過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために
第22章 改ざんの罠
川島の質問は、続いた。
「その副作用報告を見て、あなたはどう思いましたか」
凛は、あの日のことを思い出した。
コピー機の前で、震える手で報告書を読んだこと。
「患者さんたちが、苦しんでいるのに、会社はそれを隠している。許せないと思いました」
凛の声は、しっかりしていた。
もう、震えていない。
「それで、どうしましたか」
「まず、上司に相談しようと思いました」
凛は、答えた。
「でも、先輩から『見なかったことにしろ』と言われました」
傍聴席が、ざわついた。
裁判長が、静粛を求める。
「それで、あなたは社内データベースにアクセスしたのですね」
川島が、確認した。
「はい」
凛は、頷いた。
「会社に正式に訴えても、握りつぶされると思いました。患者さんたちの命が、危険にさらされていました」
凛の声には、強い意志が込められていた。
「だから、真実を外部に知らせる必要があったんです」
川島は、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
川島は、席に戻った。
裁判長は、原告側の弁護士を見た。
「原告側、反対尋問をどうぞ」
相手方の主任弁護士が、立ち上がった。
50代くらいの男性。
鋭い目。
冷たい表情。
「水瀬さん」
弁護士の声は、低かった。
「あなたは、不正アクセスが犯罪だと知っていましたね」
凛は、一瞬躊躇した。
でも、すぐに答えた。
「はい。知っていました」
「それでも、やったのですね」
「はい」
凛の声は、揺るがなかった。
「患者さんたちを救うために」
弁護士は、冷笑した。
「患者を救う? それで、犯罪が正当化されると?」
凛は、唇を噛んだ。
でも、答えた。
「正当化するつもりはありません。でも、他に方法がなかったんです」
弁護士は、資料をめくった。
「あなたの行為により、当社の株価は15パーセント下落しました。企業価値は、数百億円毀損されました」
凛は、息を呑んだ。
「その責任を、どう考えますか」
弁護士の声は、厳しかった。
凛は、深呼吸をした。
練習した通りに。
「私は、患者さんたちの命を優先しました」
凛の声は、震えていなかった。
「会社の利益よりも、人の命の方が大切だと思ったからです」
弁護士は、眉をひそめた。
「あなたのその独善的な判断で、何千人もの社員が苦しむことになったのですよ」
凛は、何も答えられなかった。
それは、わかっている。
社員たちも、苦しんでいる。
でも......。
「答えられないのですね」
弁護士は、勝ち誇ったように言った。
「あなたは、自分の正義感を満たすために、会社を裏切った。それだけのことです」
凛は、拳を握りしめた。
違う。
そうじゃない。
でも、言葉が出てこない。
弁護士は、席に戻った。
裁判長は、凛を見た。
「証人、席にお戻りください」
凛は、頷いた。
証言台を降りる。
足が、少し震えていた。
席に戻ると、悠真が凛の手を握った。
「よく頑張りました」
悠真の声は、優しかった。
凛は、小さく微笑んだ。
でも、心は晴れなかった。
相手方の弁護士の言葉が、頭に残っている。
裁判長は、資料を確認していた。
「次に、被告側から提出された証拠について、確認します」
川島が、立ち上がった。
「はい。被告が取得した、メディアジールの副作用報告データを提出しております」
書記官が、スクリーンを準備した。
部屋の明かりが、少し暗くなる。
スクリーンに、データが表示され始めた。
メディアジールの副作用報告。
症例番号、患者の年齢、性別、症状。
一つ一つが、画面に映し出される。
傍聴席から、息を呑む音が聞こえた。
凛は、その画面を見つめていた。
自分が取得したデータ。
真実の証拠。
裁判長は、画面を見ながら資料を確認していた。
表情は、厳しい。
何を考えているのか、わからない。
その時、原告側の主任弁護士が立ち上がった。
「裁判長、異議があります」
裁判長は、弁護士を見た。
「どうぞ」
弁護士は、手元から資料を取り出した。
「被告が提出したデータについて、当社は独自に鑑定を依頼しました」
凛の心臓が、止まりそうになった。
鑑定?
弁護士は、資料を裁判長に提出した。
書記官が、それを受け取る。
「この鑑定結果によりますと、被告が提出したデータには、加工の痕跡が認められます」
凛は、息を呑んだ。
加工の痕跡?
