あなたの知らない、それからのこと
1.同級生の津山くん
「…………」
片野凛香は無言の空間に耐えられず、キリキリと痛む胃をそっと抑えた。彼のことはどちらかといえば苦手だ。そもそも人見知りが激しくクラスでも目立たないように生活している凛香と、無口で無愛想なだけでなく、他校の生徒と揉めたとか殴り合いをしただとかの噂が絶えない津山晴輝とでは共通点なんてあるはずもない。あるとすれば同じ中学校出身だった、というだけ。それでも凛香の名前すら知らないのではないだろうかと思えるほど、関わり合いがなかったのだ。
それなのに、さっき何気に晴輝のほうを見たら、バッチリと視線がぶつかってしまった。いつから見ていたのか、たまたまか。自惚れる要素はないから、偶然だと思う。そう思いたい。なんとなく側頭部に視線が刺さっている気がするのは、凛香にしては珍しい自意識過剰さだけれど、再び晴輝の方を向く勇気なんてなかった。
気付かないふりをして本に視線を落としているが、もうどこを読んでいたの迷子になってしまった。電車待ちの間に、ホームのベンチでただ本を読んでいただけなのに。隣に人が座った気配がして、横を見れば視線がバッチリとぶつかった相手が晴輝だったのだ。
こんなことならお気に入りの作家の新刊をわざわざ電車に乗って本屋に買いへ行かずに、母に頼んでネットで買ってもらえばよかった。それとも天気が良かったからという単純な理由でそのまま散歩ついでに一駅歩かなければあるいは……。『たられば』が頭に次々と浮かんでくるが、今さら後の祭り。
大きな駅の隣にあるこの小さな駅は各駅停車のみで、休日の昼過ぎという時間も相まってあと十五分は次の電車は来ない。視線が合った上に移動するなんてあからさますぎて凛香にはできそうになかった。それならば本に没頭するのに限るのだが、視線を感じてしまってなかなか難しい。
(それにしても……)
先ほどチラリと見た私服の晴輝は、想像以上にまともだった。そんな失礼なことは口が裂けても言えないが、凛香の中で彼はやんちゃなグループに属していると思っているので、もっと派手で着崩した私服をイメージしていたのに。それが黒いシャツに、太すぎずダメージ加工もないジーンズというスタイルの良さを最大に活かしたシンプルな格好は、すっきりとして整った顔立ちの晴輝によく似合っていた。周りの女子たちが騒ぐのも分かる。
それでも凛香にとってお近づきになりたい人物ではない。彼自身とどんな会話をしていいか分からないのは勿論だが、晴輝と仲の良い友達と関わりたくはなかったのだ。
別に何かされたわけではない。彼らは自分たちで楽しく学生生活を送っているだけで、グループ外の誰かを弄ったり揶揄ったりすることもないから、良識的な人たちではあるのだけれど。凛香は物心ついた頃から、あまり誰とも関わり合いになりたくなかったから、自然と活発な人たちを避けてしまうのも仕方のないことだった。これまでいじめられたり何かされた訳でもないのだが、特にクラスの中心的存在の人たちがなぜか昔から苦手だ。
緊張と居心地の悪さで、お気に入りの髪飾りを無意識に触ったら、少しずれていたことに気付いて外した。本にしおりを挟んで膝の上に置き、留め直そうと外すと隣で息をのむ音が聞こえた。
(いやいや、でもまさか。……もしかして、こんな女のくせに、とか思われている?)
