過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために
第17章 炎上の嵐
自宅に戻ると、凛は段ボール箱を床に置いた。
部屋は、静かだった。
凛は、ソファに座り込んだ。
疲れた。
体も、心も。
凛は、スマホを取り出した。
何通かメッセージが来ている。
母からだ。
「凛、大丈夫? 新聞の記事、見たわ」
「心配してるの。連絡ちょうだい」
凛は、母に返信しようとした。
でも、その前に、ニュースアプリの通知が目に入った。
「エクセリア製薬、副作用隠蔽疑惑で株価急落」
凛は、記事を開いた。
エクセリア製薬の株価が、前日比15パーセント下落したという内容だった。
記事には、会社の声明も載っていた。
「当社は記事の内容を真摯に受け止め、調査を進めております」
凛は、スマホを置いた。
始まったばかりだ。
これから、もっと大きな波が来る。
凛は、目を閉じた。
その時、スマホが震えた。
通知。
SNSの通知だ。
凛は、スマホを手に取った。
メンション通知が、10件以上ある。
凛は、嫌な予感がした。
アプリを開く。
タイムラインには、自分の名前が並んでいた。
「水瀬凛」
「エクセリア製薬」
「内部告発」
凛は、一番上のツイートを開いた。
「エクセリア製薬を裏切った社員、水瀬凛の顔写真。こいつのせいで何人が職を失うと思ってるんだ」
そのツイートには、凛の顔写真が添付されていた。
社員証の写真。
誰が、流したんだろう。
凛は、手が震えるのを感じた。
スクロールする。
次のツイート。
「水瀬凛、住所特定。〇〇市〇〇町〇〇マンション」
凛の心臓が、止まりそうになった。
住所まで。
なぜ。
さらにスクロールする。
「裏切り者は許すな」
「会社を潰した犯罪者」
「不正アクセスで逮捕されろ」
「こいつのせいで株が暴落した。損失補償しろ」
誹謗中傷の嵐。
凛は、スマホを握りしめた。
手が、震えている。
通知が、止まらない。
ブーン。ブーン。
スマホが、震え続ける。
メンション。リプライ。ダイレクトメッセージ。
全部、批判。
全部、非難。
凛は、SNSを閉じようとした。
でも、閉じる前に、一つのツイートが目に入った。
「水瀬凛の母親、〇〇に住んでるらしい。実家にも電凸するか」
凛は、血の気が引いた。
母。
母まで、巻き込まれる。
凛は、すぐに母に電話をかけた。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
「もしもし」
母の声。
でも、いつもと違う。
疲れた声。
「お母さん、大丈夫?」
凛は、焦って聞いた。
「凛……」
母の声が、小さい。
「ごめんね。心配かけて」
「大丈夫よ。でも、凛、あなたの方は……」
母の声が、途切れた。
「お母さん?」
凛は、不安になった。
「ごめんね。ちょっと、近所で噂になっててね」
母は、辛そうに言った。
「ネットで、あなたの名前が出てたから」
凛は、唇を噛んだ。
母まで。
母まで、苦しめてしまった。
「ごめんなさい……」
凛の声が、震えた。
「謝らなくていいのよ」
母は、優しく言った。
「あなたは、正しいことをしたんだから」
「でも……」
「大丈夫。お母さんは、大丈夫だから」
母の声は、無理に明るくしているように聞こえた。
「凛、あなたの方こそ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけたくない。
「そう。よかった」
母は、ほっとしたように言った。
「じゃあ、また連絡するわね」
「うん。無理しないでね」
「あなたもよ」
母は、電話を切った。
凛は、スマホを見つめた。
母の声。
疲れていた。
辛そうだった。
凛は、自分のせいだと思った。
全部、自分のせいだ。
スマホが、また震えた。
通知。
また、SNSの通知。
凛は、スマホを床に投げ出した。
見たくない。
もう、見たくない。
でも、スマホは震え続けている。
ブーン。ブーン。
止まらない。
凛は、両手で耳を塞いだ。
でも、音は聞こえる。
通知の音。
スマホの振動。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
クッションに顔を埋める。
息ができない。
苦しい。
凛は、顔を上げた。
深呼吸をする。
落ち着け。
落ち着かなきゃ。
でも、落ち着けない。
スマホは、まだ震えている。
凛は、スマホを手に取った。
通知を見る。
50件以上。
全部、批判。
凛は、アプリを開いた。
ダイレクトメッセージ。
「死ね」
「消えろ」
「裏切り者」
たった二文字、三文字のメッセージ。
でも、その一つ一つが、凛の心を抉る。
凛は、スマホを握りしめた。
画面が、涙で滲む。
いつの間にか、泣いていた。
凛は、スマホを床に置いた。
通知音を消す。
でも、画面は光り続けている。
新しい通知が、次々と来る。
凛は、スマホから目を離した。
窓の外を見る。
夕暮れ。
朱に染まる空。
きれいな空。
でも、凛の心は、暗かった。
これが、代償なのか。
真実を明らかにした、代償。
凛は、目を閉じた。
でも、すぐに目を開けた。
スマホが、鳴っている。
着信。
母からだ。
凛は、慌ててスマホを取った。
「お母さん?」
「凛さんですか」
母の声じゃない。
女性の声。
看護師か、誰か。
凛の心臓が、激しく鳴り始めた。
「はい、娘です」
凛の声が、震えた。
「お母様が、倒れられました」
