思い、摘まんで持ち上げた芋虫を眺めているところへ、『女神様』からお声かけがあったのだ。
「私の可愛い妖精さんは、これも平気かしら?」
『女神様』が持つ小さな扇子には、数匹のミミズたちが乗っている。
「ほら、あそこでまた芋虫を探しているわ」
私は満面の笑みで大きく頷くと、芋虫を葉っぱにそっと乗せ、『女神様』からの賜りものを恭しく受け取った。
そして、芋虫探しに余念のない令息にこっそり近づくと、彼の頭にそっとその天啓を授けたのだ。
その後の阿鼻叫喚は言わずもがな。
ミミズを頭に乗せられた令息は叫び声を上げ、その声に召喚された母親の侯爵夫人は、彼の頭に乗ったミミズを見て絶叫し、ヒステリックに私と後ろにいる令嬢たちを罵倒し始めた。
ここは王宮、王妃様のお茶会には高位貴族しか招かれていない。
私の後ろに居並ぶ令嬢たちはみんな、目の前で興奮して叫ぶ侯爵夫人に対して落ち着いて対応できている。私よりも小さな子もいるのにと感心した。
もちろん私のマナーも完璧だ。
だって淑女ですもの。
そもそも事の発端は、ママの後ろに隠れて涙目でこっちを睨んでいる令息なのだ。
私は『女神様』の天啓を授けただけ。
後ろの令嬢たちの家は目の前の侯爵家よりも家格が低く、ここで発言できるのは公爵家の私だけだ。
次席公爵家の令嬢に青虫を投げつけた侯爵令息がどうなるか、興奮している侯爵夫人は分かっているのかしら。
そう思って口を開いた瞬間、後ろから麗しい『女神様』のお声が聞こえてきた。
「あら、妖精たちが戯れていると思って見に来たのだけれど……」
振り返ると、『女神様』の後ろには、お母様と王妃様が並んで立っていた。
そこに居た全員が腰を落として礼を執った。
王妃様の合図で全員が直ると、件の侯爵夫人がエリオット公爵夫人に向き直った。
その顔つきと息子を背に庇った様子から、恐らく抗議するつもりだったのだろう。口を開いて声を出そうと息を吸い込み、声を出そうとした瞬間『女神様』が一瞬先に言葉を発した。
「そこの妖精くん、落とし物よ」
そう言って扇子に乗せた芋虫を、侯爵夫人のスカートの陰に隠れた令息の前に差し出した。
流石に王妃様の前で叫ばない礼儀はあるらしい侯爵夫人は、扇子に乗った芋虫と、バツが悪そうに黙ってうつむく息子を交互に見て、ようやく事態を把握したらしく、言葉を失っている。
「妖精たちの虫比べは、引き分けで良いかしら?」
『女神様』がそう言ってにこりと微笑むと、令息はうつむいたままこくりと頷いた。そして私を振り返り、ふわりと微笑んだので、私も黙って頷いた。
後でお小言を頂くことを覚悟して、ちらりとお母様に目を向けると、扇子で口元を覆って『女神様』をじっと見つめていた。
「さあさあ、妖精さんたち、あちらでお茶を頂きましょう。アルテーヌの特産品のお菓子をたくさん用意したのよ。ぜひ召し上がって欲しいわ」
『女神様』はそう言うと子供たちを促してテーブルに案内した。
その時、後ろでお母様と連れ立って歩いていた王妃様が、侯爵夫人に呟いているのが聞こえた。
「妖精の悪戯なら、不敬には問えないわね」
その言葉で顔色を変えた侯爵夫人は、お茶会の間ずっと息子の腕を掴んでいた。
動けなくされたその令息は、ずっと私を睨んでいたので、みんなに見えないようにあっかんベーをしておいた。
お茶会が終り、帰りの馬車の中でお母様にしっかりお灸を据えられ、三日間デザートとおやつ抜きを言い渡されてしまった。
『女神様』にお土産に頂いたお菓子を楽しみにしていたのに……。
その日のうちに『女神様』がお詫びにやって来たと聞かされた。
侍女たちの話では、とても楽しそうに談笑していたという。
『女神様』がお母様に叱られなくて心底ほっとしたことを思い出した。
「だって、あの頃の私は、怒ったお母様がこの世で一番怖かったんですもの」
そう独り言ち、くすりと笑みを零した。
◇
一行が王太子宮の玄関に到着した知らせに席を立つ。
部屋を出る時、執務室のキャビネットに並んだ家族の人形に微笑みかけた。
「今日だけだから許してね」
無邪気にご挨拶できるのは今日が最後だ。
ホールに立つ麗人に向かい、滑るように階段を駆け下りる。
「アンジェお姉さま!」
私は思い切り『女神様』の胸に飛び込んだ。