凛香は急に不安になった。でもそれこそ自意識過剰ではないか? 晴輝のほうは怖くて見られないが、スマホでも触っているのかもしれないし。気になりすぎて、そっと晴輝のほうを見て、凛香は思わず「え……」と声に出してしまった。
「あ、いや……」
彼は凛香の手元を見つめていたが、視線に気付いたらしく慌てたような表情へと変わる。しかし自分自身を見られていたのではなかったことに、逆に凛香は安堵した。例えば、そう彼女とかに贈ったものと似ていたとか? 自己完結しそうになった凛香だったが、はたと嫌な想像が頭を過った。
「ち、ちが、違うんです! これは私が母にねだって買って貰った物ですから。津山くんの彼女さんのでは決してありませんから!」
「は……?」
「すみません! ……わっ」
必死になりすぎて晴輝のほうへ前のめりになってしまったことに、一拍遅れて気付いた凛香の手元からカシャン、と音を立てて髪飾りが落ちた。拾おうとして互いに伸ばした手がぶつかった……だけでなく、凛香の手は晴輝によって上から握られてしまった。……目測を誤ったのだと思いたい。
思ったより温かくて大きな手は、一向に離れる気配がなく。凛香はドキドキと暴れ出した心臓の音を体内から聞きながら、己の手が隠れるほどの大きな手を見つめて、一体どうしたらいいのかと思案に暮れた。振りほどいたらさらに気まずくないだろうか? いや、でもこのままだなんて……。やっぱり盗んだと勘違いされている? けれどこれはどう考えたって凛香のものだ。ゴールドに緑のビジューがついた髪飾りは流石に制服には合わないし、そもそも学校へは華美なアクセサリー類は校則違反だから、付けていったことなど一度もない。
「これは私のお気に入りで、いつも箱に入れてしまっているものなので、だから本当に私のものです! 勘違いさせてしまってたら、すみません」
「…………っ!」
手は離されるどころか、先ほどよりも強く握りしめられる。痛いほどではないが、意味が分からない。どうしたらいいのか分からなくて、ただただ恥ずかしい。
「だから、お願いなので手を、放してください……」
「あっ! これはっ! ……悪い」
勢いよく離された手に安堵して、凛香は屈んで髪飾りを拾い上げた。何とも言えない微妙な空気が二人の間に漂う。
「……今ままで彼女がいたことはない」
沈黙を破ったのは晴輝だった。しかしそう言われても凛香はどう返したらいいのか分からず、「そうでしたか」とだけ答えた。
「とてもよく似合っている」
「あ、ありがとうございます……?」
「……今日は眼鏡を掛けていないんだな」
晴輝に言われて気付いた。凛香は普段、人の視線を避ける目的で伊達眼鏡を掛けているのだ。いつからかなんとなくかけ始めたそれは、いつからか学校生活では手放せなくなったものの、人と関わることがない休みの日は外しているから、今日もすっかり眼鏡のことは忘れていた。
だとすると、彼は凛香だとよく気付いたものだ。もしかしたら先ほど感じていた視線は、凛香かどうかを探るためのものだったのかもしれない。
凛香の想像は杞憂であったと解決したのは良かったが、なんだかまだ心臓は落ち着きそうにない。とてもじゃないが晴輝のほうは見られなかった。相変わらず見つめられているような気がしてならない上に、顔は確実に真っ赤になっている。先ほどよりまともに留める自信がなくて、髪飾りをバッグに入れようとした。
「つけないのか?」
「えっ?」
思わず晴輝のほうを見て凛香は固まった。無表情ではあるが、どこか寂しそうな表情に見えたから。
「いや、あのっ、う、上手く留められそうにないので、止めておこうかと……」
「じゃあ、俺がする」
俺がする? 何故……? バッグに入れようとした動きのまま固まってしまったのを了承と取ったのか、晴輝は凛香の手から髪飾りを取った。頭が真っ白だ。
優しく肩を押されて、為すがまま反対を向かされる。混乱している凛香だったが、肩に触れた手が先ほど握られた時を思い出し頬に熱が集まった。その手がそっとヘアゴムでハーフアップに纏めてある毛束に触れた。髪飾りを付けるだけのはずが、時間が永遠のように感じる。けれどどうすることもできず、身動ぎどころか息を潜めてじっとしていた。
漸くするとグッと頭皮が引っ張られる感覚がして、凛香は恐る恐る髪に手を当てた。
「わぁっ」
実際には見えないのでどういう状態なのかは分からないが、毛束が上手に丸められて留められていた。コーム型は扱いが難しく、凛香はハーフアップにしたヘアゴムの上に差しただけだったのに。
