過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために
第16章 記事掲載
翌日の夜、凛は木村記者から返信を受け取った。
「今夜、会えますか?」
凛は、すぐに返信した。
「はい。どこで会いますか?」
「駅前のファミレス。23時」
「わかりました」
凛は、時計を見た。
午後10時。
あと1時間。
凛は、USBメモリをカバンに入れた。
そして、印刷したデータも持っていくことにした。
証拠は、多い方がいい。
凛は、家を出た。
深夜の街。
人通りは少ない。
凛は、駅前のファミレスに向かった。
店内に入ると、奥の席に木村記者が座っていた。
40代半ばの男性。
真面目そうな顔。
凛は、その席に向かった。
「木村さん」
「水瀬さん。お久しぶりです」
木村は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ。重大な情報があると聞いて、気になっていました」
二人は、席に座った。
店員がメニューを持ってきたが、二人ともコーヒーだけを注文した。
店員が去ると、木村は凛を見た。
「それで、何の話ですか?」
凛は、周りを見回した。
他の客は、数人しかいない。
みんな、自分たちの会話に夢中だ。
凛は、カバンからUSBメモリを取り出した。
「これを、見てください」
凛は、USBメモリを木村に渡した。
木村は、USBメモリを手に取った。
「これは……?」
「エクセリア製薬の内部データです」
凛は、小声で言った。
「メディアジールの副作用報告です」
木村の表情が、変わった。
「副作用報告?」
「はい。会社は、公式には副作用を認めていません。でも、実際には150件以上の報告があります」
木村は、驚愕の表情で凛を見た。
「150件?」
「はい。重篤なケースも、35件あります。死亡例も、3件」
凛は、さらに続けた。
「会社は、データを隠蔽しています」
木村は、USBメモリを握りしめた。
「これは……大変なことですよ」
「わかっています」
凛は、真剣な顔で答えた。
「だから、木村さんに相談したんです」
木村は、少し考えた。
「裏取りに、時間がかかります」
「どのくらいですか?」
「少なくとも、2週間は必要です。患者への取材、専門家の意見、そして会社への取材も必要です」
凛は、頷いた。
「わかりました」
木村は、凛を見つめた。
「水瀬さん、これを出したら、あなたの立場は危うくなりますよ」
「覚悟しています」
凛は、はっきりと答えた。
木村は、少し驚いたように凛を見た。
それから、頷いた。
「わかりました。私も、全力で取材します」
翌週、凛は悠真との取材を重ねていた。
患者支援の連載企画という名目で、週に2回ほど会っていた。
カフェで話すことが多かった。
病院近くの、静かなカフェ。
悠真は、いつも真剣に患者たちのことを話してくれた。
凛は、その話を聞きながら、悠真への思いが深まっていくのを感じていた。
ある日の午後、いつものカフェで悠真と会った。
「水瀬さん、最近、頑張ってますね」
悠真は、コーヒーを飲みながら言った。
「え?」
凛は、驚いて悠真を見た。
「患者支援の記事、すごく丁寧に書いてくれています。患者さんたちも、喜んでいます」
凛は、少し照れくさくなった。
「それは、宮下先生が詳しく教えてくださったおかげです」
「いえ、水瀬さんの熱意があるからです」
悠真は、凛を見つめた。
「君は、特別な人だ」
凛の心臓が、激しく鳴った。
特別な人。
悠真に、そう言われた。
「そんな……」
凛は、言葉に詰まった。
「本当ですよ」
悠真は、真剣な顔で言った。
「ただ仕事だからというだけで、ここまで熱心に取材してくれる人は少ない」
凛は、胸が苦しくなった。
仕事だから、じゃない。
あなたを救いたいから。
あなたと患者たちを、守りたいから。
でも、それは言えない。
今は、まだ言えない。
「私も……」
凛は、小さく言った。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「私も、宮下先生のこと、尊敬しています」
凛は、それだけ言った。
本当は、もっと言いたいことがある。
でも、今は言えない。
会社との戦いが終わってから。
真実を明らかにしてから。
そうしたら、ちゃんと伝えよう。
悠真は、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
凛は、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
