雨が降るとき。
雨が降るとき。
サァァーーー。
雨が窓ガラスに吹き付けた。
静かで暗い部屋の中で、パラパラとその音だけが聞こえてくる。
…雨は嫌いなのに…
レースのカーテンの隙間から、風に煽られ吹き付ける雨が見えて、私は気が重くなった。
「何してるんだ?…おいで。」
彼はキングサイズのベッドに横になり、私に両手を伸ばして、とろける様な笑顔を見せた。
私の心臓がドクンと跳ねた。ドキドキし始めた胸を思わずギュッと押さえた。
「さあ。いつものように乗っておいで。」
彼の声はどこまでも優しい。
私は無言で彼に近づき、横たわる彼の上に跨った。
彼は私の腰に手を伸ばし引き寄せるように腕を回した。
片方の手を腰から頬に動かし、そっと撫でる。
私は愛しい彼の大きな手に頬をこすりつけた。
彼は嬉しそうに、そのまま手を首すじまで滑らせ、頭を近づけさせ、おでこにキスをした。
そのまま、自分の横に寝かせて、足を絡めて抱きしめる。
私は思わず甘い吐息が漏れてしまう。
彼は私の頭に顔を埋め、匂いを嗅ぐように深く息を吸ってまたキスをする。
私は目をつむり、彼の胸に顔を埋める。彼が「なんて可愛いんだ。」とギュッと抱きしめてくる。
私はそうして彼が満足するまで愛撫される。
肉体的な関係はない。
なぜなら彼が求めているのは愛玩動物。“ねこ”。
「私とこうしているのは幸せ?」
と私が聞くと
「喋るな。お前は人ではないのだから。」
と叱責され、表情が瞬時に硬くなる。
「……。」
謝る代わりに沈黙で答えると、彼はまたさっきと同じように、とろける笑顔に戻る。
そうしてまたギュッと抱きしめてくれる。
「…そうだ。それでいい。私の可愛い“ねこ”。今夜も私に可愛い姿を見せてくれ。」
そう言って私の身体を優しく撫ぜる。私は切ない声をあげながら、彼にすがりついて身体を擦り寄せた。
翌朝、目が覚めると彼の姿はすでになかった。
私はぼんやりした頭を動かそうと努力しながら身体を起こした。時計を見ると8時を回ったところだった。
まずはお風呂に入ろう。
急ぐことはない。だって時間はたっぷりあるのだから。
バスルームでシャワーを浴びて、肩までのフワリとした髪をドライヤーで乾かしながらテレビをつけた。
朝のニュース番組のキャスターがトピックスを話していた。
私が気になるのは天気だけ。
「昨夜の雨とは違い、今日は洗濯物が良く乾く、気温の高い1日となるでしょう。」
高層ビルから見える空は近い。カーテンをめくると、すでに高く昇った太陽が輝いていた。
(今日は、来ないか。)
考えないようにしていたが、寂しくて胸が潰れそう。
膝を抱えて丸くなり、しばらく涙をこらえた。
私の彼は雨の日しか来ない。
ー“彼氏”ではないんだから、しょうがないよねー
あくまであの人は私の“飼い主”であり、私は“ねこ”として飼われているだけだ。
ニュースキャスターが興味もわかない事件を伝える声が響くだけのリビング。キッチンから小さい卓上コンロを持ってきて、お湯を沸かす。台湾の茶器もテーブルに置いて、茶葉を選んだ。
シュシュシュッシュッ……
お湯が沸いた。
取っ手をふきんで巻いて、火傷しないしように気をつけながら茶器に何度も湯をかけて温める。
このゆっくりした時間が流れていく感じが好き。
(…やることが何もない私にはちょうどいい)
急須に入れた茶葉がゆっくりと開いていく。
台湾茶特有の香りが部屋を満たしていく。
茶葉が開ききったことを確認してから、小さな茶器にお茶を注ぎ、一口飲む。
(美味しい)
窓の外を眺めようとして、まだカーテンを閉めたままだったと気づいた。
窓に近づき、分厚いカーテンを開け、レースの隙間から外を眺める。
と言っても高層マンションの最上階のため、見えるものはひしめくビルと少しの緑。車だけ。
あとは、空ばかりが広がる風景。
…最近、本物の、ねこの気持ちが分かるようになった気がする。独りでいると、一日の中で外を見る事が唯一、時間の流れを感じる事が出来る。変わりばえしない世界。徐々にウトウトしてくる。
(あの人はいつ帰って来るんだろう)