「すごい! 上手で……っ!」
思わず振り返った凛香は言葉を詰まらせた。晴輝の顔が想像以上に近かったこともだが、それよりも彼の表情があまりにも優しそうだったから。瞬時にはしゃぎすぎてしまったからかと思い至り、恥ずかしくて顔を俯かせた。
「あ、ごめんなさい。びっくりして、つい……」
「……迷惑じゃなければ」
電車の到着するアナウンスが流れ、晴輝の声がかき消された。何か言っているのは気づいたが何『を』言ったのか聞こえなかった。晴輝越しに電車が近づいてくるのが見える。待ちに待った瞬間に凛香は慌てて立ち上がった。
「あの、津山くん、髪の毛、まとめてくれてありがとう。じゃ、私行くね」
「いや、俺も帰るところだから……一緒に行こう」
「あ、え……う、うん」
そういえばそうだった。同じ中学校出身なのだから駅は同じかその前後だろう。モテる晴輝と一緒のところを、中学や高校の同級生に見られたらどうしよう。凛香の望む、目立たなく生活することが叶わなくなるかもしれないのだ。しかし、それを晴輝に言うこともできず、了承するしかなかった。どうか見られませんように。凛香は祈りながら電車に乗り込んだ。そんな凛香の後ろ姿を、晴輝が不安そうに眺めていたことには気づかないままで。
片野凛香は無言の空間に耐えられず、キリキリと痛む胃をそっと抑えた。彼のことはどちらかといえば苦手だ。そもそも人見知りが激しくクラスでも目立たないように生活している凛香と、無口で無愛想なだけでなく、他校の生徒と揉めたとか殴り合いをしただとかの噂が絶えない津山晴輝とでは共通点なんてあるはずもない。あるとすれば同じ中学校出身だった、というだけ。それでも凛香の名前すら知らないのではないだろうかと思えるほど、関わり合いがなかったのだ。
それなのに、さっき何気に晴輝のほうを見たら、バッチリと視線がぶつかってしまった。いつから見ていたのか、たまたまか。自惚れる要素はないから、偶然だと思う。そう思いたい。なんとなく側頭部に視線が刺さっている気がするのは、凛香にしては珍しい自意識過剰さだけれど、再び晴輝の方を向く勇気なんてなかった。
気付かないふりをして本に視線を落としているが、もうどこを読んでいたの迷子になってしまった。電車待ちの間に、ホームのベンチでただ本を読んでいただけなのに。隣に人が座った気配がして、横を見れば視線がバッチリとぶつかった相手が晴輝だったのだ。
こんなことならお気に入りの作家の新刊をわざわざ電車に乗って本屋に買いへ行かずに、母に頼んでネットで買ってもらえばよかった。それとも天気が良かったからという単純な理由でそのまま散歩ついでに一駅歩かなければあるいは……。『たられば』が頭に次々と浮かんでくるが、今さら後の祭り。
大きな駅の隣にあるこの小さな駅は各駅停車のみで、休日の昼過ぎという時間も相まってあと十五分は次の電車は来ない。視線が合った上に移動するなんてあからさますぎて凛香にはできそうになかった。それならば本に没頭するのに限るのだが、視線を感じてしまってなかなか難しい。
(それにしても……)
先ほどチラリと見た私服の晴輝は、想像以上にまともだった。そんな失礼なことは口が裂けても言えないが、凛香の中で彼はやんちゃなグループに属していると思っているので、もっと派手で着崩した私服をイメージしていたのに。それが黒いシャツに、太すぎずダメージ加工もないジーンズというスタイルの良さを最大に活かしたシンプルな格好は、すっきりとして整った顔立ちの晴輝によく似合っていた。周りの女子たちが騒ぐのも分かる。
それでも凛香にとってお近づきになりたい人物ではない。彼自身とどんな会話をしていいか分からないのは勿論だが、晴輝と仲の良い友達と関わりたくはなかったのだ。
別に何かされたわけではない。彼らは自分たちで楽しく学生生活を送っているだけで、グループ外の誰かを弄ったり揶揄ったりすることもないから、良識的な人たちではあるのだけれど。凛香は物心ついた頃から、あまり誰とも関わり合いになりたくなかったから、自然と活発な人たちを避けてしまうのも仕方のないことだった。これまでいじめられたり何かされた訳でもないのだが、特にクラスの中心的存在の人たちがなぜか昔から苦手だ。
緊張と居心地の悪さで、お気に入りの髪飾りを無意識に触ったら、少しずれていたことに気付いて外した。本にしおりを挟んで膝の上に置き、留め直そうと外すと隣で息をのむ音が聞こえた。
(いやいや、でもまさか。……もしかして、こんな女のくせに、とか思われている?)