この笑顔を、守りたい。
この人の未来を、守りたい。
凛は、改めて思った。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「はい」
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」
悠真は、真剣な顔で言った。
「僕にできることなら、何でも協力します」
凛は、涙が出そうになった。
優しい人。
本当に、優しい人。
「ありがとうございます」
凛は、笑顔で答えた。
「でも、大丈夫です。今は」
嘘だ。
本当は、たくさん困っている。
会社との戦い。
記者との連絡。
証拠の準備。
全部、一人で抱えている。
でも、悠真には心配かけたくない。
悠真は、少し心配そうな顔をした。
「本当に、大丈夫ですか?」
「はい」
凛は、強く頷いた。
「私、強いんです」
悠真は、少し安心したように笑った。
「そうですね。水瀬さんは、強い人だ」
凛は、その言葉に救われた気がした。
強くならなきゃ。
悠真を、守るために。
2週間後の朝、凛は自宅で目を覚ました。
いつものように、スマホのアラームを止める。
時刻は午前6時。
凛は、ベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れる。
いつもの朝。
でも、今日は違う。
今日、記事が出る。
木村記者から、昨夜メールが来ていた。
「明日の朝刊、一面です」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
ついに、この日が来た。
真実が、明らかになる日。
凛は、コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
まだ暗い。
でも、東の空が、少しずつ明るくなり始めている。
新しい一日が、始まろうとしている。
凛は、深呼吸をした。
覚悟は、できている。
会社は、激怒するだろう。
田中部長も。
同僚たちも。
みんな、凛を責めるだろう。
でも、それでいい。
真実を明らかにすることが、正しい。
凛は、コーヒーカップを置いた。
そして、着替えを始めた。
いつものスーツ。
鏡を見る。
今日が、最後の出社になるかもしれない。
凛は、カバンに荷物を詰めた。
財布。スマホ。
時計を見る。
午前7時。
凛は、家を出た。
近くのコンビニへ向かう。
凛は、店内に入った。
新聞コーナーへ向かう。
そこには、各紙の朝刊が並んでいた。
凛は、木村記者が所属する新聞を手に取った。
一面を見る。
大きな見出し。
「大手製薬企業、新薬副作用を隠蔽か」
その下には、小さく「内部資料で判明 重篤例35件、死亡例も」と書かれている。
凛の心臓が、激しく鳴った。
本当に、出た。
記事が、出た。
凛は、新聞を買い、コンビニを出た。
外のベンチに座り、記事を読み始めた。
「大手製薬会社エクセリア製薬が販売する新薬『メディアジール』について、重篤な副作用が多数報告されているにもかかわらず、同社がこれを隠蔽していた疑いがあることが、内部資料から明らかになった」
凛は、読み進めた。
「本紙が入手した内部資料によると、メディアジールの副作用報告は150件以上に上り、うち35件が重篤なケース、3件は死亡例だった。しかし、同社は公式には『軽微なもの数件のみ』と発表していた」
記事には、患者の証言も掲載されている。
匿名だが、悠真の患者たちの声だ。
「この薬を飲み始めてから、めまいと頭痛が止まらない。でも、製薬会社は副作用を認めてくれない」
凛は、記事を読みながら、涙が出そうになった。
ついに、真実が明らかになった。
記事の最後には、エクセリア製薬のコメントも載っていた。
「当社は適切な手続きを経て医薬品を販売しており、隠蔽の事実はありません。記事の内容については、事実関係を確認の上、適切に対応いたします」
凛は、新聞を閉じた。
会社は、否定するだろう。
でも、証拠はある。
真実は、もう隠せない。
凛は、スマホを取り出した。
時刻は午前7時30分。
会社に向かわなければ。
凛は、立ち上がった。
その瞬間、スマホが震えた。
着信。
田中部長からだ。
凛は、スマホを見つめた。
手が、震えている。
深呼吸をする。
そして、電話に出た。
「はい、水瀬です」
「水瀬! 今すぐ会社に来い!」
田中部長の怒鳴り声が、耳をつんざいた。
「はい」
凛は、できるだけ冷静に答えた。
「新聞を見たか!」
「はい、見ました」
「今すぐ来い。すぐにだ!」