想うのは彼のことばかり。
別に閉じ込められているわけではない。ただ、外に出る時はエレベーターのロックを解除するために、彼の秘書に連絡しなければならない。
そして『迷子にならないように』つかず離れず“飼育要員”がつく事が煩わしいから外に出たくないだけ。
また、彼に会いたくなった。昨日会ったばかりなのに、もう寂しくて仕方がない。
こんな、ただ待つだけの生活なんて。
彼の事はほとんど知らない。
どんな仕事をしているのか。どこに住んでいるのか。
ただ、時々この部屋でスマホで話す内容から、普通の会社員でない事は知っていた。
彼が部下に横柄な態度で命令し、彼が「当主様」と呼ばれているから偉い人なんだろうと思っている。
確かに都会の高層マンションの最上階を貸し切り“ねこ”を住ませているのだから、想像出来ないくらいのお金持ちのはず。
それなのにお手伝いはつけず、部下が全て行う。女性は一度も見た事がない。
もうひとつ。
気づいたのは彼は極端に人が触れるのを嫌っている。部下がすれ違ざまに服に軽く触れようものなら、凄い形相で睨み、次にその人と会う事は二度とない。
私にはあんなに優しく触れるのに。
彼の愛撫を思い出し、自分自身をギュッと抱きしめた。
彼に触れたい。触れられたい。心の渇望が酷くて、震えが止まらない。
きっとそのうち。私は狂ってしまうだろう。
彼に飽きられたら?彼に恋人が出来たら?結婚してしまったら?
もしかしたら、昨日が最後の日だったかもしれない。
それすらも私には知るすべがない。
やることもなく、ただ、彼を、彼の事だけを想い、焦がれ、苦しい胸のうちをさらけ出す事も出来ずに、毎日を過ごしている。
もう耐えられない。
何度そう思ったか。でも、今日、帰ってくるかもしれない。私がいなくなって悲しい思いをするかもしれない。
もしかしたら。私に愛していると言ってくれるかも。
…そんな事はあり得ないのに。
どうしてだろう。今日は寂しさに耐えられない。
急に雨が降りだした。
雨は嫌いなのに………。
ガチャガチャ。ガチャリ。
扉が開く音がした。
バタバタと足音がしてリビングの入口のドアが勢い良く開いた。
彼がハアハアと息を切らせて戸口に立っていた。
「…泣いているのか?」
ーー知ってたの?
私は駆けだし、彼に飛びついた。首に手を回しぎゅっとしがみつく。
涙が止まらない。
雨音が強くなる。
【私が泣くと雨が降る】
このことを誰かに話した事はない。
この力のせいで家を出たのに、彼はなぜ知っていたの?
「全く。甘ったれた“ねこ”だな。」彼がくすくすと笑いながら、私の頭を撫ぜ、いつものように髪に顔を埋めてきた。
その時だった。
〘見られている。喋るな〙
と頭に直接声が響いた。
思わずビクリとした。そのまま泣きじゃくり、彼の肩に顔を埋めたままにした。
〘そうだ。そのまま。いつものように振る舞え。〙
「どうした?“ねこ”。ずっとそうして泣いているなら別の鳴かせ方をさせるぞ?」
そう言って不適に笑うとベッドルームへ連れて行かれた。
彼は私をベッドにそっと下ろすとジャケットを脱ぎ、ベッドサイドのソファに乱暴に投げた。
「さあ、おいで。いつものように甘えた姿を見せてくれ。」
いつもの甘い優しい声と、とろける笑顔で横に寝ている私を引き寄せた。
〘この家にはたくさんの盗聴器とカメラが設置されているんだ〙
また頭の中に声が響く。
私は彼の顔をじっと見つめた。
〘そう。それでいい。〙
彼も私をじっと見つめておでことおでこを合わせて、頬を両手で挟む。
「なんで泣いていたんだ?」
「…寂しかったから…」
「そんな可愛いことばかり言って俺を困らせたいのか?俺にとって、お前の願いは命令なんだから。」
そう言って鼻をこすり合わせた。
〘最初から知っていたよ。お前が泣くと雨が降る事を〙
私は目を丸くした。
「びっくりしたか?でも本当なんだ。」
彼は笑いながらキスをした。愛おしそうに私を見つめる。
「俺の“ねこ”。どうしたい?言ってくれ。お前の願いを叶えるから……。」
〘もう、分かっただろう?俺はテレパスなんだ。人に触れる事で感情が読める。こうして伝える事も出来る。〙