そんな。
傍聴席が、ざわめいた。
記者たちが、一斉にメモを取り始める。
弁護士は、続けた。
「具体的には、ファイルのメタデータに不自然な編集履歴があり、一部のデータが後から追加された可能性が高いと、専門家が指摘しています」
凛は、立ち上がろうとした。
でも、川島が凛の腕を掴んだ。
「落ち着いて」
川島は、小声で言った。
凛は、唇を噛んだ。
そんなはずはない。
加工なんて、していない。
データは、そのままコピーしただけだ。
弁護士は、さらに続けた。
「つまり、被告が提出したデータは、改ざんされている可能性が高い。信憑性に、重大な疑義があります」
裁判長は、提出された鑑定書を読んでいた。
顔色が、変わらない。
何を考えているのか、わからない。
凛は、手が震えるのを感じた。
これは、罠だ。
会社が、用意した罠だ。
でも、どうやって。
凛は、頭が真っ白になった。
川島が、立ち上がった。
「裁判長、被告側として反論いたします」
裁判長は、川島を見た。
「どうぞ」
川島は、落ち着いた声で話し始めた。
「原告側の鑑定結果は、一方的なものです。我々も、独自に鑑定を依頼しており、そこでは改ざんの痕跡は認められていません」
弁護士が、即座に反論した。
「当社の鑑定は、デジタルフォレンジックの専門家によるものです。信頼性は高い」
川島は、頷いた。
「我々の鑑定も、同様に専門家によるものです。つまり、専門家の間でも見解が分かれているということです」
裁判長は、二人のやり取りを聞いていた。
そして、口を開いた。
「双方の鑑定結果が異なる以上、この証拠の信憑性については、慎重に検討する必要があります」
凛は、胸が苦しくなった。
慎重に検討。
それは、つまり、信用できないということだ。
弁護士は、さらに続けた。
「さらに申し上げますと、被告は不正アクセスによってデータを取得しています。その過程で、データを改ざんする機会は十分にありました」
凛は、声を出そうとした。
でも、声が出ない。
喉が、詰まっている。
「被告の提出した証拠は、その入手方法からしても、信憑性に欠けます。裁判所におかれましては、この証拠を採用しないよう、求めます」
弁護士は、そう言って席に戻った。
凛は、悠真を見た。
悠真も、青ざめた顔をしていた。
川島は、再び立ち上がった。
「裁判長、被告が取得したデータは、事実です。改ざんなどしていません」
裁判長は、川島を見た。
「しかし、双方の鑑定結果が食い違っている以上、どちらが正しいか、この場で判断することは困難です」
川島は、食い下がった。
「では、第三者機関による鑑定を、改めて依頼することを提案します」
裁判長は、少し考えた。
それから、答えた。
「その提案は、検討に値します。しかし、それには時間がかかります」
凛は、拳を握りしめた。
時間。
また、時間がかかる。
その間に、何が起こるかわからない。
裁判長は、資料を閉じた。
そして、法廷全体を見渡した。
「本日提出された証拠については、信憑性に疑義があります」
裁判長の言葉が、法廷に響いた。
凛の心臓が、激しく鳴った。
疑義。
信じてもらえない。
「双方の鑑定結果を精査し、必要であれば第三者による再鑑定も検討します」
裁判長は、少し間を置いた。
「午後1時に審理を再開し、双方から補足の主張があれば聞きます。それまで、休廷とします」
裁判長は、小槌を叩いた。
傍聴席が、一斉にざわめいた。
記者たちが、立ち上がる。
凛は、その場に座ったまま、動けなかった。
信じてもらえなかった。
証拠が、疑われている。
凛は、両手で顔を覆った。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「水瀬さん……」
悠真の声も、震えていた。
顔面蒼白だ。
川島が、二人に近づいた。
「まだ、終わったわけではありません」
川島の声は、落ち着いていた。
でも、その表情は、厳しかった。
「午後の審理で、もう一度主張します」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
「でも……」
凛の声は、かすれていた。
「裁判長は、疑っています」
川島は、頷いた。
「確かに、厳しい状況です。でも、諦めてはいけません」
凛は、何も答えられなかった。
ただ、涙が溢れてきた。
止められない。
悠真が、凛の手を握った。
「大丈夫。僕が、ついています」
でも、その声も、力がなかった。
悠真も、ショックを受けている。
凛は、悠真の手を握り返した。
でも、その手は、冷たかった。
法廷を出ると、報道陣が待ち構えていた。
「水瀬さん、データ改ざんの疑惑について、コメントを」
「鑑定結果を、どう受け止めますか」
「裁判に勝つ自信は、ありますか」
質問が、次々と飛んでくる。
凛は、何も答えなかった。
答える気力がない。
悠真が、凛を守るように並んで歩いた。