凛は、息が止まった。
「今、救急車で病院に向かっています」
「え……どこの病院ですか」
凛は、必死に聞いた。
「〇〇総合病院です」
「すぐに行きます」
凛は、電話を切った。
立ち上がる。
カバンを掴む。
家を飛び出す。
階段を駆け下りる。
エレベーターを待つ余裕もない。
外に出て、タクシーを拾う。
「〇〇総合病院まで、急いでください」
凛は、運転手に言った。
「わかりました」
タクシーが、発進する。
凛は、後部座席で、手を握りしめた。
お母さん。
凛は、目を閉じた。
母の顔が浮かんでくる。
疲れた声。
辛そうな声。
あの電話の時、もう限界だったんだ。
なのに、私は気づかなかった。
凛は、唇を噛んだ。
自分のせいだ。
母を、苦しめた。
母を、倒れさせた。
全部、自分のせいだ。
タクシーが、病院に着いた。
「ありがとうございます」
凛は、料金を払って飛び出した。
病院の入り口へ走る。
受付で、母の名前を告げる。
「救急で運ばれてきた、水瀬知世の家族です」
受付の女性が、パソコンを確認する。
「3階の救急外来です。エレベーターで上がってください」
「ありがとうございます」
凛は、エレベーターに駆け込んだ。
ボタンを押す。
上昇する。
遅い。
こんなに遅かったか。
凛は、イライラした。
早く。
早く、お母さんのところへ。
3階に着いた。
ドアが開く。
凛は、飛び出した。
救急外来の看板を探す。
あった。
凛は、走った。
廊下を走る。
看護師が、「走らないでください」と注意したが、凛は止まらなかった。
救急外来の待合室に着いた。
そこに、医師と看護師が立っていた。
「すみません。水瀬知世の娘です」
凛は、息を切らしながら言った。
医師が、凛を見た。
「お母様は、今、処置中です」
「容態は……」
凛は、震える声で聞いた。
「ストレス性の高血圧です。血圧が急上昇して、倒れられました」
医師は、落ち着いた声で説明した。
「命に別状はありませんが、しばらく安静が必要です」
凛は、ほっとした。
命に別状はない。
よかった。
でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。
ストレス性。
凛のせいだ。
凛が、母にストレスを与えた。
「お母様は、最近、強いストレスを受けていませんでしたか」
医師が、凛に尋ねた。
凛は、何も答えられなかった。
答えられない。
自分のせいだと、わかっているから。
「……はい」
凛は、やっと答えた。
「そうですか」
医師は、何も言わなかった。
でも、その目には、何かが浮かんでいた。
「今後は、ストレスを避けるようにしてください。このままでは、もっと深刻な事態になりかねません」
凛は、頷いた。
「わかりました」
医師は、処置室の方を見た。
「もうすぐ、一般病棟に移します。そうしたら、面会できますから」
「ありがとうございます」
凛は、頭を下げた。
医師と看護師は、処置室に戻っていった。
凛は、待合室の椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
涙が、溢れてきた。
お母さん、ごめんなさい。
心の中で、何度も謝った。
私のせいで。
私が、真実を明らかにしたせいで。
あなたまで、苦しめてしまった。
凛は、声を殺して泣いた。
待合室には、他にも何人かいたが、誰も凛に声をかけなかった。
ただ、静かに見守っているだけだった。
しばらくして、看護師が来た。
「水瀬さん、お母様が病室に移りました。面会できますよ」
凛は、顔を上げた。
涙を拭く。
「ありがとうございます」
凛は、立ち上がった。
看護師について、病室へ向かう。
廊下を歩く。
足が、重い。
病室の前に着いた。
看護師が、ドアを開けた。
「どうぞ」
凛は、中に入った。
ベッドに、母が横たわっていた。
点滴を受けている。
顔色は、悪い。
でも、目は開いている。
凛を見て、微笑んだ。
「凛……」
母の声。
弱々しい声。
凛は、ベッドの横に駆け寄った。
「お母さん!」
凛は、母の手を握った。
冷たい手。
「ごめんなさい。心配かけて」
母は、申し訳なさそうに言った。
「そんな……謝るのは、私の方です」
凛は、涙が止まらなかった。
「私のせいで、こんなことに……」
「違うわ」
母は、首を振った。
「あなたのせいじゃない」
「でも……」
「凛」
母は、凛の手を握り返した。
「あなたは、正しいことをしたの。お母さんは、誇りに思ってるわ」
凛は、涙で前が見えなくなった。
「でも、お母さんが倒れて……」
「大丈夫よ。お母さんは、大丈夫だから」
母は、優しく微笑んだ。
「あなたの方こそ、大変でしょう。一人で、戦ってるんでしょう」
凛は、何も言えなかった。
母は、全部わかっている。
凛が、どんなに辛い状況にいるか。
どんなに孤独か。
全部、わかっている。
「お母さん……」
凛は、母の手を強く握りしめた。
「ありがとう」
母は、凛の頭を撫でた。
「頑張ってね、凛。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、泣き崩れた。
母の手を握りしめたまま。
看護師が、そっとドアを閉めた。
二人だけの時間。
凛は、しばらく泣き続けた。
母は、何も言わず、ただ凛の頭を撫で続けた。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭く。
「お母さん、休んで。私は大丈夫だから」