田中部長は、一方的に電話を切った。
凛は、スマホを握りしめた。
始まった。
凛は、駅へ向かった。
電車に乗る。
車内には、通勤客が大勢いる。
何人かが、新聞を読んでいる。
あの記事を、読んでいるのだろうか。
凛は、窓の外を見た。
流れる景色。
いつもと同じ景色。
でも、今日は違う。
全てが、変わろうとしている。
会社に着くと、凛はエレベーターに乗った。
広報部のフロアへ。
ドアが開く。
オフィスに入ると、異様な雰囲気だった。
みんな、慌ただしく動いている。
電話の音。
話し声。
誰もが、緊迫した表情をしている。
凛が入ってきたことに、何人かが気づいた。
視線が、凛に集中する。
冷たい視線。
非難の視線。
凛は、それを感じながら、自分のデスクへ向かった。
その時、田中部長が部屋から出てきた。
「水瀬!」
田中部長の声が、オフィス中に響いた。
「すぐに会議室へ来い!」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、カバンを持ったまま、会議室へ向かった。
会議室のドアを開けると、中にはすでに何人もの役員が座っていた。
社長。
副社長。
法務部長。
そして、田中部長。
みんな、険しい表情をしている。
「座れ」
社長が、冷たく言った。
凛は、テーブルの端の席に座った。
重い沈黙。
誰も、口を開かない。
凛は、手を膝の上に置いた。
震えている。
でも、顔は上げたままだ。
「水瀬」
社長が、口を開いた。
「今朝の新聞記事を見たか」
「はい」
凛は、はっきりと答えた。
「あの記事の情報源は、お前か」
凛は、一瞬、沈黙した。
ここで嘘をつくこともできる。
でも、もう逃げない。
「はい」
凛は、答えた。
会議室が、ざわついた。
「やはりな」
法務部長が、苦々しく言った。
「社内データベースへの不正アクセスの形跡がある。お前のアカウントからだ」
凛は、何も言わなかった。
否定しても、無駄だ。
証拠がある。
「水瀬」
社長が、再び口を開いた。
「なぜ、こんなことをした」
凛は、社長を見た。
「真実を、明らかにしたかったからです」
「真実?」
社長の声が、低くなった。
「お前が明らかにしたのは、会社の機密情報だ。それを外部に漏らすことが、真実を明らかにすることなのか」
「メディアジールの副作用は、隠蔽されていました」
凛は、震える声で言った。
「150件以上の報告があるのに、会社は認めていない。患者さんたちが、苦しんでいます」
「それは、適切な手続きを経て判断された結果だ」
法務部長が、口を挟んだ。
「副作用かどうかの判断は、専門家が行う。お前のような素人が、勝手に判断することではない」
凛は、唇を噛んだ。
専門家?
データを削除して、隠蔽した専門家?
「水瀬」
田中部長が、凛を見た。
「お前、わかってるのか。お前がやったことは、背信行為だ。会社を裏切ったんだぞ」
凛は、田中部長を見返した。
「私は、真実を明らかにしただけです」
「真実?」
田中部長は、声を荒げた。
「お前の言う真実が、どれだけの人に迷惑をかけるかわかってるのか。株価は暴落する。社員は職を失うかもしれない。取引先にも影響が出る」
凛は、何も答えなかった。
それは、わかっている。
でも、だからといって、真実を隠していいわけじゃない。
「水瀬」
社長が、最後通告のように言った。
「お前の行為は、就業規則違反だ。不正アクセス、機密情報の漏洩。これは、懲戒解雇に値する」
凛の心臓が、止まりそうになった。
解雇。
わかっていた。
覚悟していた。
でも、実際に言われると、衝撃が大きい。
「明日から、来なくていい」
社長は、冷たく言った。
「今日中に、荷物をまとめて出て行け」
凛は、立ち上がった。
「わかりました」
凛の声は、意外にも落ち着いていた。
震えていない。
「それから」
法務部長が、追い打ちをかけるように言った。
「不正アクセスと情報漏洩については、法的措置を検討する。弁護士から連絡が行くだろう」
凛は、頷いた。
「わかりました」
凛は、会議室を出た。
ドアを閉める。
廊下に、一人立つ。
深呼吸をする。
終わった。
会社での生活が、終わった。
凛は、オフィスに戻った。
自分のデスクへ向かう。
周りの同僚たちが、凛を見ている。
でも、誰も話しかけてこない。
みんな、距離を置いている。
凛は、デスクの引き出しを開けた。
私物をまとめる。
ペン。ノート。マグカップ。
そして、貝殻。
凛は、貝殻を手に取った。
これだけは、絶対に忘れない。
凛は、段ボール箱に荷物を詰めた。
そんなに多くない。