「すみません。今はコメントできません」
悠真が、記者たちに言った。
でも、記者たちは引き下がらない。
カメラが、凛を追いかけてくる。
フラッシュが、光る。
凛は、ただ前を向いて歩いた。
涙を拭いながら。
裁判所を出た。
外は、曇り空だった。
今にも雨が降り出しそうな、重い空。
凛は、その空を見上げた。
灰色の雲。
希望が、見えない。
「水瀬さん」
悠真が、凛に話しかけた。
「カフェにでも、行きませんか。少し休みましょう」
凛は、頷いた。
二人は、近くのカフェに入った。
奥の席に座る。
コーヒーを注文した。
でも、二人とも、飲む気にならなかった。
ただ、カップを見つめているだけ。
沈黙が、続いた。
重い沈黙。
凛は、やっと口を開いた。
「改ざんなんて、していません」
凛の声は、小さかった。
「わかっています」
悠真は、凛の手を取った。
「僕は、信じています」
凛は、悠真を見た。
涙で、視界がぼやけている。
「でも、裁判長は……」
「裁判長も、いずれわかってくれます」
悠真は、凛の手を握りしめた。
「真実は、必ず明らかになります」
凛は、首を振った。
「もう……わかりません」
凛の声は、絶望に満ちていた。
「会社は、あんな証拠まで用意していた。どうやって戦えばいいのか……」
悠真は、何も言えなかった。
ただ、凛の手を握り続けるだけだった。
二人は、しばらく黙っていた。
カフェの中には、他の客の話し声が聞こえる。
笑い声。
楽しそうな会話。
でも、凛と悠真の周りには、ただ沈黙があった。
重く、暗い沈黙。
凛は、窓の外を見た。
人々が、行き交っている。
普通の日常。
でも、凛の日常は、もう戻らない。
時計を見ると、午後12時40分。
あと20分で、審理が再開される。
凛は、コーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
苦い。
「行きましょう」
悠真が、凛に声をかけた。
凛は、力なく頷いた。
二人は、カフェを出て、裁判所に戻った。
廊下には、また記者たちが待ち構えていた。
でも、凛は何も見えていなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
足が、重い。
一歩、一歩が、つらい。
法廷の前の廊下に着いた。
川島が、待っていた。
「お二人とも、大丈夫ですか」
川島が、心配そうに尋ねた。
凛は、何も答えられなかった。
ただ、首を横に振った。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
「水瀬さん」
川島が、凛の肩に手を置いた。
「まだ、終わったわけではありません。午後の審理で、もう一度主張します」
凛は、川島を見た。
その目には、もう光がなかった。
「もう……無理です」
凛の声は、小さかった。
かすれていた。
「証拠は、信じてもらえなかった。もう、何も……」
凛の足が、崩れた。
廊下の床に、膝をついた。
力が、入らない。
立っていられない。
「水瀬さん!」
悠真が、凛に駆け寄った。
凛を抱きしめる。
「諦めないでください」
悠真の声も、震えていた。
「まだ、方法はあります」
凛は、悠真の胸に顔を埋めた。
涙が、止まらない。
声を出して、泣いた。
もう、我慢できない。
廊下を通る人たちが、凛を見ている。
でも、凛は気にしなかった。
もう、何も気にならない。
ただ、泣くことしかできなかった。
「水瀬さん……」
悠真が、凛を強く抱きしめた。
「僕が、ついています。一人じゃありません」
凛は、悠真にすがりついた。
もう、立ち上がれない。
もう、戦えない。
全てが、終わった気がした。
川島は、二人を見つめていた。
その表情も、厳しかった。
希望が、見えない。
どうやって、この状況を打破すればいいのか。
川島にも、答えが見つからなかった。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
でも、泣き止んだ。
もう、涙も出ない。
凛は、立ち上がろうとした。
悠真が、凛を支えた。
「大丈夫ですか」
凛は、小さく頷いた。
「少し……席を外したいです」
凛の声は、かすれていた。
「わかりました。そこまで一緒に行きます」
悠真が、凛の腕を取った。
川島は、二人を見送った。
トイレの前に着くと、凛は悠真に言った。
「少し、一人にしてください」
悠真は、心配そうな顔をした。
「でも……」
「大丈夫です。すぐに戻ります」
凛は、そう言った。
悠真は、少し迷ったが、頷いた。
「わかりました。ここで待っています」
凛は、女性用トイレに入った。
個室に入り、ドアを閉めた。
両手で顔を覆う。
もう、終わりだ。
凛は、そう思った。
どうやって戦えばいい。
証拠は、信じてもらえなかった。
会社は、あんな鑑定結果まで用意していた。
もう、勝ち目はない。
