過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために

第3章 倒れた瞬間

翌日の午前10時、凛は会議室にいた。
営業部との合同会議。新薬メディアジールの販売戦略についてのプレゼンテーションだ。
凛は資料を手に、プロジェクターの前に立っていた。
会議室には15人ほどが集まっている。田中部長も、最前列に座っている。
「それでは、広報部から、メディアジールのプロモーション戦略についてご説明します」
凛は、用意してきた原稿を読み上げ始めた。
「メディアジールは、当社が開発した画期的な新薬であり、臨床試験において……」
言葉が、スムーズに出てくる。
でも、頭の中は、どこか別のことを考えている。
あの副作用報告書のこと。
89件の症例。
データの空白。
「……高い有効性と、優れた安全性が確認されております」
凛は次のスライドに進めた。
その時、視界が、少しぼやけた。
凛はまばたきをした。でも、ぼやけは消えない。
「次に、ターゲット層についてですが……」
言葉を続けようとする。でも、次の言葉が出てこない。
あれ?
凛は資料を見た。でも、文字が読めない。文字が、ぼやけて見える。
会議室の中が、静かになった。
誰かが、こちらを見ている。
「水瀬さん?」
誰かの声が聞こえる。でも、遠い。
凛は口を開いた。でも、声が出ない。
周囲の音が、だんだん遠くなっていく。
誰かが話している。でも、何を言っているのかわからない。
視界が、さらにぼやける。
凛は資料を落とした。
紙が、バラバラと床に散らばる。
その音も、遠くに聞こえる。
足が、ふらついた。
体を支えようとする。でも、力が入らない。
「水瀬! 大丈夫か!」
田中部長の声。
でも、もう聞こえない。
凛の体が、前に傾いた。
床が、迫ってくる。
白いタイルの床。
その模様が、ゆっくりと、大きくなっていく。
ああ、倒れる。
そう思った瞬間、視界が真っ暗になった。

サイレンの音が聞こえる。
ピーポー、ピーポー。
大きな音。耳をつんざくような音。
凛は目を開けようとした。でも、重い。まぶたが、重い。
誰かが話している。
「バイタル確認。血圧、90の60」
「意識レベル低下」
「過呼吸の兆候あり」
男性の声。落ち着いた声。
凛は、やっと目を開けた。
天井が見える。白い天井。
でも、その天井が動いている。流れている。
蛍光灯が、次々と通り過ぎていく。
ここは……どこ?
凛は体を動かそうとした。でも、動かない。
何かに固定されている。
担架だ。
凛は担架に乗せられ、運ばれている。
「患者、意識戻りました」
また男性の声。
凛の視界に、白衣を着た男性の顔が映った。救急隊員だ。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
凛は口を開いた。
「……はい」
かすれた声が出た。
「よかった。もうすぐ病院に着きますからね」
救急隊員は優しく言った。
凛は、また天井を見た。
救急車の中。揺れている。サイレンの音が続いている。
何が起きたのか。
凛は思い出そうとした。
会議室。プレゼン。視界がぼやけて、倒れた。
ああ、そうだ。
私、倒れたんだ。
凛は目を閉じた。体が重い。とても重い。
「もうすぐですからね。頑張ってください」
救急隊員の声が、また聞こえた。
凛は、小さく頷いた。