たった一つの箱で、収まってしまう。
凛は、箱を抱えて立ち上がった。
オフィスを見渡す。
何年も働いた場所。
でも、もう戻ることはない。
凛は、ロッカーへ向かった。
ロッカーを開け、私物を取り出す。
予備の靴。
折りたたみ傘。
化粧ポーチ。
全部、箱に入れる。
ロッカーを閉める。
最後に、社員証を外した。
これも、もう必要ない。
凛は、田中部長のデスクへ向かった。
田中部長は、パソコンに向かって何かを打っていた。
凛の気配に気づき、顔を上げた。
「何だ」
冷たい声。
「社員証、返却します」
凛は、社員証をデスクに置いた。
田中部長は、それを見たが、何も言わなかった。
ただ、引き出しにしまっただけだ。
凛は、頭を下げた。
「お世話になりました」
田中部長は、何も答えなかった。
ただ、また パソコンに向き直った。
凛は、オフィスを出た。
エレベーターに乗る。
箱を抱えたまま。
下降していく。
1階に着いた。
ドアが開く。
凛は、ロビーを歩いた。
受付の女性が、凛を見た。
でも、何も言わない。
ただ、目を逸らした。
凛は、回転ドアを押した。
外に出る。
冷たい空気が、顔に当たる。
凛は、ビルを振り返った。
エクセリア製薬。
ここで、何年も働いた。
でも、もう戻ることはない。
凛は、前を向いた。
箱を抱えたまま、歩き始めた。
誰も、見送ってくれなかった。
誰も、声をかけてくれなかった。
一人。
凛は、一人だった。
でも、それでいい。
凛は、真実を選んだ。
その代償が、これだ。
凛は、歩き続けた。
駅へ向かう。
道行く人々が、箱を抱えた凛を不思議そうに見る。
でも、凛は気にしなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
貝殻が、箱の中で小さな音を立てた。
凛は、その音を聞いて、少し微笑んだ。
悠真。
私、やったよ。
真実を、明らかにした。
これから、どうなるかわからない。
でも、後悔はしていない。
凛は、空を見上げた。
抜けるような青い空。
真っ白な雲。
その空の下を、凛は一人で歩いていた。
「今夜、会えますか?」
凛は、すぐに返信した。
「はい。どこで会いますか?」
「駅前のファミレス。23時」
「わかりました」
凛は、時計を見た。
午後10時。
あと1時間。
凛は、USBメモリをカバンに入れた。
そして、印刷したデータも持っていくことにした。
証拠は、多い方がいい。
凛は、家を出た。
深夜の街。
人通りは少ない。
凛は、駅前のファミレスに向かった。
店内に入ると、奥の席に木村記者が座っていた。
40代半ばの男性。
真面目そうな顔。
凛は、その席に向かった。
「木村さん」
「水瀬さん。お久しぶりです」
木村は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ。重大な情報があると聞いて、気になっていました」
二人は、席に座った。
店員がメニューを持ってきたが、二人ともコーヒーだけを注文した。
店員が去ると、木村は凛を見た。
「それで、何の話ですか?」
凛は、周りを見回した。
他の客は、数人しかいない。
みんな、自分たちの会話に夢中だ。
凛は、カバンからUSBメモリを取り出した。
「これを、見てください」
凛は、USBメモリを木村に渡した。
木村は、USBメモリを手に取った。
「これは……?」
「エクセリア製薬の内部データです」
凛は、小声で言った。
「メディアジールの副作用報告です」
木村の表情が、変わった。
「副作用報告?」
「はい。会社は、公式には副作用を認めていません。でも、実際には150件以上の報告があります」
木村は、驚愕の表情で凛を見た。
「150件?」
「はい。重篤なケースも、35件あります。死亡例も、3件」
凛は、さらに続けた。
「会社は、データを隠蔽しています」
木村は、USBメモリを握りしめた。
「これは……大変なことですよ」
「わかっています」
凛は、真剣な顔で答えた。
「だから、木村さんに相談したんです」
木村は、少し考えた。
「裏取りに、時間がかかります」
「どのくらいですか?」
「少なくとも、2週間は必要です。患者への取材、専門家の意見、そして会社への取材も必要です」
凛は、頷いた。
「わかりました」
木村は、凛を見つめた。
「水瀬さん、これを出したら、あなたの立場は危うくなりますよ」
「覚悟しています」
凛は、はっきりと答えた。
木村は、少し驚いたように凛を見た。
それから、頷いた。
「わかりました。私も、全力で取材します」
翌週、凛は悠真との取材を重ねていた。
