bitter Friend
第3話 ビターとスイートの境界線
(真夏)
あの銀髪のボーカルの姿が、暗い路地裏の中でゆっくり遠ざかっていった。
私の呼びかけに答える余裕なんてない、そんな後ろ姿だった。
肩が大きく上下していた。
呼吸が乱れているのが分かった。
ライブのときはあんなに堂々としていたのに――別人のような、弱々しい影。
「宏弥くん……」
名前を小さく呼んでみる。
でもすぐに、はっとして口を押さえた。
ファンでもないのに、まるで知り合いみたいに呼んじゃった。
「ちょっと真夏!大丈夫…?」
背後からドタドタと足音がして、桃子が走ってきた。
「モモちゃん…」
「一人で勝手に行っちゃうから…」
「あ、ごめん……その……」
言うべきか迷ったけれど、胸のざわざわがどうしても嘘を許してくれなかった。
「さっきここに…宏弥くんがいたの」
「えっ、宏弥くんって…あのボーカルの?」
桃子はぱちぱちと瞬きを繰り返し、すぐに信じられないように周囲を見渡した。
「ライブ終わりのあの人が?…ここに?」
「うん……なんか…すごく…苦しそうにしてた……」
桃子の表情が少し曇った。
「ライブの時は、めっちゃクールで余裕って感じだったけどね」
「そうなんだけど……なんか、その……違うの」
「違う?」
「うまく言えないんだけど……ステージの宏弥くんと、さっきの宏弥くんが……全然別人みたいで」
「真夏がそう言うってことは、よっぽどだったんだね」
「……うん」
あの時の目――
誰も近づけないように鋭くて、それでいて泣きそうで。
どうにも胸がざわざわして、落ち着かなかった。
「とりあえず帰ろ? 寒いし!」
「うん……」
歩き始めても、なぜか銀髪のあの背中が頭の中に残ったままだった。
翌朝――
「おはようございます!」
パティスリーの扉を開けると、甘い香りがふわりと身体にまとわりつく。
チョコの匂い、バターの匂い、焼きたての生地の匂い……全部が大好きな世界。
「河野、おせーぞ」
さっそく志摩店長の口の悪い挨拶が飛んでくる。
「お、おはようございます志摩さん!」
「なんだよその声。寝不足か?」
「ちょっと……色々あって……」
「あ?」
志摩さんは興味深そうに片眉を上げたけれど、その話は後でと言わんばかりに手をひらひらさせた。
「ま、仕事しろ仕事。今日は朝から面倒な依頼の確認あるぞ」
「依頼ですか?」
「ん。イベント用のケーキ制作だよ。
急ぎで来てる」
イベント。
ケーキ制作。
それだけでワクワクしてしまう。
けど志摩さんは少し渋い顔をした。
「なんか、バンドのイベントらしい」
「えっ!?」
バンド!?
まさか……とは思いつつ、胸がどくんと跳ねる。
志摩さんは資料を一枚手に取り、ひらりと私に投げた。
「ほれ。お前がこういうの好きそうだから最初に見せてやるよ」
「え、いやそんな……っ」
――と思いつつ、受け取った紙に目を落とした瞬間。
時間が止まった。
*Ted
バースデーイベントケーキ依頼*
その文字が、視界の真ん中で光って見えた。
「…………え、ええええええええっ!?」
声が裏返る。
志摩さんが肩をすくめた。
「やっぱ知ってんじゃねぇか。昨日からそわそわしてたしな」
「だ、だって……Tedって……その……昨日ライブ行った……!」
「お、当たりか」
「当たりとかじゃなくて! 志摩さん……っ、これ……本当にあのTedですか!?」
「“あの”がどのあのかは知らねぇけど、ライブハウスの担当者から来てんだから同じだろ」
うそ。
え、え、待って。
動揺しすぎて呼吸が変な感じになる。
「ふ、ふふふ……あ、あの……雷くんの……!?」
「はいはい。落ち着け。溶けるぞ」
「溶けませんよ!」
でも本当に溶けそうだった。
喜びと驚きでチョコみたいにとろとろに。
「で、どうするよ。担当するか?」
「や、やらせてください!!」
即答だった。
志摩さんは呆れながらも、少しだけ笑った。
「分かった。お前、こういうときだけは行動早いよな」
「そ、そんなこと……!だってっ……!」
言いかけて、言葉が詰まる。
ただ好きなバンドだから――それだけじゃない。
胸の奥に昨日の路地裏の光景がじんわり蘇る。
あのときの宏弥くんの顔。
苦しそうで、壊れそうで。
ステージの彼とのギャップに、私はまだ戸惑っている。
――ほんとの久瀬宏弥って、どっちなんだろう。
なぜかその答えを知りたいと思った。
どうしてか理由は分からないけれど。
「……よし、気合入れて作ろう」
「気合い入れすぎて失敗すんなよ?」
「しません!」
朝の厨房に、志摩さんの笑い声が響く。
私はエプロンを締めながら思った。
昨日の出来事と、今日の依頼。
全部が偶然だなんて思えない。
