bitter Friend
第1話 推し、見つけました。
(真夏)
あの日――失恋の帰りにふらっと入ったライブハウスで、私はとんでもない出会いをしてしまった。
帰宅して部屋に戻るなり、スマホを握りしめてベッドに倒れ込む。
「T…e…d……っと……」
検索バーに入力する指が、妙に震えていた。
現実逃避だったのかもしれない。
けれどその瞬間の私は、昨日までの私とは全然違っていた。
画面に“アマチュアバンド Ted”と表示され、その下にメンバーの写真が並ぶ。
銀髪の鋭い目のボーカル――久瀬宏弥。
くったりした雰囲気なのに妖しい色気があった。
ただ、ステージで放っていたあの圧に比べると、写真は少し大人しめだ。
その隣の写真に、私は思わず声を漏らした。
「わ……雷くん……!」
どこか柔らかい微笑みと、繊細な指先。
ギターを抱えた横顔が、美しすぎる。
……いや、ちょっと待って。
落ち着け私。冷静にいこう。
「かっこよすぎない……?」
ベッドの上でばたばた暴れてしまい、布団が床に落ちた。
つい数時間前まで失恋で喪失した人間の行動とは思えないけど、それどころじゃない。
検索を進めるうちに、彼らの演奏動画や写真がどんどん出てきて、心拍数が上がる。
特に雷くんのギターの音は、胸の奥がじんわり暖かくなるような――そんな響きだった。
「これは……推すしかない……!」
その夜、私はTedの動画を見漁り、ライブ情報を探し、新しくSNSアカウントまで作ってしまった。
失恋の穴が、綺麗に埋められていくようだった。
そして翌週――
「ねぇ桃子、お願い!一緒にライブ行こ!
絶対損させないから!」
「急にどうしたのさ真夏……っていうか無理無理、ライブハウスとか、怖いし!」
幼稚園教諭の幼なじみ、倉田桃子(くらたももこ)
――通称モモちゃんは、ソファの上でクッションを抱きしめながら困惑顔。
「ほんっとうに良かったの!雷くんっていうギタリストがね、すっごく優しそうで、すっごくかっこよくて!」
「それ完全にビジュアルで誘ってるやつじゃん」
「違うの!音が……音がすごいの!」
「……音でここまで興奮できる真夏はすごいね」
しぶしぶと言った表情をしながらも、モモちゃんはため息をついて立ち上がった。
「……もう。分かった。行けばいいんでしょ。
ほら、準備してよ」
「流石モモちゃん!大好き!!」
「抱きつくなぁぁ!」
こうして私は、推しを拝みに行く準備を整えた。
地下へと続く階段を降りるにつれ、胸の高鳴りが増していく。
モモちゃんはと言えば、壁にしがみつくように降りている。
「だ、大丈夫なの本当にここ……?」
「大丈夫大丈夫!危なくなんかないよ!
……多分!」
「“多分”って何よ!」
扉を開けると、またあの独特の熱気が押し寄せる。
ステージにはセッティング中のメンバーが見えて、私は思わず口を押さえた。
「うわっ……!雷くんいる!生雷くん……!」
「真夏、語彙力死んでるよ」
ステージ上でギターを調整する雷くんが、ふと顔を上げて客席を見渡した。
目が合った……気がした。
そして、ほんのり笑った……気がした。
「……っひゃぁ……!」
「真夏、しっかり!息して!」
その横では銀髪の宏弥が、ベースの千紘と何か話していた。
彼と目が合ったらどうしよう。あの鋭さで睨まれたら……。
そう思った瞬間、宏弥がこちらを見た。
冷たい目。
怖い。
でも、その瞳の奥に何か沈んだ影があるように見えた。
何だろう……あの感じ。
そしてライブが始まると、そんなこと全部忘れた。
音に包まれて、胸が震える。
雷くんのギターはやっぱり優しくて、強かった。
モモちゃんはと言えば――
「なんか、あのベースの人……優しそう……」
そう呟いていた。
「え、紬くん?」
「名前呼ぶと通い詰めそうだから聞きたくない」
推しが見つかったらしい。
ライブ終演後、
ステージが片付けられると、物販ブースに列ができ始める。
真っ先に雷くんのグッズ列に並んだ私は、すでに震えていた。
「うわああどうしよう……今日の雷くん……めちゃくちゃかっこよかった……!」
「真夏、声が大きい……!」
列の前で、雷くんが丁寧にファンと話しているのが見える。
至近距離で見る横顔が美しすぎて、心臓が跳ね続けている。
私の番が近づくにつれて、呼吸が浅くなった。
「つ、ついに……ついに来ちゃった……!」
そして――ついに私の番。
「こんばんは。来てくれてありがとう」
雷くんの柔らかな声に、心臓が破裂しそうだった。
「っ……あの、ライブすごく良くて……!あの、ギターが、ほんとに……好きで……!」