患者支援の連載企画という名目で、週に2回ほど会っていた。
カフェで話すことが多かった。
病院近くの、静かなカフェ。
悠真は、いつも真剣に患者たちのことを話してくれた。
凛は、その話を聞きながら、悠真への思いが深まっていくのを感じていた。
ある日の午後、いつものカフェで悠真と会った。
「水瀬さん、最近、頑張ってますね」
悠真は、コーヒーを飲みながら言った。
「え?」
凛は、驚いて悠真を見た。
「患者支援の記事、すごく丁寧に書いてくれています。患者さんたちも、喜んでいます」
凛は、少し照れくさくなった。
「それは、宮下先生が詳しく教えてくださったおかげです」
「いえ、水瀬さんの熱意があるからです」
悠真は、凛を見つめた。
「君は、特別な人だ」
凛の心臓が、激しく鳴った。
特別な人。
悠真に、そう言われた。
「そんな……」
凛は、言葉に詰まった。
「本当ですよ」
悠真は、真剣な顔で言った。
「ただ仕事だからというだけで、ここまで熱心に取材してくれる人は少ない」
凛は、胸が苦しくなった。
仕事だから、じゃない。
あなたを救いたいから。
あなたと患者たちを、守りたいから。
でも、それは言えない。
今は、まだ言えない。
「私も……」
凛は、小さく言った。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「私も、宮下先生のこと、尊敬しています」
凛は、それだけ言った。
本当は、もっと言いたいことがある。
でも、今は言えない。
会社との戦いが終わってから。
真実を明らかにしてから。
そうしたら、ちゃんと伝えよう。
悠真は、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
凛は、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
この笑顔を、守りたい。
この人の未来を、守りたい。
凛は、改めて思った。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「はい」
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」
悠真は、真剣な顔で言った。
「僕にできることなら、何でも協力します」
凛は、涙が出そうになった。
優しい人。
本当に、優しい人。
「ありがとうございます」
凛は、笑顔で答えた。
「でも、大丈夫です。今は」
嘘だ。
本当は、たくさん困っている。
会社との戦い。
記者との連絡。
証拠の準備。
全部、一人で抱えている。
でも、悠真には心配かけたくない。
悠真は、少し心配そうな顔をした。
「本当に、大丈夫ですか?」
「はい」
凛は、強く頷いた。
「私、強いんです」
悠真は、少し安心したように笑った。
「そうですね。水瀬さんは、強い人だ」
凛は、その言葉に救われた気がした。
強くならなきゃ。
悠真を、守るために。
2週間後の朝、凛は自宅で目を覚ました。
いつものように、スマホのアラームを止める。
時刻は午前6時。
凛は、ベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れる。
いつもの朝。
でも、今日は違う。
今日、記事が出る。
木村記者から、昨夜メールが来ていた。
「明日の朝刊、一面です」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
ついに、この日が来た。
真実が、明らかになる日。
凛は、コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
まだ暗い。
でも、東の空が、少しずつ明るくなり始めている。
新しい一日が、始まろうとしている。
凛は、深呼吸をした。
覚悟は、できている。
会社は、激怒するだろう。
田中部長も。
同僚たちも。
みんな、凛を責めるだろう。
でも、それでいい。
真実を明らかにすることが、正しい。
凛は、コーヒーカップを置いた。
そして、着替えを始めた。
いつものスーツ。
鏡を見る。
今日が、最後の出社になるかもしれない。
凛は、カバンに荷物を詰めた。
財布。スマホ。
時計を見る。
午前7時。
凛は、家を出た。
近くのコンビニへ向かう。
凛は、店内に入った。
新聞コーナーへ向かう。
そこには、各紙の朝刊が並んでいた。
凛は、木村記者が所属する新聞を手に取った。
一面を見る。
大きな見出し。
「大手製薬企業、新薬副作用を隠蔽か」