凛は、ポケットに手を入れた。
何か、触れる。
小さな、硬いもの。
凛は、それを取り出した。
貝殻。
悠真がくれた、貝殻。
いつも持ち歩いている、お守り。
凛は、その貝殻を見つめた。
白くて、小さくて、きれいな貝殻。
光にかざすと、虹色に光るはずの貝殻。
でも、今は光っていない。
トイレの中は、暗いから。
凛は、その貝殻を握りしめた。
過去の記憶が、蘇ってきた。
小学2年生の頃。
秘密基地で、悠真と話した時。
「凛ちゃんなら、何かできると思うから」
子供の悠真の声。
純粋な声。
信じてくれる声。
凛は、目を閉じた。
あの時、悠真は言った。
「僕、32歳で死ぬんだ」
「ある製薬会社の薬のせいで」
凛は、その言葉を思い出した。
だから、私は戦ってきた。
悠真を救うために。
患者さんたちを救うために。
真実を明らかにするために。
でも、もう終わりなのか。
ここで、諦めるのか。
凛は、貝殻を強く握りしめた。
「まだ……」
凛は、小さく呟いた。
「まだ、終わってない」
凛の声は、震えていた。
でも、その中に、わずかな強さがあった。
「悠真……」
凛は、貝殻を胸に当てた。
「約束、まだ守れてない」
凛は、目を開けた。
涙は、もう止まっていた。
凛は、立ち上がった。
鏡を見る。
ひどい顔。
目は腫れている。
化粧は、崩れている。
でも、その目には、わずかな光が戻っていた。
凛は、顔を洗った。
冷たい水が、顔に当たる。
少しだけ、目が覚めた。
化粧を直す。
髪を整える。
深呼吸をする。
もう一度、戦おう。
最後まで、諦めない。
凛は、トイレを出た。
悠真が、ドアの前で待っていた。
「水瀬さん」
悠真が、凛を見た。
凛は、小さく微笑んだ。
「行きましょう」
悠真は、驚いたように凛を見た。
凛の目に、光が戻っている。
わずかだけど、確かな光。
「はい」
悠真は、頷いた。
二人は、法廷へ向かった。
廊下を歩く。
凛の足取りは、まだ重かった。
でも、以前よりは、しっかりしていた。
法廷の扉の前に着いた。
川島が、待っていた。
「水瀬さん。大丈夫ですか」
川島が、心配そうに尋ねた。
凛は、頷いた。
「はい。大丈夫です」
川島は、凛の目を見た。
そこに、わずかな光を見つけた。
「わかりました。では、行きましょう」
三人は、法廷に入った。
傍聴席は、相変わらず満席だった。
記者たち。
患者支援団体の人たち。
一般の傍聴人。
みんなが、凛を見ている。
凛は、その視線を感じながら、席に着いた。
午後1時になった。
裁判長が、入廷した。
「全員、起立」
書記官の声。
全員が、立ち上がった。
裁判長が、席に着く。
「着席」
全員が、座った。
裁判長は、資料を開いた。
「午後の審理を再開します」
裁判長の声が、法廷に響いた。
凛の心臓が、また激しく鳴り始めた。
裁判長は、両方の弁護士を見た。
「午前中に提出された証拠について、双方の主張は理解しました」
裁判長は、少し間を置いた。
それから、続けた。
「被告側、他に補足する主張はありますか」
川島が、立ち上がった。
「はい。被告が提出したデータについて、改めて申し上げます」
川島の声は、力強かった。
「被告・水瀬凛は、データを改ざんなどしておりません。原告側の鑑定結果は、一方的なものです」
裁判長は、川島を見ていた。
表情は、変わらない。
「第三者機関による鑑定を、改めてお願いします」
川島は、そう主張した。
裁判長は、頷いた。
「その件は、検討します」
それから、原告側を見た。
「原告側、補足はありますか」
相手方の弁護士が、立ち上がった。
「現時点では、ございません」
裁判長は、資料を閉じた。
「それでは……」
裁判長が、何か言おうとした。
その時、凛が立ち上がった。
「裁判長」
凛の声が、法廷に響いた。
裁判長は、凛を見た。
川島も、驚いて凛を見た。
傍聴席も、ざわめいた。
凛は、震える声で言った。
「私のデータは、本物です。改ざんなんて、していません」
裁判長は、凛を見つめた。
その目は、厳しかった。
「被告、席に着いてください」
凛は、首を振った。
「お願いします。信じてください」
凛の声は、必死だった。
「私は、嘘をついていません。患者さんたちは、本当に苦しんでいます。会社は、それを隠蔽しています」
裁判長の表情は、変わらなかった。
硬いままだった。
「被告。感情的な訴えは、証拠にはなりません。席に着いてください」
凛は、唇を噛んだ。
涙が、また溢れてきた。
でも、凛は立ち続けた。
「お願いします……」
凛の声は、かすれていた。
「信じてください」
裁判長は、小槌を手に取った。
「被告、これ以上続けるなら、退廷を命じます」
川島が、凛の腕を掴んだ。
「水瀬さん、座ってください」
凛は、力なく座り込んだ。
もう、何も言えない。
裁判長は、言葉を続けた。
「本件については、証拠の信憑性に重大な疑義があります。第三者機関による鑑定を待って、改めて判断します」