「嬉しいな。ありがとう。そんな風に言ってもらえるの、本当に励みになるよ」
笑った。
私に向けて、優しく、まっすぐ。
その瞬間、胸の奥がじゅわっと甘く溶けた。
完全に推し……決定だ。
そして帰り道――
物販を終えた私とモモちゃんは、地下の階段を上がって夜の空気に触れた。
「はあぁ……もう幸せだった……」
「真夏、完全に宙に浮いてるけど?」
「もうこのまま帰りたくない……夢から覚めたくない……」
そんなふわふわした気持ちで歩いていたときだった。
「……っ……は…あ…」
路地裏の暗がりから、誰かの荒い息が聞こえた。
モモちゃんが私の腕を掴む。
「ちょっ、やだよ真夏……あやしいよ……!」
「だ、大丈夫……多分」
「その“多分”やめなってば!」
恐る恐る路地の奥を覗くと、街灯の光が銀色に反射した。
見間違えようがない。
――あの人だ。
あの銀髪のボーカル、久瀬宏弥。
ライブで見たときよりずっと顔色が悪い。
片手で壁を押さえ、息を整えられていない。
肩が大きく上下している。
「なんか……具合悪い……?」
「え、真夏行くつもり!?危険危険危険!!」
確かに宏弥は怖い。
鋭いし、何を考えているか分からないし。
でも。
でも――
あの苦しそうな呼吸を聞いたら、放っておけなかった。
「ごめんモモちゃん。ちょっとだけ様子見てくる」
「ちょ、真夏!?」
私は一歩踏み出した。
その瞬間、宏弥がうっすら顔を上げる。
目が合った。
真っ暗な路地で、彼の瞳は鋭いのに……どこか怯えているように見えた。
あ――この人、ほんとは。
怖いんじゃなくて、苦しんでるんだ。
「宏弥くん……?」
呼びかけた途端、宏弥は眉をひそめ、低く搾り出すように言った。
「……来んな」
声は震えていた。
その一言が、小さな警告なのか、必死の拒絶なのか――
その時の私には、まだ分からなかった。
けれどこの瞬間が、最悪で、最高の“再会”だった。
この後、甘党の私と、苦党の彼の物語が静かに動き出すことを――
私はまだ、何も知らない。
あの日――失恋の帰りにふらっと入ったライブハウスで、私はとんでもない出会いをしてしまった。
帰宅して部屋に戻るなり、スマホを握りしめてベッドに倒れ込む。
「T…e…d……っと……」
検索バーに入力する指が、妙に震えていた。
現実逃避だったのかもしれない。
けれどその瞬間の私は、昨日までの私とは全然違っていた。
画面に“アマチュアバンド Ted”と表示され、その下にメンバーの写真が並ぶ。
銀髪の鋭い目のボーカル――久瀬宏弥。
くったりした雰囲気なのに妖しい色気があった。
ただ、ステージで放っていたあの圧に比べると、写真は少し大人しめだ。
その隣の写真に、私は思わず声を漏らした。
「わ……雷くん……!」
どこか柔らかい微笑みと、繊細な指先。
ギターを抱えた横顔が、美しすぎる。
……いや、ちょっと待って。
落ち着け私。冷静にいこう。
「かっこよすぎない……?」
ベッドの上でばたばた暴れてしまい、布団が床に落ちた。
つい数時間前まで失恋で喪失した人間の行動とは思えないけど、それどころじゃない。
検索を進めるうちに、彼らの演奏動画や写真がどんどん出てきて、心拍数が上がる。
特に雷くんのギターの音は、胸の奥がじんわり暖かくなるような――そんな響きだった。
「これは……推すしかない……!」
その夜、私はTedの動画を見漁り、ライブ情報を探し、新しくSNSアカウントまで作ってしまった。
失恋の穴が、綺麗に埋められていくようだった。
そして翌週――
「ねぇ桃子、お願い!一緒にライブ行こ!
絶対損させないから!」
「急にどうしたのさ真夏……っていうか無理無理、ライブハウスとか、怖いし!」
幼稚園教諭の幼なじみ、倉田桃子(くらたももこ)
――通称モモちゃんは、ソファの上でクッションを抱きしめながら困惑顔。
「ほんっとうに良かったの!雷くんっていうギタリストがね、すっごく優しそうで、すっごくかっこよくて!」
「それ完全にビジュアルで誘ってるやつじゃん」
「違うの!音が……音がすごいの!」
「……音でここまで興奮できる真夏はすごいね」
しぶしぶと言った表情をしながらも、モモちゃんはため息をついて立ち上がった。
「……もう。分かった。行けばいいんでしょ。
ほら、準備してよ」
「流石モモちゃん!大好き!!」
「抱きつくなぁぁ!」
こうして私は、推しを拝みに行く準備を整えた。
地下へと続く階段を降りるにつれ、胸の高鳴りが増していく。
モモちゃんはと言えば、壁にしがみつくように降りている。
「だ、大丈夫なの本当にここ……?」
「大丈夫大丈夫!危なくなんかないよ!