その下には、小さく「内部資料で判明 重篤例35件、死亡例も」と書かれている。
凛の心臓が、激しく鳴った。
本当に、出た。
記事が、出た。
凛は、新聞を買い、コンビニを出た。
外のベンチに座り、記事を読み始めた。
「大手製薬会社エクセリア製薬が販売する新薬『メディアジール』について、重篤な副作用が多数報告されているにもかかわらず、同社がこれを隠蔽していた疑いがあることが、内部資料から明らかになった」
凛は、読み進めた。
「本紙が入手した内部資料によると、メディアジールの副作用報告は150件以上に上り、うち35件が重篤なケース、3件は死亡例だった。しかし、同社は公式には『軽微なもの数件のみ』と発表していた」
記事には、患者の証言も掲載されている。
匿名だが、悠真の患者たちの声だ。
「この薬を飲み始めてから、めまいと頭痛が止まらない。でも、製薬会社は副作用を認めてくれない」
凛は、記事を読みながら、涙が出そうになった。
ついに、真実が明らかになった。
記事の最後には、エクセリア製薬のコメントも載っていた。
「当社は適切な手続きを経て医薬品を販売しており、隠蔽の事実はありません。記事の内容については、事実関係を確認の上、適切に対応いたします」
凛は、新聞を閉じた。
会社は、否定するだろう。
でも、証拠はある。
真実は、もう隠せない。
凛は、スマホを取り出した。
時刻は午前7時30分。
会社に向かわなければ。
凛は、立ち上がった。
その瞬間、スマホが震えた。
着信。
田中部長からだ。
凛は、スマホを見つめた。
手が、震えている。
深呼吸をする。
そして、電話に出た。
「はい、水瀬です」
「水瀬! 今すぐ会社に来い!」
田中部長の怒鳴り声が、耳をつんざいた。
「はい」
凛は、できるだけ冷静に答えた。
「新聞を見たか!」
「はい、見ました」
「今すぐ来い。すぐにだ!」
田中部長は、一方的に電話を切った。
凛は、スマホを握りしめた。
始まった。
凛は、駅へ向かった。
電車に乗る。
車内には、通勤客が大勢いる。
何人かが、新聞を読んでいる。
あの記事を、読んでいるのだろうか。
凛は、窓の外を見た。
流れる景色。
いつもと同じ景色。
でも、今日は違う。
全てが、変わろうとしている。
会社に着くと、凛はエレベーターに乗った。
広報部のフロアへ。
ドアが開く。
オフィスに入ると、異様な雰囲気だった。
みんな、慌ただしく動いている。
電話の音。
話し声。
誰もが、緊迫した表情をしている。
凛が入ってきたことに、何人かが気づいた。
視線が、凛に集中する。
冷たい視線。
非難の視線。
凛は、それを感じながら、自分のデスクへ向かった。
その時、田中部長が部屋から出てきた。
「水瀬!」
田中部長の声が、オフィス中に響いた。
「すぐに会議室へ来い!」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、カバンを持ったまま、会議室へ向かった。
会議室のドアを開けると、中にはすでに何人もの役員が座っていた。
社長。
副社長。
法務部長。
そして、田中部長。
みんな、険しい表情をしている。
「座れ」
社長が、冷たく言った。
凛は、テーブルの端の席に座った。
重い沈黙。
誰も、口を開かない。
凛は、手を膝の上に置いた。
震えている。
でも、顔は上げたままだ。
「水瀬」
社長が、口を開いた。
「今朝の新聞記事を見たか」
「はい」
凛は、はっきりと答えた。
「あの記事の情報源は、お前か」
凛は、一瞬、沈黙した。
ここで嘘をつくこともできる。
でも、もう逃げない。
「はい」
凛は、答えた。
会議室が、ざわついた。
「やはりな」
法務部長が、苦々しく言った。
「社内データベースへの不正アクセスの形跡がある。お前のアカウントからだ」
凛は、何も言わなかった。
否定しても、無駄だ。
証拠がある。
「水瀬」
社長が、再び口を開いた。
「なぜ、こんなことをした」
凛は、社長を見た。
「真実を、明らかにしたかったからです」
「真実?」
社長の声が、低くなった。
「お前が明らかにしたのは、会社の機密情報だ。それを外部に漏らすことが、真実を明らかにすることなのか」
「メディアジールの副作用は、隠蔽されていました」
凛は、震える声で言った。
「150件以上の報告があるのに、会社は認めていない。患者さんたちが、苦しんでいます」
「それは、適切な手続きを経て判断された結果だ」
法務部長が、口を挟んだ。
「副作用かどうかの判断は、専門家が行う。お前のような素人が、勝手に判断することではない」
凛は、唇を噛んだ。
専門家?