裁判長は、少し間を置いた。
「次回期日は、追って連絡します。本日は、これで閉廷します」
裁判長が、小槌を叩こうとした。
凛は、その場に座ったまま、動けなかった。
終わった。
何も、変わらなかった。
信じてもらえなかった。
凛は、両手で顔を覆った。
絶望の淵。
そこに、凛はいた。
悠真が、凛の肩を抱いた。
「水瀬さん……」
悠真の声も、震えていた。
川島は、厳しい表情で立っていた。
もう、手の打ちようがない。
裁判長の小槌が、今にも下ろされようとしていた。
その時だった。
「その副作用報告を見て、あなたはどう思いましたか」
凛は、あの日のことを思い出した。
コピー機の前で、震える手で報告書を読んだこと。
「患者さんたちが、苦しんでいるのに、会社はそれを隠している。許せないと思いました」
凛の声は、しっかりしていた。
もう、震えていない。
「それで、どうしましたか」
「まず、上司に相談しようと思いました」
凛は、答えた。
「でも、先輩から『見なかったことにしろ』と言われました」
傍聴席が、ざわついた。
裁判長が、静粛を求める。
「それで、あなたは社内データベースにアクセスしたのですね」
川島が、確認した。
「はい」
凛は、頷いた。
「会社に正式に訴えても、握りつぶされると思いました。患者さんたちの命が、危険にさらされていました」
凛の声には、強い意志が込められていた。
「だから、真実を外部に知らせる必要があったんです」
川島は、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
川島は、席に戻った。
裁判長は、原告側の弁護士を見た。
「原告側、反対尋問をどうぞ」
相手方の主任弁護士が、立ち上がった。
50代くらいの男性。
鋭い目。
冷たい表情。
「水瀬さん」
弁護士の声は、低かった。
「あなたは、不正アクセスが犯罪だと知っていましたね」
凛は、一瞬躊躇した。
でも、すぐに答えた。
「はい。知っていました」
「それでも、やったのですね」
「はい」
凛の声は、揺るがなかった。
「患者さんたちを救うために」
弁護士は、冷笑した。
「患者を救う? それで、犯罪が正当化されると?」
凛は、唇を噛んだ。
でも、答えた。
「正当化するつもりはありません。でも、他に方法がなかったんです」
弁護士は、資料をめくった。
「あなたの行為により、当社の株価は15パーセント下落しました。企業価値は、数百億円毀損されました」
凛は、息を呑んだ。
「その責任を、どう考えますか」
弁護士の声は、厳しかった。
凛は、深呼吸をした。
練習した通りに。
「私は、患者さんたちの命を優先しました」
凛の声は、震えていなかった。
「会社の利益よりも、人の命の方が大切だと思ったからです」
弁護士は、眉をひそめた。
「あなたのその独善的な判断で、何千人もの社員が苦しむことになったのですよ」
凛は、何も答えられなかった。
それは、わかっている。
社員たちも、苦しんでいる。
でも......。
「答えられないのですね」
弁護士は、勝ち誇ったように言った。
「あなたは、自分の正義感を満たすために、会社を裏切った。それだけのことです」
凛は、拳を握りしめた。
違う。
そうじゃない。
でも、言葉が出てこない。
弁護士は、席に戻った。
裁判長は、凛を見た。
「証人、席にお戻りください」
凛は、頷いた。
証言台を降りる。
足が、少し震えていた。
席に戻ると、悠真が凛の手を握った。
「よく頑張りました」
悠真の声は、優しかった。
凛は、小さく微笑んだ。
でも、心は晴れなかった。
相手方の弁護士の言葉が、頭に残っている。
裁判長は、資料を確認していた。
「次に、被告側から提出された証拠について、確認します」
川島が、立ち上がった。
「はい。被告が取得した、メディアジールの副作用報告データを提出しております」
書記官が、スクリーンを準備した。
部屋の明かりが、少し暗くなる。
スクリーンに、データが表示され始めた。
メディアジールの副作用報告。
症例番号、患者の年齢、性別、症状。
一つ一つが、画面に映し出される。
傍聴席から、息を呑む音が聞こえた。
凛は、その画面を見つめていた。
自分が取得したデータ。
真実の証拠。
裁判長は、画面を見ながら資料を確認していた。
表情は、厳しい。
何を考えているのか、わからない。
その時、原告側の主任弁護士が立ち上がった。
「裁判長、異議があります」
裁判長は、弁護士を見た。
「どうぞ」
弁護士は、手元から資料を取り出した。
「被告が提出したデータについて、当社は独自に鑑定を依頼しました」
凛の心臓が、止まりそうになった。
鑑定?
弁護士は、資料を裁判長に提出した。
書記官が、それを受け取る。
「この鑑定結果によりますと、被告が提出したデータには、加工の痕跡が認められます」
凛は、息を呑んだ。
加工の痕跡?