凛は、できるだけ笑顔を作った。
母は、心配そうに凛を見た。
「本当に、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけられない。
「そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
母は、疲れた声で言った。
「うん。また明日来るから」
凛は、母の手を握った。
「ゆっくり休んでね」
母は、頷いた。
凛は、病室を出た。
廊下を歩く。
足が、重い。
エレベーターに乗る。
1階に降りる。
病院の外に出ると、すでに夜になっていた。
凛は、スマホを取り出した。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、スマホをポケットにしまった。
その時、メールの通知が鳴った。
凛は、反射的にスマホを見た。
差出人は、悠真。
件名:「お話があります」
凛の心臓が、ドキッとした。
悠真から。
凛は、メールを開いた。
「水瀬さん、お話ししたいことがあります。明日の夜、お時間ありますか。例のカフェで会えないでしょうか」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
悠真は、知ったんだ。
凛が、情報源だということを。
凛は、返信を書いた。
「わかりました。明日の夜7時でよろしいでしょうか」
送信。
凛は、スマホを握りしめた。
怖い。
悠真に、会うのが怖い。
何を言われるんだろう。
凛は、深呼吸をした。
でも、逃げられない。
悠真に、ちゃんと会って、説明しなければ。
翌日の夜、凛は病院近くのカフェに向かった。
母の容態は、安定していた。
凛は、昼間に病院を訪れ、母と少し話をした。
母は、「気にしないで。あなたのやるべきことをやりなさい」と言ってくれた。
でも、凛の心は、重かった。
カフェに着くと、悠真はすでに席に座っていた。
窓際の席。
いつもの席。
でも、今日は雰囲気が違う。
悠真の表情が、硬い。
凛は、悠真の向かいに座った。
「こんばんは」
凛は、小さく挨拶した。
「こんばんは」
悠真も、小さく答えた。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
店員が、注文を取りに来た。
二人とも、コーヒーを頼んだ。
凛は、悠真の顔を見ることができなかった。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
「はい」
凛は、顔を上げた。
悠真は、凛を見ていた。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
「あの記事……君が、情報源だったのか」
悠真の声は、低かった。
凛は、何も答えられなかった。
答えなくても、わかる。
沈黙が、答えだ。
悠真は、ため息をついた。
「そうか……」
悠真は、コーヒーカップを手に取った。
でも、飲まない。
ただ、持っているだけ。
「僕を……利用したのか」
悠真の言葉が、凛の心に突き刺さった。
「違います」
凛は、反射的に答えた。
でも、声が震えている。
「違う?」
悠真は、凛を見た。
「じゃあ、何だったんだ。僕との取材は。患者の話を聞いたのは」
凛は、唇を噛んだ。
何と答えればいい。
利用したわけじゃない。
でも、悠真の情報を使ったのは事実だ。
「僕は……君を信頼していた」
悠真の声が、さらに低くなった。
「患者のことを、君に話した。君なら、わかってくれると思ったから」
凛は、胸が苦しくなった。
「でも、君は……それを記事にした」
「違います」
凛は、必死に言った。
「私は、ただ真実を明らかにしたかっただけです」
「真実?」
悠真は、凛を見つめた。
「君が明らかにした真実で、何人の人が傷ついたと思う?」
凛は、何も言えなかった。
「会社の社員。その家族。株主。取引先」
悠真は、一つ一つ数えた。
「みんな、君の真実で、苦しんでいる」
「でも……」
凛は、言葉を探した。
「患者さんたちは、もっと苦しんでいます」
悠真は、黙った。
凛は、続けた。
「メディアジールの副作用で、苦しんでいる人がいます。その人たちを、救いたかったんです」
「それは、僕だって同じだ」
悠真の声が、少し大きくなった。
「僕だって、患者を救いたい。でも、君のやり方は……」
悠真は、言葉を切った。
そして、コーヒーカップを置いた。
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、何も答えられなかった。
正しかったのか。
わからない。
ただ、真実を明らかにしたかった。
それだけだった。
「水瀬さん」
悠真が、また口を開いた。
「僕は、君のこと、特別だと思っていた」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「でも……今は、わからない」
悠真は、立ち上がった。
「ごめん。もう行くよ」
「待ってください」
凛も、立ち上がった。
でも、悠真は振り返らなかった。
「もう少し、考えさせてくれ」
悠真は、そう言って、カフェを出て行った。
凛は、その場に立ち尽くした。
追いかけられない。
追いかけても、何を言えばいい。
凛は、椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
悠真。
凛は、心の中で叫んだ。