データを削除して、隠蔽した専門家?
「水瀬」
田中部長が、凛を見た。
「お前、わかってるのか。お前がやったことは、背信行為だ。会社を裏切ったんだぞ」
凛は、田中部長を見返した。
「私は、真実を明らかにしただけです」
「真実?」
田中部長は、声を荒げた。
「お前の言う真実が、どれだけの人に迷惑をかけるかわかってるのか。株価は暴落する。社員は職を失うかもしれない。取引先にも影響が出る」
凛は、何も答えなかった。
それは、わかっている。
でも、だからといって、真実を隠していいわけじゃない。
「水瀬」
社長が、最後通告のように言った。
「お前の行為は、就業規則違反だ。不正アクセス、機密情報の漏洩。これは、懲戒解雇に値する」
凛の心臓が、止まりそうになった。
解雇。
わかっていた。
覚悟していた。
でも、実際に言われると、衝撃が大きい。
「明日から、来なくていい」
社長は、冷たく言った。
「今日中に、荷物をまとめて出て行け」
凛は、立ち上がった。
「わかりました」
凛の声は、意外にも落ち着いていた。
震えていない。
「それから」
法務部長が、追い打ちをかけるように言った。
「不正アクセスと情報漏洩については、法的措置を検討する。弁護士から連絡が行くだろう」
凛は、頷いた。
「わかりました」
凛は、会議室を出た。
ドアを閉める。
廊下に、一人立つ。
深呼吸をする。
終わった。
会社での生活が、終わった。
凛は、オフィスに戻った。
自分のデスクへ向かう。
周りの同僚たちが、凛を見ている。
でも、誰も話しかけてこない。
みんな、距離を置いている。
凛は、デスクの引き出しを開けた。
私物をまとめる。
ペン。ノート。マグカップ。
そして、貝殻。
凛は、貝殻を手に取った。
これだけは、絶対に忘れない。
凛は、段ボール箱に荷物を詰めた。
そんなに多くない。
たった一つの箱で、収まってしまう。
凛は、箱を抱えて立ち上がった。
オフィスを見渡す。
何年も働いた場所。
でも、もう戻ることはない。
凛は、ロッカーへ向かった。
ロッカーを開け、私物を取り出す。
予備の靴。
折りたたみ傘。
化粧ポーチ。
全部、箱に入れる。
ロッカーを閉める。
最後に、社員証を外した。
これも、もう必要ない。
凛は、田中部長のデスクへ向かった。
田中部長は、パソコンに向かって何かを打っていた。
凛の気配に気づき、顔を上げた。
「何だ」
冷たい声。
「社員証、返却します」
凛は、社員証をデスクに置いた。
田中部長は、それを見たが、何も言わなかった。
ただ、引き出しにしまっただけだ。
凛は、頭を下げた。
「お世話になりました」
田中部長は、何も答えなかった。
ただ、また パソコンに向き直った。
凛は、オフィスを出た。
エレベーターに乗る。
箱を抱えたまま。
下降していく。
1階に着いた。
ドアが開く。
凛は、ロビーを歩いた。
受付の女性が、凛を見た。
でも、何も言わない。
ただ、目を逸らした。
凛は、回転ドアを押した。
外に出る。
冷たい空気が、顔に当たる。
凛は、ビルを振り返った。
エクセリア製薬。
ここで、何年も働いた。
でも、もう戻ることはない。
凛は、前を向いた。
箱を抱えたまま、歩き始めた。
誰も、見送ってくれなかった。
誰も、声をかけてくれなかった。
一人。
凛は、一人だった。
でも、それでいい。
凛は、真実を選んだ。
その代償が、これだ。
凛は、歩き続けた。
駅へ向かう。
道行く人々が、箱を抱えた凛を不思議そうに見る。
でも、凛は気にしなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
貝殻が、箱の中で小さな音を立てた。
凛は、その音を聞いて、少し微笑んだ。
悠真。
私、やったよ。
真実を、明らかにした。
これから、どうなるかわからない。
でも、後悔はしていない。
凛は、空を見上げた。
抜けるような青い空。
真っ白な雲。
その空の下を、凛は一人で歩いていた。