そんな。
傍聴席が、ざわめいた。
記者たちが、一斉にメモを取り始める。
弁護士は、続けた。
「具体的には、ファイルのメタデータに不自然な編集履歴があり、一部のデータが後から追加された可能性が高いと、専門家が指摘しています」
凛は、立ち上がろうとした。
でも、川島が凛の腕を掴んだ。
「落ち着いて」
川島は、小声で言った。
凛は、唇を噛んだ。
そんなはずはない。
加工なんて、していない。
データは、そのままコピーしただけだ。
弁護士は、さらに続けた。
「つまり、被告が提出したデータは、改ざんされている可能性が高い。信憑性に、重大な疑義があります」
裁判長は、提出された鑑定書を読んでいた。
顔色が、変わらない。
何を考えているのか、わからない。
凛は、手が震えるのを感じた。
これは、罠だ。
会社が、用意した罠だ。
でも、どうやって。
凛は、頭が真っ白になった。
川島が、立ち上がった。
「裁判長、被告側として反論いたします」
裁判長は、川島を見た。
「どうぞ」
川島は、落ち着いた声で話し始めた。
「原告側の鑑定結果は、一方的なものです。我々も、独自に鑑定を依頼しており、そこでは改ざんの痕跡は認められていません」
弁護士が、即座に反論した。
「当社の鑑定は、デジタルフォレンジックの専門家によるものです。信頼性は高い」
川島は、頷いた。
「我々の鑑定も、同様に専門家によるものです。つまり、専門家の間でも見解が分かれているということです」
裁判長は、二人のやり取りを聞いていた。
そして、口を開いた。
「双方の鑑定結果が異なる以上、この証拠の信憑性については、慎重に検討する必要があります」
凛は、胸が苦しくなった。
慎重に検討。
それは、つまり、信用できないということだ。
弁護士は、さらに続けた。
「さらに申し上げますと、被告は不正アクセスによってデータを取得しています。その過程で、データを改ざんする機会は十分にありました」
凛は、声を出そうとした。
でも、声が出ない。
喉が、詰まっている。
「被告の提出した証拠は、その入手方法からしても、信憑性に欠けます。裁判所におかれましては、この証拠を採用しないよう、求めます」
弁護士は、そう言って席に戻った。
凛は、悠真を見た。
悠真も、青ざめた顔をしていた。
川島は、再び立ち上がった。
「裁判長、被告が取得したデータは、事実です。改ざんなどしていません」
裁判長は、川島を見た。
「しかし、双方の鑑定結果が食い違っている以上、どちらが正しいか、この場で判断することは困難です」
川島は、食い下がった。
「では、第三者機関による鑑定を、改めて依頼することを提案します」
裁判長は、少し考えた。
それから、答えた。
「その提案は、検討に値します。しかし、それには時間がかかります」
凛は、拳を握りしめた。
時間。
また、時間がかかる。
その間に、何が起こるかわからない。
裁判長は、資料を閉じた。
そして、法廷全体を見渡した。
「本日提出された証拠については、信憑性に疑義があります」
裁判長の言葉が、法廷に響いた。
凛の心臓が、激しく鳴った。
疑義。
信じてもらえない。
「双方の鑑定結果を精査し、必要であれば第三者による再鑑定も検討します」
裁判長は、少し間を置いた。
「午後1時に審理を再開し、双方から補足の主張があれば聞きます。それまで、休廷とします」
裁判長は、小槌を叩いた。
傍聴席が、一斉にざわめいた。
記者たちが、立ち上がる。
凛は、その場に座ったまま、動けなかった。
信じてもらえなかった。
証拠が、疑われている。
凛は、両手で顔を覆った。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「水瀬さん……」
悠真の声も、震えていた。
顔面蒼白だ。
川島が、二人に近づいた。
「まだ、終わったわけではありません」
川島の声は、落ち着いていた。
でも、その表情は、厳しかった。
「午後の審理で、もう一度主張します」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
「でも……」
凛の声は、かすれていた。
「裁判長は、疑っています」
川島は、頷いた。
「確かに、厳しい状況です。でも、諦めてはいけません」
凛は、何も答えられなかった。
ただ、涙が溢れてきた。
止められない。
悠真が、凛の手を握った。
「大丈夫。僕が、ついています」
でも、その声も、力がなかった。
悠真も、ショックを受けている。
凛は、悠真の手を握り返した。
でも、その手は、冷たかった。
法廷を出ると、報道陣が待ち構えていた。
「水瀬さん、データ改ざんの疑惑について、コメントを」
「鑑定結果を、どう受け止めますか」
「裁判に勝つ自信は、ありますか」
質問が、次々と飛んでくる。
凛は、何も答えなかった。
答える気力がない。
悠真が、凛を守るように並んで歩いた。
「すみません。今はコメントできません」
悠真が、記者たちに言った。
でも、記者たちは引き下がらない。
カメラが、凛を追いかけてくる。
フラッシュが、光る。