でも、悠真は、もういない。
店員が、心配そうに凛を見ていた。
でも、何も言わなかった。
凛は、しばらくそのまま座っていた。
そして、コーヒー代を払って、カフェを出た。
外は、暗かった。
凛は、家に向かって歩き始めた。
足が、重い。
心も、重い。
悠真の言葉が、頭の中で繰り返される。
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、答えられなかった。
ただ、歩き続けた。
家に着くと、凛は部屋に入った。
電気をつける。
静かな部屋。
凛は、ソファに座り込んだ。
スマホを取り出す。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、連絡先を開いた。
友人たちの名前が、並んでいる。
でも、誰からも連絡が来ていない。
みんな、凛から距離を置いている。
凛は、スマホを置いた。
一人だ。
完全に、一人だ。
悠真も、友人も、みんないなくなった。
凛は、膝を抱えた。
ソファの上で、小さく丸くなる。
部屋は、静かだった。
時計の秒針の音だけが、聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
凛は、テレビのリモコンを手に取った。
電源を入れる。
画面に、ニュース番組が映った。
「エクセリア製薬の副作用隠蔽疑惑について、同社は全面的に否定しています」
アナウンサーの声。
画面には、エクセリア製薬の社長が映っている。
記者会見の映像だ。
「当社は、適切な手続きを経て医薬品を販売しております。副作用の隠蔽などという事実は、一切ございません」
社長の声。
堂々としている。
「今回の報道は、元社員による不正な情報漏洩によるものです。当社は、法的措置を検討しております」
凛は、テレビを見つめた。
元社員。
それが、凛だ。
画面が切り替わる。
コメンテーターが、話している。
「内部告発というのは難しい問題ですね。確かに、公益性はあるかもしれませんが、不正アクセスという手段は問題です」
別のコメンテーターが、続ける。
「企業にも、守るべき情報があります。それを一方的に漏らすのは、いかがなものかと」
凛は、テレビを消した。
見ていられない。
みんな、会社の味方だ。
凛の味方は、誰もいない。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
白い天井。
何もない天井。
凛は、目を閉じた。
でも、眠れない。
頭の中では、いろいろな声が響いている。
「裏切り者」
「会社を潰した」
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
全部、凛を責める声。
凛は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中で、ずっと響いている。
凛は、体を起こした。
窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
窓ガラスに、雨粒が当たる音。
パタパタという音。
凛は、窓に近づいた。
ガラスに手を当てる。
冷たい。
外の景色は、雨で霞んでいる。
街灯の光が、ぼんやりと見える。
凛は、そこに立ち尽くした。
「全部、失った」
凛は、小さく呟いた。
仕事。
友人。
悠真。
母の健康。
全部、失った。
真実を明らかにするために。
でも、その代償は、あまりにも大きかった。
凛は、カバンから貝殻を取り出した。
悠真がくれた、貝殻。
手のひらに乗せる。
小さな貝殻。
光にかざせば、虹色に光るはずの貝殻。
でも、今は光らない。
部屋が、暗いから。
凛は、貝殻を握りしめた。
悠真。
ごめんなさい。
心の中で、謝った。
私、あなたを救おうとしたのに。
でも、あなたを傷つけてしまった。
あなたを、失ってしまった。
もう、救えないかもしれない。
凛の目から、涙が溢れてきた。
止まらない。
凛は、床に座り込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
涙が、頬を伝う。
床に、落ちる。
凛は、声を出して泣いた。
誰もいない部屋で。
一人で。
雨の音だけが、部屋に響いていた。
窓の外では、雨が激しく降っている。
凛は、泣き続けた。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、涙は止まっていた。
凛は、顔を上げた。
窓の外を見る。
雨は、まだ降っている。
凛は、貝殻を見つめた。
これが、全部だ。
残ったのは、この貝殻だけ。
悠真との思い出。
約束の証。
でも、その約束は、もう果たせないかもしれない。
凛は、貝殻を胸に抱いた。
立ち上がる。
ベッドに向かう。
そのまま、倒れ込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
目を閉じる。
でも、眠れない。
頭の中は、まだざわついている。
悠真の顔。
母の顔。
みんなの顔。
全部、浮かんでくる。
凛は、枕に顔を埋めた。
このまま、消えてしまいたい。
そんな考えが、頭をよぎった。
でも、消えられない。
生きなきゃいけない。
戦わなきゃいけない。
でも、どうやって。
もう、誰も味方がいない。
一人で、どうやって戦えばいい。
凛は、わからなかった。
答えが、出ない。