凛香は急に不安になった。でもそれこそ自意識過剰ではないか? 晴輝のほうは怖くて見られないが、スマホでも触っているのかもしれないし。気になりすぎて、そっと晴輝のほうを見て、凛香は思わず「え……」と声に出してしまった。
「あ、いや……」
彼は凛香の手元を見つめていたが、視線に気付いたらしく慌てたような表情へと変わる。しかし自分自身を見られていたのではなかったことに、逆に凛香は安堵した。例えば、そう彼女とかに贈ったものと似ていたとか? 自己完結しそうになった凛香だったが、はたと嫌な想像が頭を過った。
「ち、ちが、違うんです! これは私が母にねだって買って貰った物ですから。津山くんの彼女さんのでは決してありませんから!」
「は……?」
「すみません! ……わっ」
必死になりすぎて晴輝のほうへ前のめりになってしまったことに、一拍遅れて気付いた凛香の手元からカシャン、と音を立てて髪飾りが落ちた。拾おうとして互いに伸ばした手がぶつかった……だけでなく、凛香の手は晴輝によって上から握られてしまった。……目測を誤ったのだと思いたい。
思ったより温かくて大きな手は、一向に離れる気配がなく。凛香はドキドキと暴れ出した心臓の音を体内から聞きながら、己の手が隠れるほどの大きな手を見つめて、一体どうしたらいいのかと思案に暮れた。振りほどいたらさらに気まずくないだろうか? いや、でもこのままだなんて……。やっぱり盗んだと勘違いされている? けれどこれはどう考えたって凛香のものだ。ゴールドに緑のビジューがついた髪飾りは流石に制服には合わないし、そもそも学校へは華美なアクセサリー類は校則違反だから、付けていったことなど一度もない。
「これは私のお気に入りで、いつも箱に入れてしまっているものなので、だから本当に私のものです! 勘違いさせてしまってたら、すみません」
「…………っ!」
手は離されるどころか、先ほどよりも強く握りしめられる。痛いほどではないが、意味が分からない。どうしたらいいのか分からなくて、ただただ恥ずかしい。
「だから、お願いなので手を、放してください……」
「あっ! これはっ! ……悪い」
勢いよく離された手に安堵して、凛香は屈んで髪飾りを拾い上げた。何とも言えない微妙な空気が二人の間に漂う。
「……今ままで彼女がいたことはない」
沈黙を破ったのは晴輝だった。しかしそう言われても凛香はどう返したらいいのか分からず、「そうでしたか」とだけ答えた。
「とてもよく似合っている」
「あ、ありがとうございます……?」
「……今日は眼鏡を掛けていないんだな」
晴輝に言われて気付いた。凛香は普段、人の視線を避ける目的で伊達眼鏡を掛けているのだ。いつからかなんとなくかけ始めたそれは、いつからか学校生活では手放せなくなったものの、人と関わることがない休みの日は外しているから、今日もすっかり眼鏡のことは忘れていた。
だとすると、彼は凛香だとよく気付いたものだ。もしかしたら先ほど感じていた視線は、凛香かどうかを探るためのものだったのかもしれない。
凛香の想像は杞憂であったと解決したのは良かったが、なんだかまだ心臓は落ち着きそうにない。とてもじゃないが晴輝のほうは見られなかった。相変わらず見つめられているような気がしてならない上に、顔は確実に真っ赤になっている。先ほどよりまともに留める自信がなくて、髪飾りをバッグに入れようとした。
「つけないのか?」
「えっ?」
思わず晴輝のほうを見て凛香は固まった。無表情ではあるが、どこか寂しそうな表情に見えたから。
「いや、あのっ、う、上手く留められそうにないので、止めておこうかと……」
「じゃあ、俺がする」
俺がする? 何故……? バッグに入れようとした動きのまま固まってしまったのを了承と取ったのか、晴輝は凛香の手から髪飾りを取った。頭が真っ白だ。
優しく肩を押されて、為すがまま反対を向かされる。混乱している凛香だったが、肩に触れた手が先ほど握られた時を思い出し頬に熱が集まった。その手がそっとヘアゴムでハーフアップに纏めてある毛束に触れた。髪飾りを付けるだけのはずが、時間が永遠のように感じる。けれどどうすることもできず、身動ぎどころか息を潜めてじっとしていた。
漸くするとグッと頭皮が引っ張られる感覚がして、凛香は恐る恐る髪に手を当てた。
「わぁっ」
実際には見えないのでどういう状態なのかは分からないが、毛束が上手に丸められて留められていた。コーム型は扱いが難しく、凛香はハーフアップにしたヘアゴムの上に差しただけだったのに。
「すごい! 上手で……っ!」
思わず振り返った凛香は言葉を詰まらせた。晴輝の顔が想像以上に近かったこともだが、それよりも彼の表情があまりにも優しそうだったから。瞬時にはしゃぎすぎてしまったからかと思い至り、恥ずかしくて顔を俯かせた。
「あ、ごめんなさい。びっくりして、つい……」
「……迷惑じゃなければ」
電車の到着するアナウンスが流れ、晴輝の声がかき消された。何か言っているのは気づいたが何『を』言ったのか聞こえなかった。晴輝越しに電車が近づいてくるのが見える。待ちに待った瞬間に凛香は慌てて立ち上がった。
「あの、津山くん、髪の毛、まとめてくれてありがとう。じゃ、私行くね」
「いや、俺も帰るところだから……一緒に行こう」
「あ、え……う、うん」
そういえばそうだった。同じ中学校出身なのだから駅は同じかその前後だろう。モテる晴輝と一緒のところを、中学や高校の同級生に見られたらどうしよう。凛香の望む、目立たなく生活することが叶わなくなるかもしれないのだ。しかし、それを晴輝に言うこともできず、了承するしかなかった。どうか見られませんように。凛香は祈りながら電車に乗り込んだ。そんな凛香の後ろ姿を、晴輝が不安そうに眺めていたことには気づかないままで。