「…返事をしないのか?なら、鳴かせるまでだ。」
彼はさらに私を近づけ、足を絡ませ背中から服に手を入れてくる。
〘この能力は一族にのみ引き継がれる。しかし、能力の高さに血統は関係ないんだ。俺は当主だが基盤がない。だからこうして見張られているんだ〙
私は彼の優しい手の動きに意識がいって集中出来ない。彼の言葉を真剣に聞かないと行けないのに。甘い声が出てしまう。
そんな私の反応を見て、彼は嬉しそうにしている。
「…ここを撫でられるのが嬉しいのか…?」
「あぁっ!」
私は思わずのけぞる。
〘…はあ。あんまり煽らないでくれ。我慢出来なくなる。お前に伝えられるのは今夜しかないんだ。〙
彼は泣きそうな顔を見せた。
(こんな表情は初めて)
〘お前を拾った時、意図せず触ってしまった。そして知ったんだ。自然を感情で操る力。家出したのはそれが理由だろう?最初は役に立つと思ったんだ。〙
チュッチュッと音を立て、口づけを落としていく。
〘そのうちお前に触れるのが心地よくて…。手放せなくなった。でも俺は一族のモノ。誰かのモノになることは許されない〙
彼の手が触れる場所が熱を帯び始め、呼吸が速くなり、満たされたいと彼の手を導く。
〘お前が泣く度に、雨が俺に伝えて来るんだ。そばにいて欲しいと。〙
私は一段高い声をあげて、涙を流した。
彼は余韻が引くまで、私を強く抱きしめ続けた。
〘今日来た事で、俺がお前に執着していると一族は気付くだろう。だからお前に会えるのは今夜が最後だ〙
私は、彼の胸に顔を擦り寄せ泣いた。
「また泣いているのか。泣き虫だな全く…。」
彼は優しく私の頭を撫ぜた。
どうすれば彼の側にいられるの?
〘俺達にはまだ何の力もない。今のままでは近くにいることさえ許されない。だから……〙
「うるさい動物は嫌いなんだ。どうしてほしいのか早く言え。」
彼はイライラしながら私を揺さぶる。
「…ここを出ていきたいの。一人で生きる力が欲しい。」
彼の動きがピタリと止まった。
「それがお前の願いなのか?私の前からいなくなると?」
「………。」
私はコクリと頷いた。
「そうか。お前の願いは命令だ。全て叶えると約束する。住処も教育も…。ただし、私の目にふれる所にいるのは許さない。それでも出ていくのか。」
彼は私の肩を強くつかんだ。痛さに顔が歪む。
「はい。」
私は彼を見た。彼も私を見ている。
〘そう。それでいいんだ。お前の自由を奪われるな〙
「分かった。お前はもう、私の“ねこ”ではない。あんなに可愛がってやったのに。やはり“ねこ”は気まぐれなんだな。」
そう言って私を力強く抱きしめた。
「さあ、“ねこ”。終わりだ。俺を抱きしめろ。」
私は彼に“ねこ”の様にすり寄り、背中に手を回した。
〘お前にもう会えなくなることが、どれほど辛いかわかるか?ずっと独りだった俺に触れられる唯一の人。そうだ。名前を教えて欲しい。俺の名は“伊織(いおり)”だ。〙
〘私は真羅(シイラ)〙
〘シイラか。ずっと名前で呼びたかった。シイラ。お前が好きだ。大好きだ。〙
彼に回した腕に力を込めた。
〘生きて必ず会おう。それまでに力をつけておけよ。そして、次に会えたなら。お前の名前を呼んで、二度と離さない。それまで俺以外の男に惚れたら許さないからな。〙
「さあ。“ねこ”。もうおやすみ。」
彼の言葉通り、私は深い眠りに落ちた…。
朝目覚めると、いつものように彼…伊織はいなかった。
いつもの退屈な時間が始まる。涙が出そうになる。
だけど。伊織と約束したから。もう泣かないって決めた。
1週間後。
私はスーツケースを横に置いて部屋を見回した。
昨日までこの部屋に人が住んでいたとは思えないほど、モデルルームみたいに整えてある。
きっと、私がいた痕跡を残さないように指示されたんだろう。
大好きな伊織。私はまた戻って来るよ。伊織にあんな悲しい顔はもうさせたくない。
私が人として。あなたに会うために。
キイ。ガチャリ。
マンションを出ると、眩しい位の光が飛び込んできた。雲ひとつない、晴れ渡った空。
〘行ってくるね〙