ただ、暗闇の中で、凛は横たわっていた。
雨の音が、ずっと続いていた。
これが、凛の最も暗い夜だった。
部屋は、静かだった。
凛は、ソファに座り込んだ。
疲れた。
体も、心も。
凛は、スマホを取り出した。
何通かメッセージが来ている。
母からだ。
「凛、大丈夫? 新聞の記事、見たわ」
「心配してるの。連絡ちょうだい」
凛は、母に返信しようとした。
でも、その前に、ニュースアプリの通知が目に入った。
「エクセリア製薬、副作用隠蔽疑惑で株価急落」
凛は、記事を開いた。
エクセリア製薬の株価が、前日比15パーセント下落したという内容だった。
記事には、会社の声明も載っていた。
「当社は記事の内容を真摯に受け止め、調査を進めております」
凛は、スマホを置いた。
始まったばかりだ。
これから、もっと大きな波が来る。
凛は、目を閉じた。
その時、スマホが震えた。
通知。
SNSの通知だ。
凛は、スマホを手に取った。
メンション通知が、10件以上ある。
凛は、嫌な予感がした。
アプリを開く。
タイムラインには、自分の名前が並んでいた。
「水瀬凛」
「エクセリア製薬」
「内部告発」
凛は、一番上のツイートを開いた。
「エクセリア製薬を裏切った社員、水瀬凛の顔写真。こいつのせいで何人が職を失うと思ってるんだ」
そのツイートには、凛の顔写真が添付されていた。
社員証の写真。
誰が、流したんだろう。
凛は、手が震えるのを感じた。
スクロールする。
次のツイート。
「水瀬凛、住所特定。〇〇市〇〇町〇〇マンション」
凛の心臓が、止まりそうになった。
住所まで。
なぜ。
さらにスクロールする。
「裏切り者は許すな」
「会社を潰した犯罪者」
「不正アクセスで逮捕されろ」
「こいつのせいで株が暴落した。損失補償しろ」
誹謗中傷の嵐。
凛は、スマホを握りしめた。
手が、震えている。
通知が、止まらない。
ブーン。ブーン。
スマホが、震え続ける。
メンション。リプライ。ダイレクトメッセージ。
全部、批判。
全部、非難。
凛は、SNSを閉じようとした。
でも、閉じる前に、一つのツイートが目に入った。
「水瀬凛の母親、〇〇に住んでるらしい。実家にも電凸するか」
凛は、血の気が引いた。
母。
母まで、巻き込まれる。
凛は、すぐに母に電話をかけた。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
「もしもし」
母の声。
でも、いつもと違う。
疲れた声。
「お母さん、大丈夫?」
凛は、焦って聞いた。
「凛……」
母の声が、小さい。
「ごめんね。心配かけて」
「大丈夫よ。でも、凛、あなたの方は……」
母の声が、途切れた。
「お母さん?」
凛は、不安になった。
「ごめんね。ちょっと、近所で噂になっててね」
母は、辛そうに言った。
「ネットで、あなたの名前が出てたから」
凛は、唇を噛んだ。
母まで。
母まで、苦しめてしまった。
「ごめんなさい……」
凛の声が、震えた。
「謝らなくていいのよ」
母は、優しく言った。
「あなたは、正しいことをしたんだから」
「でも……」
「大丈夫。お母さんは、大丈夫だから」
母の声は、無理に明るくしているように聞こえた。
「凛、あなたの方こそ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけたくない。
「そう。よかった」
母は、ほっとしたように言った。
「じゃあ、また連絡するわね」
「うん。無理しないでね」
「あなたもよ」
母は、電話を切った。
凛は、スマホを見つめた。
母の声。
疲れていた。
辛そうだった。
凛は、自分のせいだと思った。
全部、自分のせいだ。
スマホが、また震えた。
通知。
また、SNSの通知。
凛は、スマホを床に投げ出した。
見たくない。
もう、見たくない。
でも、スマホは震え続けている。
ブーン。ブーン。
止まらない。
凛は、両手で耳を塞いだ。
でも、音は聞こえる。
通知の音。
スマホの振動。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
クッションに顔を埋める。
息ができない。
苦しい。
凛は、顔を上げた。
深呼吸をする。
落ち着け。
落ち着かなきゃ。
でも、落ち着けない。
スマホは、まだ震えている。
凛は、スマホを手に取った。
通知を見る。
50件以上。
全部、批判。
凛は、アプリを開いた。
ダイレクトメッセージ。
「死ね」
「消えろ」
「裏切り者」
たった二文字、三文字のメッセージ。
でも、その一つ一つが、凛の心を抉る。
凛は、スマホを握りしめた。
画面が、涙で滲む。
いつの間にか、泣いていた。
凛は、スマホを床に置いた。
通知音を消す。
でも、画面は光り続けている。
新しい通知が、次々と来る。
凛は、スマホから目を離した。
窓の外を見る。
夕暮れ。
朱に染まる空。
きれいな空。
でも、凛の心は、暗かった。
これが、代償なのか。
真実を明らかにした、代償。
凛は、目を閉じた。
でも、すぐに目を開けた。
スマホが、鳴っている。
着信。
母からだ。
凛は、慌ててスマホを取った。
「お母さん?」
「凛さんですか」
母の声じゃない。
女性の声。
看護師か、誰か。
凛の心臓が、激しく鳴り始めた。
「はい、娘です」
凛の声が、震えた。
「お母様が、倒れられました」
凛は、息が止まった。
「今、救急車で病院に向かっています」
「え……どこの病院ですか」
凛は、必死に聞いた。
