bitter Friend

プロローグ 甘さも苦さも知らない夜に

別れ話って、もっとドラマみたいに雨の中とか、激しい言い合いの末に泣き崩れるとか、そういうのだと思っていた。


けど現実は、驚くほどあっさりしていた。


「ごめん、真夏。別れよ。
俺、他に好きな子が出来た……」


そのひと言だけを残して、三年間つき合った彼氏は背を向けて歩き出した。

「え…」

私は、ただその背中を眺めるしかなかった。

追いかけるでもなく、引き止めるでもなく。
ただ、何かがぽつんと胸から抜け落ちた音だけがした。

あぁ……終わっちゃった…。

涙は出なかった。泣くほどの気力もなかった。

夜風はまだ冬の名残を含んでいて、マフラーの中まで冷たい。
こんな時でさえ、私は本能的にバッグの中のチョコを探す。

甘いものは、私の救急箱だから。

けど、今日だけは、包みを開いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

食べる気がしない。

大好きなチョコが、初めて美味しそうに見えない。

「……はぁぁ……」

ため息をつきながら駅へ向かう帰り道。
そのときだった。

地面が、微かに震えた。

ドンッ……ドンッ……。

低いベースの音が、靴底越しに伝わってくる。
風の流れに乗って、ギターとドラムの音も混じった。

何だろう――。

気づけば足が止まっていた。
少し先の路地へと地下へ続く階段が伸び、その入口から音が漏れている。

ライブハウス……?

こんなところに、あったんだ。

息を吸うと、スピーカーの震える匂いさえ感じられるほど、音は強かった。

私は、吸い寄せられるように階段を降りていた。

理由なんてなかった。
ただ、心が空っぽになっていたその瞬間、あの音だけが何かを満たしてくれる気がした。

階段を下りきり、重たい鉄扉を押すと――

世界が一瞬で変わった。

暗いフロア。
スポットライトの中、ステージの上でひとりの男がマイクを握っている。

銀色の髪が光を跳ね返し、切れ長の瞳が鋭く観客を見据えていた。

その声は、低くて、少し荒くて。
胸の奥に直接落ちてくるような――不思議な迫力があった。

視線を横にずらすと、ギターの人が目に入る。

長い指が弦を滑り、空気を震わせるような澄んだ音を生んでいた。
その姿に、私は一瞬で魅了された。

……きれい。

チョコより甘い。
さっきまで失恋していたことすら忘れるくらい、胸が高鳴る。

演奏しているバンドの名前は「Ted」。(テッド)
MCでベーシストの男が軽々しく言った。

「今日も来てくれてありがとー! ひろ、今日なんか機嫌悪いけど許してくれよー!」

観客が笑い声をあげる。

銀髪のボーカル――宏弥(ひろや)はマイク越しに低く吐いた。

「別に悪くねぇよ」

ステージの彼には、近寄りがたい空気があった。
鋭いのに、どこか苦しそうで、無理して笑ってるようにも見える。


なぜだろう…目が離せない。


その一方で、私はどうしてもギタリストに惹かれた。
雷(らい)くん――そう、呼ばれていた。
指先が描く音の軌跡が、心を優しく撫でるみたいで。

気づけば胸の奥のモヤモヤがふっと軽くなり、音に身を預けていた。

最後の曲が終わる頃、私は泣いていた。

悲しくてじゃない。
嬉しくてでもない。

心の奥が震えて、ぽたぽた涙が落ちる。

「すごい……」

その小さな呟きは音にかき消えた。

失恋して、何もかも灰色に見えた世界で。
このバンドの音だけが鮮やかな色をくれた――そんな夜だった。

ライブが終わり、観客が動き始める。
出口へ向かう途中、私は一度だけステージを見返した。

銀髪のボーカルが、客席を冷たく見下ろしている。
その横で、雷くんが柔らかく笑ってファンに手を振っている。

二人の対照的な姿が焼きついた。

そして私は、まだ知らない。

この夜、足の向くままに踏み込んだライブハウスが、これから始まる甘くて苦い恋の序章だなんて。

あの銀髪のボーカルが、
私の人生を大きく変える人になるなんて。

――そんなこと、想像すらしていなかった。
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