私は外に飛び出した。
【完】
雨が窓ガラスに吹き付けた。
静かで暗い部屋の中で、パラパラとその音だけが聞こえてくる。
…雨は嫌いなのに…
レースのカーテンの隙間から、風に煽られ吹き付ける雨が見えて、私は気が重くなった。
「何してるんだ?…おいで。」
彼はキングサイズのベッドに横になり、私に両手を伸ばして、とろける様な笑顔を見せた。
私の心臓がドクンと跳ねた。ドキドキし始めた胸を思わずギュッと押さえた。
「さあ。いつものように乗っておいで。」
彼の声はどこまでも優しい。
私は無言で彼に近づき、横たわる彼の上に跨った。
彼は私の腰に手を伸ばし引き寄せるように腕を回した。
片方の手を腰から頬に動かし、そっと撫でる。
私は愛しい彼の大きな手に頬をこすりつけた。
彼は嬉しそうに、そのまま手を首すじまで滑らせ、頭を近づけさせ、おでこにキスをした。
そのまま、自分の横に寝かせて、足を絡めて抱きしめる。
私は思わず甘い吐息が漏れてしまう。
彼は私の頭に顔を埋め、匂いを嗅ぐように深く息を吸ってまたキスをする。
私は目をつむり、彼の胸に顔を埋める。彼が「なんて可愛いんだ。」とギュッと抱きしめてくる。
私はそうして彼が満足するまで愛撫される。
肉体的な関係はない。
なぜなら彼が求めているのは愛玩動物。“ねこ”。
「私とこうしているのは幸せ?」
と私が聞くと
「喋るな。お前は人ではないのだから。」
と叱責され、表情が瞬時に硬くなる。
「……。」
謝る代わりに沈黙で答えると、彼はまたさっきと同じように、とろける笑顔に戻る。
そうしてまたギュッと抱きしめてくれる。
「…そうだ。それでいい。私の可愛い“ねこ”。今夜も私に可愛い姿を見せてくれ。」
そう言って私の身体を優しく撫ぜる。私は切ない声をあげながら、彼にすがりついて身体を擦り寄せた。
翌朝、目が覚めると彼の姿はすでになかった。
私はぼんやりした頭を動かそうと努力しながら身体を起こした。時計を見ると8時を回ったところだった。
まずはお風呂に入ろう。
急ぐことはない。だって時間はたっぷりあるのだから。
バスルームでシャワーを浴びて、肩までのフワリとした髪をドライヤーで乾かしながらテレビをつけた。
朝のニュース番組のキャスターがトピックスを話していた。
私が気になるのは天気だけ。
「昨夜の雨とは違い、今日は洗濯物が良く乾く、気温の高い1日となるでしょう。」
高層ビルから見える空は近い。カーテンをめくると、すでに高く昇った太陽が輝いていた。
(今日は、来ないか。)
考えないようにしていたが、寂しくて胸が潰れそう。
膝を抱えて丸くなり、しばらく涙をこらえた。
私の彼は雨の日しか来ない。
ー“彼氏”ではないんだから、しょうがないよねー
あくまであの人は私の“飼い主”であり、私は“ねこ”として飼われているだけだ。
ニュースキャスターが興味もわかない事件を伝える声が響くだけのリビング。キッチンから小さい卓上コンロを持ってきて、お湯を沸かす。台湾の茶器もテーブルに置いて、茶葉を選んだ。
シュシュシュッシュッ……
お湯が沸いた。
取っ手をふきんで巻いて、火傷しないしように気をつけながら茶器に何度も湯をかけて温める。
このゆっくりした時間が流れていく感じが好き。
(…やることが何もない私にはちょうどいい)
急須に入れた茶葉がゆっくりと開いていく。
台湾茶特有の香りが部屋を満たしていく。
茶葉が開ききったことを確認してから、小さな茶器にお茶を注ぎ、一口飲む。
(美味しい)
窓の外を眺めようとして、まだカーテンを閉めたままだったと気づいた。
窓に近づき、分厚いカーテンを開け、レースの隙間から外を眺める。
と言っても高層マンションの最上階のため、見えるものはひしめくビルと少しの緑。車だけ。
あとは、空ばかりが広がる風景。
…最近、本物の、ねこの気持ちが分かるようになった気がする。独りでいると、一日の中で外を見る事が唯一、時間の流れを感じる事が出来る。変わりばえしない世界。徐々にウトウトしてくる。
(あの人はいつ帰って来るんだろう)
想うのは彼のことばかり。