「〇〇総合病院です」
「すぐに行きます」
凛は、電話を切った。
立ち上がる。
カバンを掴む。
家を飛び出す。
階段を駆け下りる。
エレベーターを待つ余裕もない。
外に出て、タクシーを拾う。
「〇〇総合病院まで、急いでください」
凛は、運転手に言った。
「わかりました」
タクシーが、発進する。
凛は、後部座席で、手を握りしめた。
お母さん。
凛は、目を閉じた。
母の顔が浮かんでくる。
疲れた声。
辛そうな声。
あの電話の時、もう限界だったんだ。
なのに、私は気づかなかった。
凛は、唇を噛んだ。
自分のせいだ。
母を、苦しめた。
母を、倒れさせた。
全部、自分のせいだ。
タクシーが、病院に着いた。
「ありがとうございます」
凛は、料金を払って飛び出した。
病院の入り口へ走る。
受付で、母の名前を告げる。
「救急で運ばれてきた、水瀬知世の家族です」
受付の女性が、パソコンを確認する。
「3階の救急外来です。エレベーターで上がってください」
「ありがとうございます」
凛は、エレベーターに駆け込んだ。
ボタンを押す。
上昇する。
遅い。
こんなに遅かったか。
凛は、イライラした。
早く。
早く、お母さんのところへ。
3階に着いた。
ドアが開く。
凛は、飛び出した。
救急外来の看板を探す。
あった。
凛は、走った。
廊下を走る。
看護師が、「走らないでください」と注意したが、凛は止まらなかった。
救急外来の待合室に着いた。
そこに、医師と看護師が立っていた。
「すみません。水瀬知世の娘です」
凛は、息を切らしながら言った。
医師が、凛を見た。
「お母様は、今、処置中です」
「容態は……」
凛は、震える声で聞いた。
「ストレス性の高血圧です。血圧が急上昇して、倒れられました」
医師は、落ち着いた声で説明した。
「命に別状はありませんが、しばらく安静が必要です」
凛は、ほっとした。
命に別状はない。
よかった。
でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。
ストレス性。
凛のせいだ。
凛が、母にストレスを与えた。
「お母様は、最近、強いストレスを受けていませんでしたか」
医師が、凛に尋ねた。
凛は、何も答えられなかった。
答えられない。
自分のせいだと、わかっているから。
「……はい」
凛は、やっと答えた。
「そうですか」
医師は、何も言わなかった。
でも、その目には、何かが浮かんでいた。
「今後は、ストレスを避けるようにしてください。このままでは、もっと深刻な事態になりかねません」
凛は、頷いた。
「わかりました」
医師は、処置室の方を見た。
「もうすぐ、一般病棟に移します。そうしたら、面会できますから」
「ありがとうございます」
凛は、頭を下げた。
医師と看護師は、処置室に戻っていった。
凛は、待合室の椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
涙が、溢れてきた。
お母さん、ごめんなさい。
心の中で、何度も謝った。
私のせいで。
私が、真実を明らかにしたせいで。
あなたまで、苦しめてしまった。
凛は、声を殺して泣いた。
待合室には、他にも何人かいたが、誰も凛に声をかけなかった。
ただ、静かに見守っているだけだった。
しばらくして、看護師が来た。
「水瀬さん、お母様が病室に移りました。面会できますよ」
凛は、顔を上げた。
涙を拭く。
「ありがとうございます」
凛は、立ち上がった。
看護師について、病室へ向かう。
廊下を歩く。
足が、重い。
病室の前に着いた。
看護師が、ドアを開けた。
「どうぞ」
凛は、中に入った。
ベッドに、母が横たわっていた。
点滴を受けている。
顔色は、悪い。
でも、目は開いている。
凛を見て、微笑んだ。
「凛……」
母の声。
弱々しい声。
凛は、ベッドの横に駆け寄った。
「お母さん!」
凛は、母の手を握った。
冷たい手。
「ごめんなさい。心配かけて」
母は、申し訳なさそうに言った。
「そんな……謝るのは、私の方です」
凛は、涙が止まらなかった。
「私のせいで、こんなことに……」
「違うわ」
母は、首を振った。
「あなたのせいじゃない」
「でも……」
「凛」
母は、凛の手を握り返した。
「あなたは、正しいことをしたの。お母さんは、誇りに思ってるわ」
凛は、涙で前が見えなくなった。
「でも、お母さんが倒れて……」
「大丈夫よ。お母さんは、大丈夫だから」
母は、優しく微笑んだ。
「あなたの方こそ、大変でしょう。一人で、戦ってるんでしょう」
凛は、何も言えなかった。
母は、全部わかっている。
凛が、どんなに辛い状況にいるか。
どんなに孤独か。
全部、わかっている。
「お母さん……」
凛は、母の手を強く握りしめた。
「ありがとう」
母は、凛の頭を撫でた。
「頑張ってね、凛。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、泣き崩れた。
母の手を握りしめたまま。
看護師が、そっとドアを閉めた。
二人だけの時間。
凛は、しばらく泣き続けた。
母は、何も言わず、ただ凛の頭を撫で続けた。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭く。
「お母さん、休んで。私は大丈夫だから」
凛は、できるだけ笑顔を作った。
母は、心配そうに凛を見た。