……多分!」
「“多分”って何よ!」
扉を開けると、またあの独特の熱気が押し寄せる。
ステージにはセッティング中のメンバーが見えて、私は思わず口を押さえた。
「うわっ……!雷くんいる!生雷くん……!」
「真夏、語彙力死んでるよ」
ステージ上でギターを調整する雷くんが、ふと顔を上げて客席を見渡した。
目が合った……気がした。
そして、ほんのり笑った……気がした。
「……っひゃぁ……!」
「真夏、しっかり!息して!」
その横では銀髪の宏弥が、ベースの千紘と何か話していた。
彼と目が合ったらどうしよう。あの鋭さで睨まれたら……。
そう思った瞬間、宏弥がこちらを見た。
冷たい目。
怖い。
でも、その瞳の奥に何か沈んだ影があるように見えた。
何だろう……あの感じ。
そしてライブが始まると、そんなこと全部忘れた。
音に包まれて、胸が震える。
雷くんのギターはやっぱり優しくて、強かった。
モモちゃんはと言えば――
「なんか、あのベースの人……優しそう……」
そう呟いていた。
「え、紬くん?」
「名前呼ぶと通い詰めそうだから聞きたくない」
推しが見つかったらしい。
ライブ終演後、
ステージが片付けられると、物販ブースに列ができ始める。
真っ先に雷くんのグッズ列に並んだ私は、すでに震えていた。
「うわああどうしよう……今日の雷くん……めちゃくちゃかっこよかった……!」
「真夏、声が大きい……!」
列の前で、雷くんが丁寧にファンと話しているのが見える。
至近距離で見る横顔が美しすぎて、心臓が跳ね続けている。
私の番が近づくにつれて、呼吸が浅くなった。
「つ、ついに……ついに来ちゃった……!」
そして――ついに私の番。
「こんばんは。来てくれてありがとう」
雷くんの柔らかな声に、心臓が破裂しそうだった。
「っ……あの、ライブすごく良くて……!あの、ギターが、ほんとに……好きで……!」
「嬉しいな。ありがとう。そんな風に言ってもらえるの、本当に励みになるよ」
笑った。
私に向けて、優しく、まっすぐ。
その瞬間、胸の奥がじゅわっと甘く溶けた。
完全に推し……決定だ。
そして帰り道――
物販を終えた私とモモちゃんは、地下の階段を上がって夜の空気に触れた。
「はあぁ……もう幸せだった……」
「真夏、完全に宙に浮いてるけど?」
「もうこのまま帰りたくない……夢から覚めたくない……」
そんなふわふわした気持ちで歩いていたときだった。
「……っ……は…あ…」
路地裏の暗がりから、誰かの荒い息が聞こえた。
モモちゃんが私の腕を掴む。
「ちょっ、やだよ真夏……あやしいよ……!」
「だ、大丈夫……多分」
「その“多分”やめなってば!」
恐る恐る路地の奥を覗くと、街灯の光が銀色に反射した。
見間違えようがない。
――あの人だ。
あの銀髪のボーカル、久瀬宏弥。
ライブで見たときよりずっと顔色が悪い。
片手で壁を押さえ、息を整えられていない。
肩が大きく上下している。
「なんか……具合悪い……?」
「え、真夏行くつもり!?危険危険危険!!」
確かに宏弥は怖い。
鋭いし、何を考えているか分からないし。
でも。
でも――
あの苦しそうな呼吸を聞いたら、放っておけなかった。
「ごめんモモちゃん。ちょっとだけ様子見てくる」
「ちょ、真夏!?」
私は一歩踏み出した。
その瞬間、宏弥がうっすら顔を上げる。
目が合った。
真っ暗な路地で、彼の瞳は鋭いのに……どこか怯えているように見えた。
あ――この人、ほんとは。
怖いんじゃなくて、苦しんでるんだ。
「宏弥くん……?」
呼びかけた途端、宏弥は眉をひそめ、低く搾り出すように言った。
「……来んな」
声は震えていた。
その一言が、小さな警告なのか、必死の拒絶なのか――
その時の私には、まだ分からなかった。
けれどこの瞬間が、最悪で、最高の“再会”だった。
この後、甘党の私と、苦党の彼の物語が静かに動き出すことを――
私はまだ、何も知らない。