病院に到着すると、凛は別の担架に移され、診察室へ運ばれた。
検査が始まる。
血圧測定。心電図。採血。
医師や看護師が、忙しく動き回っている。
凛は、ただ横たわっているだけだった。
体に力が入らない。
しばらくして、凛は病室に移された。
白い壁。白いシーツ。窓から差し込む、柔らかい午後の光。
看護師が点滴を準備している。
「少し痛みますよ」
看護師は優しく言って、凛の腕に針を刺した。
チクリとした痛み。でも、それも遠くに感じる。
点滴の管から、透明な液体が、ゆっくりと流れ込んでくる。
しばらくして、医師が病室に入ってきた。
40代くらいの男性医師。白衣を着て、カルテを手にしている。
「水瀬さん、気分はいかがですか?」
医師は椅子に座り、凛に尋ねた。
「少し……楽になりました」
凛は小さく答えた。
医師は頷き、カルテに目を落とした。
「検査結果ですが、器質的な異常は見られませんでした。ただ……」
医師は顔を上げ、凛を見つめた。
「過労とストレスによる、自律神経失調症の症状が見られます。おそらく、長期間にわたる過度な負担が原因でしょう」
凛は、医師の言葉を聞いていた。
過労。ストレス。自律神経失調。
知っている言葉だ。でも、それが自分のことだと思うと、実感が湧かない。
「このままの生活を続けると、もっと深刻な症状が出る可能性があります。うつ病や、心身症に発展することもあります」
医師の声は、穏やかだが、厳しかった。
「しばらく休養を取ることをお勧めします。できれば、仕事も休んでください」
凛は、何も言えなかった。
仕事を休む。
そんなこと、できるのか。
記者会見は終わったばかり。プロモーションはこれからが本番。
私が休んだら、誰が……。
「水瀬さん」
医師が、再び呼びかけた。
「あなたの体は、限界を迎えています。もう、無理をしてはいけません」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目から、涙が溢れ出た。
止まらない。
涙が、頬を伝って、枕を濡らす。
医師は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
看護師が、そっとティッシュを差し出してくれた。
凛は、声を上げて泣いた。
もう、我慢できなかった。
ずっと張り詰めていたものが、一気に崩れていく。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、医師も看護師も、病室を出ていた。
凛は一人、ベッドに横たわっていた。
点滴の管が、まだ腕に刺さっている。
凛は、ゆっくりと呼吸を整えた。

病室で横になっていると、スマホが震えた。
凛は、ベッドサイドのテーブルに置いてあったスマホを手に取った。
画面には、母からのメッセージが表示されている。
凛は、メッセージを開いた。
「凛、会社から連絡があったわ。病院に運ばれたって聞いて、心配で仕方ないの。今、すぐにでも行きたいけど、今日は父の通院があって……明日、病院に行くから。無理しすぎよ、あなた。体が心配。一度、実家に帰ってきなさい」
凛は、画面をスクロールした。
まだメッセージが続いている。
「あなたらしく生きて欲しいの。お母さんが一番願っているのは、あなたが幸せでいること。仕事も大事だけど、あなた自身が一番大事なのよ」
「いつでも帰っておいで。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、スマホを握りしめた。
母の言葉が、胸に染みる。
返信しなきゃ。
心配かけてしまった。
でも、何て返せばいい?
大丈夫、なんて言えない。大丈夫じゃないから。
ごめん、とも言いたくない。母に謝ることじゃない。
凛は、返信欄に指を置いた。
でも、文字が打てない。
何を書いても、嘘になる気がした。
凛は、スマホの画面を見つめたまま、動けなくなった。
母の優しい言葉が、かえって胸を苦しくさせる。
あなたらしく。
でも、私らしくって、何だろう。
凛は、スマホを胸の上に置き、目を閉じた。

夜になった。
病室の照明が消され、薄暗くなった。
凛は、ベッドに横たわったまま、目を開けていた。
隣のベッドには、70代くらいの女性患者が寝ている。
規則正しい寝息が聞こえる。
窓の外には、街灯が灯っている。
遠くに、車の走る音。
凛は、天井を見つめた。
白い天井。何の模様もない、ただの白い天井。
私、何のために生きてるんだろう。
その疑問が、また浮かんできた。
仕事のため?
でも、仕事は私を壊している。
お金のため?
でも、お金があっても、幸せじゃない。
母のため?
でも、母は私の幸せを願っている。
じゃあ、私は何のために、毎日会社に行って、夜遅くまで働いて、疲れ果てて、倒れて……。
答えが、出ない。
凛は、体を横に向けた。
窓の外の街灯が、ぼんやりと光っている。
あの光の向こうには、何があるんだろう。
凛は、また天井を見上げた。
眠れない。
頭の中には、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
あの副作用報告書のこと。
佐々木の言葉。
田中部長の圧力。
SNSの炎上。
母のメッセージ。
医師の「限界を迎えています」という言葉。
全部が、ぐるぐると回っている。
凛は目を閉じた。
でも、眠れなかった。
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