「本当に、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけられない。
「そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
母は、疲れた声で言った。
「うん。また明日来るから」
凛は、母の手を握った。
「ゆっくり休んでね」
母は、頷いた。
凛は、病室を出た。
廊下を歩く。
足が、重い。
エレベーターに乗る。
1階に降りる。
病院の外に出ると、すでに夜になっていた。
凛は、スマホを取り出した。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、スマホをポケットにしまった。
その時、メールの通知が鳴った。
凛は、反射的にスマホを見た。
差出人は、悠真。
件名:「お話があります」
凛の心臓が、ドキッとした。
悠真から。
凛は、メールを開いた。
「水瀬さん、お話ししたいことがあります。明日の夜、お時間ありますか。例のカフェで会えないでしょうか」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
悠真は、知ったんだ。
凛が、情報源だということを。
凛は、返信を書いた。
「わかりました。明日の夜7時でよろしいでしょうか」
送信。
凛は、スマホを握りしめた。
怖い。
悠真に、会うのが怖い。
何を言われるんだろう。
凛は、深呼吸をした。
でも、逃げられない。
悠真に、ちゃんと会って、説明しなければ。
翌日の夜、凛は病院近くのカフェに向かった。
母の容態は、安定していた。
凛は、昼間に病院を訪れ、母と少し話をした。
母は、「気にしないで。あなたのやるべきことをやりなさい」と言ってくれた。
でも、凛の心は、重かった。
カフェに着くと、悠真はすでに席に座っていた。
窓際の席。
いつもの席。
でも、今日は雰囲気が違う。
悠真の表情が、硬い。
凛は、悠真の向かいに座った。
「こんばんは」
凛は、小さく挨拶した。
「こんばんは」
悠真も、小さく答えた。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
店員が、注文を取りに来た。
二人とも、コーヒーを頼んだ。
凛は、悠真の顔を見ることができなかった。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
「はい」
凛は、顔を上げた。
悠真は、凛を見ていた。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
「あの記事……君が、情報源だったのか」
悠真の声は、低かった。
凛は、何も答えられなかった。
答えなくても、わかる。
沈黙が、答えだ。
悠真は、ため息をついた。
「そうか……」
悠真は、コーヒーカップを手に取った。
でも、飲まない。
ただ、持っているだけ。
「僕を……利用したのか」
悠真の言葉が、凛の心に突き刺さった。
「違います」
凛は、反射的に答えた。
でも、声が震えている。
「違う?」
悠真は、凛を見た。
「じゃあ、何だったんだ。僕との取材は。患者の話を聞いたのは」
凛は、唇を噛んだ。
何と答えればいい。
利用したわけじゃない。
でも、悠真の情報を使ったのは事実だ。
「僕は……君を信頼していた」
悠真の声が、さらに低くなった。
「患者のことを、君に話した。君なら、わかってくれると思ったから」
凛は、胸が苦しくなった。
「でも、君は……それを記事にした」
「違います」
凛は、必死に言った。
「私は、ただ真実を明らかにしたかっただけです」
「真実?」
悠真は、凛を見つめた。
「君が明らかにした真実で、何人の人が傷ついたと思う?」
凛は、何も言えなかった。
「会社の社員。その家族。株主。取引先」
悠真は、一つ一つ数えた。
「みんな、君の真実で、苦しんでいる」
「でも……」
凛は、言葉を探した。
「患者さんたちは、もっと苦しんでいます」
悠真は、黙った。
凛は、続けた。
「メディアジールの副作用で、苦しんでいる人がいます。その人たちを、救いたかったんです」
「それは、僕だって同じだ」
悠真の声が、少し大きくなった。
「僕だって、患者を救いたい。でも、君のやり方は……」
悠真は、言葉を切った。
そして、コーヒーカップを置いた。
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、何も答えられなかった。
正しかったのか。
わからない。
ただ、真実を明らかにしたかった。
それだけだった。
「水瀬さん」
悠真が、また口を開いた。
「僕は、君のこと、特別だと思っていた」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「でも……今は、わからない」
悠真は、立ち上がった。
「ごめん。もう行くよ」
「待ってください」
凛も、立ち上がった。
でも、悠真は振り返らなかった。
「もう少し、考えさせてくれ」
悠真は、そう言って、カフェを出て行った。
凛は、その場に立ち尽くした。
追いかけられない。
追いかけても、何を言えばいい。
凛は、椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
悠真。
凛は、心の中で叫んだ。
でも、悠真は、もういない。
店員が、心配そうに凛を見ていた。
でも、何も言わなかった。