別に閉じ込められているわけではない。ただ、外に出る時はエレベーターのロックを解除するために、彼の秘書に連絡しなければならない。
そして『迷子にならないように』つかず離れず“飼育要員”がつく事が煩わしいから外に出たくないだけ。
また、彼に会いたくなった。昨日会ったばかりなのに、もう寂しくて仕方がない。
こんな、ただ待つだけの生活なんて。
彼の事はほとんど知らない。
どんな仕事をしているのか。どこに住んでいるのか。
ただ、時々この部屋でスマホで話す内容から、普通の会社員でない事は知っていた。
彼が部下に横柄な態度で命令し、彼が「当主様」と呼ばれているから偉い人なんだろうと思っている。
確かに都会の高層マンションの最上階を貸し切り“ねこ”を住ませているのだから、想像出来ないくらいのお金持ちのはず。
それなのにお手伝いはつけず、部下が全て行う。女性は一度も見た事がない。
もうひとつ。
気づいたのは彼は極端に人が触れるのを嫌っている。部下がすれ違ざまに服に軽く触れようものなら、凄い形相で睨み、次にその人と会う事は二度とない。
私にはあんなに優しく触れるのに。
彼の愛撫を思い出し、自分自身をギュッと抱きしめた。
彼に触れたい。触れられたい。心の渇望が酷くて、震えが止まらない。
きっとそのうち。私は狂ってしまうだろう。
彼に飽きられたら?彼に恋人が出来たら?結婚してしまったら?
もしかしたら、昨日が最後の日だったかもしれない。
それすらも私には知るすべがない。
やることもなく、ただ、彼を、彼の事だけを想い、焦がれ、苦しい胸のうちをさらけ出す事も出来ずに、毎日を過ごしている。
もう耐えられない。
何度そう思ったか。でも、今日、帰ってくるかもしれない。私がいなくなって悲しい思いをするかもしれない。
もしかしたら。私に愛していると言ってくれるかも。
…そんな事はあり得ないのに。
どうしてだろう。今日は寂しさに耐えられない。
急に雨が降りだした。
雨は嫌いなのに………。
ガチャガチャ。ガチャリ。
扉が開く音がした。
バタバタと足音がしてリビングの入口のドアが勢い良く開いた。
彼がハアハアと息を切らせて戸口に立っていた。
「…泣いているのか?」
ーー知ってたの?
私は駆けだし、彼に飛びついた。首に手を回しぎゅっとしがみつく。
涙が止まらない。
雨音が強くなる。
【私が泣くと雨が降る】
このことを誰かに話した事はない。
この力のせいで家を出たのに、彼はなぜ知っていたの?
「全く。甘ったれた“ねこ”だな。」彼がくすくすと笑いながら、私の頭を撫ぜ、いつものように髪に顔を埋めてきた。
その時だった。
〘見られている。喋るな〙
と頭に直接声が響いた。
思わずビクリとした。そのまま泣きじゃくり、彼の肩に顔を埋めたままにした。
〘そうだ。そのまま。いつものように振る舞え。〙
「どうした?“ねこ”。ずっとそうして泣いているなら別の鳴かせ方をさせるぞ?」
そう言って不適に笑うとベッドルームへ連れて行かれた。
彼は私をベッドにそっと下ろすとジャケットを脱ぎ、ベッドサイドのソファに乱暴に投げた。
「さあ、おいで。いつものように甘えた姿を見せてくれ。」
いつもの甘い優しい声と、とろける笑顔で横に寝ている私を引き寄せた。
〘この家にはたくさんの盗聴器とカメラが設置されているんだ〙
また頭の中に声が響く。
私は彼の顔をじっと見つめた。
〘そう。それでいい。〙
彼も私をじっと見つめておでことおでこを合わせて、頬を両手で挟む。
「なんで泣いていたんだ?」
「…寂しかったから…」
「そんな可愛いことばかり言って俺を困らせたいのか?俺にとって、お前の願いは命令なんだから。」
そう言って鼻をこすり合わせた。
〘最初から知っていたよ。お前が泣くと雨が降る事を〙
私は目を丸くした。
「びっくりしたか?でも本当なんだ。」
彼は笑いながらキスをした。愛おしそうに私を見つめる。
「俺の“ねこ”。どうしたい?言ってくれ。お前の願いを叶えるから……。」
〘もう、分かっただろう?俺はテレパスなんだ。人に触れる事で感情が読める。こうして伝える事も出来る。〙