凛は、ただ前を向いて歩いた。
涙を拭いながら。
裁判所を出た。
外は、曇り空だった。
今にも雨が降り出しそうな、重い空。
凛は、その空を見上げた。
灰色の雲。
希望が、見えない。
「水瀬さん」
悠真が、凛に話しかけた。
「カフェにでも、行きませんか。少し休みましょう」
凛は、頷いた。
二人は、近くのカフェに入った。
奥の席に座る。
コーヒーを注文した。
でも、二人とも、飲む気にならなかった。
ただ、カップを見つめているだけ。
沈黙が、続いた。
重い沈黙。
凛は、やっと口を開いた。
「改ざんなんて、していません」
凛の声は、小さかった。
「わかっています」
悠真は、凛の手を取った。
「僕は、信じています」
凛は、悠真を見た。
涙で、視界がぼやけている。
「でも、裁判長は……」
「裁判長も、いずれわかってくれます」
悠真は、凛の手を握りしめた。
「真実は、必ず明らかになります」
凛は、首を振った。
「もう……わかりません」
凛の声は、絶望に満ちていた。
「会社は、あんな証拠まで用意していた。どうやって戦えばいいのか……」
悠真は、何も言えなかった。
ただ、凛の手を握り続けるだけだった。
二人は、しばらく黙っていた。
カフェの中には、他の客の話し声が聞こえる。
笑い声。
楽しそうな会話。
でも、凛と悠真の周りには、ただ沈黙があった。
重く、暗い沈黙。
凛は、窓の外を見た。
人々が、行き交っている。
普通の日常。
でも、凛の日常は、もう戻らない。
時計を見ると、午後12時40分。
あと20分で、審理が再開される。
凛は、コーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
苦い。
「行きましょう」
悠真が、凛に声をかけた。
凛は、力なく頷いた。
二人は、カフェを出て、裁判所に戻った。
廊下には、また記者たちが待ち構えていた。
でも、凛は何も見えていなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
足が、重い。
一歩、一歩が、つらい。
法廷の前の廊下に着いた。
川島が、待っていた。
「お二人とも、大丈夫ですか」
川島が、心配そうに尋ねた。
凛は、何も答えられなかった。
ただ、首を横に振った。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
「水瀬さん」
川島が、凛の肩に手を置いた。
「まだ、終わったわけではありません。午後の審理で、もう一度主張します」
凛は、川島を見た。
その目には、もう光がなかった。
「もう……無理です」
凛の声は、小さかった。
かすれていた。
「証拠は、信じてもらえなかった。もう、何も……」
凛の足が、崩れた。
廊下の床に、膝をついた。
力が、入らない。
立っていられない。
「水瀬さん!」
悠真が、凛に駆け寄った。
凛を抱きしめる。
「諦めないでください」
悠真の声も、震えていた。
「まだ、方法はあります」
凛は、悠真の胸に顔を埋めた。
涙が、止まらない。
声を出して、泣いた。
もう、我慢できない。
廊下を通る人たちが、凛を見ている。
でも、凛は気にしなかった。
もう、何も気にならない。
ただ、泣くことしかできなかった。
「水瀬さん……」
悠真が、凛を強く抱きしめた。
「僕が、ついています。一人じゃありません」
凛は、悠真にすがりついた。
もう、立ち上がれない。
もう、戦えない。
全てが、終わった気がした。
川島は、二人を見つめていた。
その表情も、厳しかった。
希望が、見えない。
どうやって、この状況を打破すればいいのか。
川島にも、答えが見つからなかった。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
でも、泣き止んだ。
もう、涙も出ない。
凛は、立ち上がろうとした。
悠真が、凛を支えた。
「大丈夫ですか」
凛は、小さく頷いた。
「少し……席を外したいです」
凛の声は、かすれていた。
「わかりました。そこまで一緒に行きます」
悠真が、凛の腕を取った。
川島は、二人を見送った。
トイレの前に着くと、凛は悠真に言った。
「少し、一人にしてください」
悠真は、心配そうな顔をした。
「でも……」
「大丈夫です。すぐに戻ります」
凛は、そう言った。
悠真は、少し迷ったが、頷いた。
「わかりました。ここで待っています」
凛は、女性用トイレに入った。
個室に入り、ドアを閉めた。
両手で顔を覆う。
もう、終わりだ。
凛は、そう思った。
どうやって戦えばいい。
証拠は、信じてもらえなかった。
会社は、あんな鑑定結果まで用意していた。
もう、勝ち目はない。
凛は、ポケットに手を入れた。
何か、触れる。
小さな、硬いもの。
凛は、それを取り出した。
貝殻。
悠真がくれた、貝殻。
いつも持ち歩いている、お守り。
凛は、その貝殻を見つめた。
白くて、小さくて、きれいな貝殻。
光にかざすと、虹色に光るはずの貝殻。
でも、今は光っていない。
トイレの中は、暗いから。
凛は、その貝殻を握りしめた。