凛は、しばらくそのまま座っていた。
そして、コーヒー代を払って、カフェを出た。
外は、暗かった。
凛は、家に向かって歩き始めた。
足が、重い。
心も、重い。
悠真の言葉が、頭の中で繰り返される。
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、答えられなかった。
ただ、歩き続けた。
家に着くと、凛は部屋に入った。
電気をつける。
静かな部屋。
凛は、ソファに座り込んだ。
スマホを取り出す。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、連絡先を開いた。
友人たちの名前が、並んでいる。
でも、誰からも連絡が来ていない。
みんな、凛から距離を置いている。
凛は、スマホを置いた。
一人だ。
完全に、一人だ。
悠真も、友人も、みんないなくなった。
凛は、膝を抱えた。
ソファの上で、小さく丸くなる。
部屋は、静かだった。
時計の秒針の音だけが、聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
凛は、テレビのリモコンを手に取った。
電源を入れる。
画面に、ニュース番組が映った。
「エクセリア製薬の副作用隠蔽疑惑について、同社は全面的に否定しています」
アナウンサーの声。
画面には、エクセリア製薬の社長が映っている。
記者会見の映像だ。
「当社は、適切な手続きを経て医薬品を販売しております。副作用の隠蔽などという事実は、一切ございません」
社長の声。
堂々としている。
「今回の報道は、元社員による不正な情報漏洩によるものです。当社は、法的措置を検討しております」
凛は、テレビを見つめた。
元社員。
それが、凛だ。
画面が切り替わる。
コメンテーターが、話している。
「内部告発というのは難しい問題ですね。確かに、公益性はあるかもしれませんが、不正アクセスという手段は問題です」
別のコメンテーターが、続ける。
「企業にも、守るべき情報があります。それを一方的に漏らすのは、いかがなものかと」
凛は、テレビを消した。
見ていられない。
みんな、会社の味方だ。
凛の味方は、誰もいない。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
白い天井。
何もない天井。
凛は、目を閉じた。
でも、眠れない。
頭の中では、いろいろな声が響いている。
「裏切り者」
「会社を潰した」
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
全部、凛を責める声。
凛は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中で、ずっと響いている。
凛は、体を起こした。
窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
窓ガラスに、雨粒が当たる音。
パタパタという音。
凛は、窓に近づいた。
ガラスに手を当てる。
冷たい。
外の景色は、雨で霞んでいる。
街灯の光が、ぼんやりと見える。
凛は、そこに立ち尽くした。
「全部、失った」
凛は、小さく呟いた。
仕事。
友人。
悠真。
母の健康。
全部、失った。
真実を明らかにするために。
でも、その代償は、あまりにも大きかった。
凛は、カバンから貝殻を取り出した。
悠真がくれた、貝殻。
手のひらに乗せる。
小さな貝殻。
光にかざせば、虹色に光るはずの貝殻。
でも、今は光らない。
部屋が、暗いから。
凛は、貝殻を握りしめた。
悠真。
ごめんなさい。
心の中で、謝った。
私、あなたを救おうとしたのに。
でも、あなたを傷つけてしまった。
あなたを、失ってしまった。
もう、救えないかもしれない。
凛の目から、涙が溢れてきた。
止まらない。
凛は、床に座り込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
涙が、頬を伝う。
床に、落ちる。
凛は、声を出して泣いた。
誰もいない部屋で。
一人で。
雨の音だけが、部屋に響いていた。
窓の外では、雨が激しく降っている。
凛は、泣き続けた。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、涙は止まっていた。
凛は、顔を上げた。
窓の外を見る。
雨は、まだ降っている。
凛は、貝殻を見つめた。
これが、全部だ。
残ったのは、この貝殻だけ。
悠真との思い出。
約束の証。
でも、その約束は、もう果たせないかもしれない。
凛は、貝殻を胸に抱いた。
立ち上がる。
ベッドに向かう。
そのまま、倒れ込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
目を閉じる。
でも、眠れない。
頭の中は、まだざわついている。
悠真の顔。
母の顔。
みんなの顔。
全部、浮かんでくる。
凛は、枕に顔を埋めた。
このまま、消えてしまいたい。
そんな考えが、頭をよぎった。
でも、消えられない。
生きなきゃいけない。
戦わなきゃいけない。
でも、どうやって。
もう、誰も味方がいない。
一人で、どうやって戦えばいい。
凛は、わからなかった。
答えが、出ない。
ただ、暗闇の中で、凛は横たわっていた。
雨の音が、ずっと続いていた。
これが、凛の最も暗い夜だった。