bitter Friend

第4話 甘い匂いの罠みたいな日

(宏弥)

ライブの翌朝。

目が覚めた瞬間から、体が鉛みたいに重かった。

昨日の路地裏でのことを思い出すだけで、胸がまたざわつく。
風の冷たさ、喉を締めつけた息苦しさ――どれもまだ身体に残っていた。

鏡を見る。

銀髪は寝癖で跳ね、目の下にはうっすらクマ。
ファンが見たら幻滅するだろうな、と自嘲する。

……あの女の顔も、ふとよぎった。

あの時、路地の入り口に立っていた女。
名前は知らない。
たぶんファン。

近づくな、って言ったのに。

あれ以上来られたら、本当に倒れてたかもしれない。
それくらい、あの時は限界だった。

「……最悪」

ぼそっとつぶやき、顔を洗って頭を冷やす。


そのままスタジオリハへ向かう。

休日だったが、イベント前なので軽くリハが入っていた。
スタジオに向かうと、すでに雷と紬が機材を確認していた。

「おー、ひろ。今日大丈夫か?」

千紘がやけに心配そうな声で聞いてくる。

「別に。普通」

「昨日、物販飛ばしてたじゃん。雷ちゃんも心配してたんだぞー?」

「千紘、余計なこと言うな」

雷が小言を言うように言ってくる。

いや、別に雷に心配されたところで嬉しくもない。
優しいのは分かってるけど、今は触れられたくなかった。

「昨日は……ちょっと疲れただけだ」

そう言って、スタジオの壁に置いたマイクを持つ。

雷がギターのストロークを鳴らし始め、千紘がゆったりとドラムスティックを回す。
紬がベースで低音をつくる。

音が集まってきて、空気が振動する。
それだけで、胸の奥が少し落ち着いていく。

歌い始めれば、呼吸が自然に整う。

歌う瞬間だけは、何も考えなくて済む。
昨日の苦しさも、視線の痛みも、過去の記憶も。

ここだけは、俺でいていい。


そして、リハの休憩中。

一時間ほど通しで練習し、休憩に入る。
缶コーヒーを飲んでいると、千紘が唐突に言い出した。

「そういや、お前ら聞いた? 
来週、うちのバースデーイベントあるじゃん?」

「聞いた。ケーキ頼んでくれたってとこだよな?」
雷が椅子に腰かけながら頷く。

「うぇ、ケーキとかやんのか」
俺は缶を置き、気のない返事をした。

甘いものは苦手だし、興味もない。

「パティスリーの人が作ってくれんだって。ライブハウスの人が言ってた」

紬がのんびり言葉をつなぐ。

バースデーイベント自体は毎年やっているけれど、ケーキ依頼は初めてだ。
だから、どうでもいいわけではない。

「ひろ、ケーキ嫌いだよな? 大丈夫?」

「別に。食わなきゃいいだけだろ」

雷が苦笑する。

「お前な……イベントのケーキくらいは食べろよ。ファンの前だぞ?」

「……努力はする」

本当は無理だけど、イベントで食べられないのは格好つかない。
だから口だけでも言っておく。

「でさー、そのパティスリーの人……店長が言ってたんだけど」

千紘がにやっと笑う。

「若い女の子が担当するらしいよ?」

「は?」

雷が呆れたようにため息をつく。

「千紘、それ宏弥に言う必要あんの?」

「いやほら、ひろの反応が面白いかなと」

「面白くねぇよ」

即座に怒鳴ろうとしたけど、怒鳴るほどの元気もなかった。

ただ、また胃の奥がきゅっと締めつけられる。

「若い女の子」が絡むと、どうしても肩が強張る。

過去の記憶が、勝手に湿った音を立てて蘇るからだ。

ファンに襲われたあの日のこと。
閉じ込められた控室のドア。
必死に逃げても、笑いながら腕を掴んできた手。

あの感触は、一生忘れられない。

「……ケーキなんて、直接会う必要ねぇだろ」

ぼそりと言って、立ち上がる。

「ちょっと外の空気吸ってくる」

「ひろ、大丈夫か?」
紬の声がゆっくり追いかけてきた。

「平気」

その言葉だけ残して、スタジオを出た。




ビルの非常階段に腰を下ろす。
外気に触れた途端、胸が少しだけ軽くなる。

そうして無意識に、昨日の路地裏の光景が脳裏に浮かぶ。

あの女は――
他のファンとちょっと違った。

俺が「来んな」と言ったのに、怯えなかった。
むしろ、助けようとした。

優しい目をしていた。

それが逆に苦しかった。

“優しさ”は一番嫌いだ。
期待されるようで怖くなる。
裏切ったときの失望が、さらに怖い。

でも――
だからこそ、あの目が頭から離れない。

「…………なんなんだ、アイツ」

名前も知らない。
顔も曖昧。
ただ、髪がふわっと揺れたのと、目が丸かったような。

雷のファンだと千紘が物販で言っていた女かもしれない。
あの明るい服装、雷のグッズ袋を持っていた気がする。

だから俺に興味なんてないはずなのに。

どうして、あんなふうに見てきた?

“ステージの久瀬宏弥”じゃなく、
“ただ苦しんでる男”として見てきたような――そんな感覚だった。

気のせいだ。
そう結論づける。



休憩終わりに戻ると、雷がイベントについて話していた。

「ライブハウス側から連絡きたけど、ケーキの打ち合わせ、来週の木曜らしいぞ」

「打ち合わせ?」

嫌な予感がする。

「パティスリーの人が直接来て、サイズとか飾りつけの相談するんだと」

「……なんで俺らが直接……?」

最悪だ。

千紘が笑いながら肩を叩いてくる。

「ほらひろ、若い女の子来るかもな〜」

「やめろって言ってんだろ」

苛立ちを隠すように、またマイクを握る。

雷が少し心配そうに言う。

「宏弥、無理なら俺らが代わりに対応するから。お前が来る必要はない」

「……いや、いい」

口が勝手に動いた。

逃げるのは簡単だ。
けれど逃げたら、きっともっと惨めになる。

「俺も行く。……仕事だから」

雷と千紘が一瞬だけ目を合わせ、紬がゆっくり頷いた。

「じゃ、決まりだな」

その言葉を聞きながら、喉の奥が静かに痛む。


帰り道――

スタジオを出て帰っている途中。
ふと、街の角を曲がったとき、甘い匂いが漂ってきた。

チョコレートの匂い。

甘党の連中なら幸せを感じるんだろうけど、俺は逆だ。
胃がきゅっとなる。

けど――
その香りが、昨日の女を思い出させた。

あの時、路地裏で一瞬風が吹いた。
ほんのり甘い匂いが混じっていた気がした。

まさか、あの女の……?

いや、ただの気のせいだ。

そう自分に言い聞かせ、前を向く。

その瞬間――胸の奥に、ほんの少しだけひっかかりが残った。

甘いものは嫌いなはずなのに。

その“甘さ”が、なぜか悪いものじゃない気がした。

……バカみたいだ。

頭を軽く振り、歩き出す。

ただ――
この小さな違和感こそが、後に俺の世界を大きく変えていく。

そんなこと、今の俺はまだ知らない。
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