過去の記憶が、蘇ってきた。
小学2年生の頃。
秘密基地で、悠真と話した時。
「凛ちゃんなら、何かできると思うから」
子供の悠真の声。
純粋な声。
信じてくれる声。
凛は、目を閉じた。
あの時、悠真は言った。
「僕、32歳で死ぬんだ」
「ある製薬会社の薬のせいで」
凛は、その言葉を思い出した。
だから、私は戦ってきた。
悠真を救うために。
患者さんたちを救うために。
真実を明らかにするために。
でも、もう終わりなのか。
ここで、諦めるのか。
凛は、貝殻を強く握りしめた。
「まだ……」
凛は、小さく呟いた。
「まだ、終わってない」
凛の声は、震えていた。
でも、その中に、わずかな強さがあった。
「悠真……」
凛は、貝殻を胸に当てた。
「約束、まだ守れてない」
凛は、目を開けた。
涙は、もう止まっていた。
凛は、立ち上がった。
鏡を見る。
ひどい顔。
目は腫れている。
化粧は、崩れている。
でも、その目には、わずかな光が戻っていた。
凛は、顔を洗った。
冷たい水が、顔に当たる。
少しだけ、目が覚めた。
化粧を直す。
髪を整える。
深呼吸をする。
もう一度、戦おう。
最後まで、諦めない。
凛は、トイレを出た。
悠真が、ドアの前で待っていた。
「水瀬さん」
悠真が、凛を見た。
凛は、小さく微笑んだ。
「行きましょう」
悠真は、驚いたように凛を見た。
凛の目に、光が戻っている。
わずかだけど、確かな光。
「はい」
悠真は、頷いた。
二人は、法廷へ向かった。
廊下を歩く。
凛の足取りは、まだ重かった。
でも、以前よりは、しっかりしていた。
法廷の扉の前に着いた。
川島が、待っていた。
「水瀬さん。大丈夫ですか」
川島が、心配そうに尋ねた。
凛は、頷いた。
「はい。大丈夫です」
川島は、凛の目を見た。
そこに、わずかな光を見つけた。
「わかりました。では、行きましょう」
三人は、法廷に入った。
傍聴席は、相変わらず満席だった。
記者たち。
患者支援団体の人たち。
一般の傍聴人。
みんなが、凛を見ている。
凛は、その視線を感じながら、席に着いた。
午後1時になった。
裁判長が、入廷した。
「全員、起立」
書記官の声。
全員が、立ち上がった。
裁判長が、席に着く。
「着席」
全員が、座った。
裁判長は、資料を開いた。
「午後の審理を再開します」
裁判長の声が、法廷に響いた。
凛の心臓が、また激しく鳴り始めた。
裁判長は、両方の弁護士を見た。
「午前中に提出された証拠について、双方の主張は理解しました」
裁判長は、少し間を置いた。
それから、続けた。
「被告側、他に補足する主張はありますか」
川島が、立ち上がった。
「はい。被告が提出したデータについて、改めて申し上げます」
川島の声は、力強かった。
「被告・水瀬凛は、データを改ざんなどしておりません。原告側の鑑定結果は、一方的なものです」
裁判長は、川島を見ていた。
表情は、変わらない。
「第三者機関による鑑定を、改めてお願いします」
川島は、そう主張した。
裁判長は、頷いた。
「その件は、検討します」
それから、原告側を見た。
「原告側、補足はありますか」
相手方の弁護士が、立ち上がった。
「現時点では、ございません」
裁判長は、資料を閉じた。
「それでは……」
裁判長が、何か言おうとした。
その時、凛が立ち上がった。
「裁判長」
凛の声が、法廷に響いた。
裁判長は、凛を見た。
川島も、驚いて凛を見た。
傍聴席も、ざわめいた。
凛は、震える声で言った。
「私のデータは、本物です。改ざんなんて、していません」
裁判長は、凛を見つめた。
その目は、厳しかった。
「被告、席に着いてください」
凛は、首を振った。
「お願いします。信じてください」
凛の声は、必死だった。
「私は、嘘をついていません。患者さんたちは、本当に苦しんでいます。会社は、それを隠蔽しています」
裁判長の表情は、変わらなかった。
硬いままだった。
「被告。感情的な訴えは、証拠にはなりません。席に着いてください」
凛は、唇を噛んだ。
涙が、また溢れてきた。
でも、凛は立ち続けた。
「お願いします……」
凛の声は、かすれていた。
「信じてください」
裁判長は、小槌を手に取った。
「被告、これ以上続けるなら、退廷を命じます」
川島が、凛の腕を掴んだ。
「水瀬さん、座ってください」
凛は、力なく座り込んだ。
もう、何も言えない。
裁判長は、言葉を続けた。
「本件については、証拠の信憑性に重大な疑義があります。第三者機関による鑑定を待って、改めて判断します」
裁判長は、少し間を置いた。
「次回期日は、追って連絡します。本日は、これで閉廷します」
裁判長が、小槌を叩こうとした。
凛は、その場に座ったまま、動けなかった。
終わった。
何も、変わらなかった。
信じてもらえなかった。
凛は、両手で顔を覆った。
絶望の淵。
そこに、凛はいた。
悠真が、凛の肩を抱いた。
「水瀬さん……」
悠真の声も、震えていた。
川島は、厳しい表情で立っていた。
もう、手の打ちようがない。
裁判長の小槌が、今にも下ろされようとしていた。
その時だった。