「…返事をしないのか?なら、鳴かせるまでだ。」
彼はさらに私を近づけ、足を絡ませ背中から服に手を入れてくる。
〘この能力は一族にのみ引き継がれる。しかし、能力の高さに血統は関係ないんだ。俺は当主だが基盤がない。だからこうして見張られているんだ〙
私は彼の優しい手の動きに意識がいって集中出来ない。彼の言葉を真剣に聞かないと行けないのに。甘い声が出てしまう。
そんな私の反応を見て、彼は嬉しそうにしている。
「…ここを撫でられるのが嬉しいのか…?」
「あぁっ!」
私は思わずのけぞる。
〘…はあ。あんまり煽らないでくれ。我慢出来なくなる。お前に伝えられるのは今夜しかないんだ。〙
彼は泣きそうな顔を見せた。
(こんな表情は初めて)
〘お前を拾った時、意図せず触ってしまった。そして知ったんだ。自然を感情で操る力。家出したのはそれが理由だろう?最初は役に立つと思ったんだ。〙
チュッチュッと音を立て、口づけを落としていく。
〘そのうちお前に触れるのが心地よくて…。手放せなくなった。でも俺は一族のモノ。誰かのモノになることは許されない〙
彼の手が触れる場所が熱を帯び始め、呼吸が速くなり、満たされたいと彼の手を導く。
〘お前が泣く度に、雨が俺に伝えて来るんだ。そばにいて欲しいと。〙
私は一段高い声をあげて、涙を流した。
彼は余韻が引くまで、私を強く抱きしめ続けた。
〘今日来た事で、俺がお前に執着していると一族は気付くだろう。だからお前に会えるのは今夜が最後だ〙
私は、彼の胸に顔を擦り寄せ泣いた。
「また泣いているのか。泣き虫だな全く…。」
彼は優しく私の頭を撫ぜた。
どうすれば彼の側にいられるの?
〘俺達にはまだ何の力もない。今のままでは近くにいることさえ許されない。だから……〙
「うるさい動物は嫌いなんだ。どうしてほしいのか早く言え。」
彼はイライラしながら私を揺さぶる。
「…ここを出ていきたいの。一人で生きる力が欲しい。」
彼の動きがピタリと止まった。
「それがお前の願いなのか?私の前からいなくなると?」
「………。」
私はコクリと頷いた。
「そうか。お前の願いは命令だ。全て叶えると約束する。住処も教育も…。ただし、私の目にふれる所にいるのは許さない。それでも出ていくのか。」
彼は私の肩を強くつかんだ。痛さに顔が歪む。
「はい。」
私は彼を見た。彼も私を見ている。
〘そう。それでいいんだ。お前の自由を奪われるな〙
「分かった。お前はもう、私の“ねこ”ではない。あんなに可愛がってやったのに。やはり“ねこ”は気まぐれなんだな。」
そう言って私を力強く抱きしめた。
「さあ、“ねこ”。終わりだ。俺を抱きしめろ。」
私は彼に“ねこ”の様にすり寄り、背中に手を回した。
〘お前にもう会えなくなることが、どれほど辛いかわかるか?ずっと独りだった俺に触れられる唯一の人。そうだ。名前を教えて欲しい。俺の名は“伊織(いおり)”だ。〙
〘私は真羅(シイラ)〙
〘シイラか。ずっと名前で呼びたかった。シイラ。お前が好きだ。大好きだ。〙
彼に回した腕に力を込めた。
〘生きて必ず会おう。それまでに力をつけておけよ。そして、次に会えたなら。お前の名前を呼んで、二度と離さない。それまで俺以外の男に惚れたら許さないからな。〙
「さあ。“ねこ”。もうおやすみ。」
彼の言葉通り、私は深い眠りに落ちた…。
朝目覚めると、いつものように彼…伊織はいなかった。
いつもの退屈な時間が始まる。涙が出そうになる。
だけど。伊織と約束したから。もう泣かないって決めた。
1週間後。
私はスーツケースを横に置いて部屋を見回した。
昨日までこの部屋に人が住んでいたとは思えないほど、モデルルームみたいに整えてある。
きっと、私がいた痕跡を残さないように指示されたんだろう。
大好きな伊織。私はまた戻って来るよ。伊織にあんな悲しい顔はもうさせたくない。
私が人として。あなたに会うために。
キイ。ガチャリ。
マンションを出ると、眩しい位の光が飛び込んできた。雲ひとつない、晴れ渡った空。
〘行ってくるね〙
私は外に飛び出した。
【完】