まるで、甘い匂いに導かれているみたいだ。
――甘党と苦党。
そんな対極の二人の物語が、ゆっくり動き始めていることを、
このときの私はまだ知らなかった。
あの銀髪のボーカルの姿が、暗い路地裏の中でゆっくり遠ざかっていった。
私の呼びかけに答える余裕なんてない、そんな後ろ姿だった。
肩が大きく上下していた。
呼吸が乱れているのが分かった。
ライブのときはあんなに堂々としていたのに――別人のような、弱々しい影。
「宏弥くん……」
名前を小さく呼んでみる。
でもすぐに、はっとして口を押さえた。
ファンでもないのに、まるで知り合いみたいに呼んじゃった。
「ちょっと真夏!大丈夫…?」
背後からドタドタと足音がして、桃子が走ってきた。
「モモちゃん…」
「一人で勝手に行っちゃうから…」
「あ、ごめん……その……」
言うべきか迷ったけれど、胸のざわざわがどうしても嘘を許してくれなかった。
「さっきここに…宏弥くんがいたの」
「えっ、宏弥くんって…あのボーカルの?」
桃子はぱちぱちと瞬きを繰り返し、すぐに信じられないように周囲を見渡した。
「ライブ終わりのあの人が?…ここに?」
「うん……なんか…すごく…苦しそうにしてた……」
桃子の表情が少し曇った。
「ライブの時は、めっちゃクールで余裕って感じだったけどね」
「そうなんだけど……なんか、その……違うの」
「違う?」
「うまく言えないんだけど……ステージの宏弥くんと、さっきの宏弥くんが……全然別人みたいで」
「真夏がそう言うってことは、よっぽどだったんだね」
「……うん」
あの時の目――
誰も近づけないように鋭くて、それでいて泣きそうで。
どうにも胸がざわざわして、落ち着かなかった。
「とりあえず帰ろ? 寒いし!」
「うん……」
歩き始めても、なぜか銀髪のあの背中が頭の中に残ったままだった。
翌朝――
「おはようございます!」
パティスリーの扉を開けると、甘い香りがふわりと身体にまとわりつく。
チョコの匂い、バターの匂い、焼きたての生地の匂い……全部が大好きな世界。
「河野、おせーぞ」
さっそく志摩店長の口の悪い挨拶が飛んでくる。
「お、おはようございます志摩さん!」
「なんだよその声。寝不足か?」
「ちょっと……色々あって……」
「あ?」
志摩さんは興味深そうに片眉を上げたけれど、その話は後でと言わんばかりに手をひらひらさせた。
「ま、仕事しろ仕事。今日は朝から面倒な依頼の確認あるぞ」
「依頼ですか?」
「ん。イベント用のケーキ制作だよ。
急ぎで来てる」
イベント。
ケーキ制作。
それだけでワクワクしてしまう。
けど志摩さんは少し渋い顔をした。
「なんか、バンドのイベントらしい」
「えっ!?」
バンド!?
まさか……とは思いつつ、胸がどくんと跳ねる。
志摩さんは資料を一枚手に取り、ひらりと私に投げた。
「ほれ。お前がこういうの好きそうだから最初に見せてやるよ」
「え、いやそんな……っ」
――と思いつつ、受け取った紙に目を落とした瞬間。
時間が止まった。
*Ted
バースデーイベントケーキ依頼*
その文字が、視界の真ん中で光って見えた。
「…………え、ええええええええっ!?」
声が裏返る。
志摩さんが肩をすくめた。
「やっぱ知ってんじゃねぇか。昨日からそわそわしてたしな」
「だ、だって……Tedって……その……昨日ライブ行った……!」
「お、当たりか」
「当たりとかじゃなくて! 志摩さん……っ、これ……本当にあのTedですか!?」
「“あの”がどのあのかは知らねぇけど、ライブハウスの担当者から来てんだから同じだろ」
うそ。
え、え、待って。
動揺しすぎて呼吸が変な感じになる。
「ふ、ふふふ……あ、あの……雷くんの……!?」
「はいはい。落ち着け。溶けるぞ」
「溶けませんよ!」
でも本当に溶けそうだった。
喜びと驚きでチョコみたいにとろとろに。
「で、どうするよ。担当するか?」
「や、やらせてください!!」
即答だった。
志摩さんは呆れながらも、少しだけ笑った。
「分かった。お前、こういうときだけは行動早いよな」
「そ、そんなこと……!だってっ……!」
言いかけて、言葉が詰まる。
ただ好きなバンドだから――それだけじゃない。
胸の奥に昨日の路地裏の光景がじんわり蘇る。
あのときの宏弥くんの顔。
苦しそうで、壊れそうで。
ステージの彼とのギャップに、私はまだ戸惑っている。
――ほんとの久瀬宏弥って、どっちなんだろう。
なぜかその答えを知りたいと思った。
どうしてか理由は分からないけれど。
「……よし、気合入れて作ろう」
「気合い入れすぎて失敗すんなよ?」
「しません!」
朝の厨房に、志摩さんの笑い声が響く。
私はエプロンを締めながら思った。
昨日の出来事と、今日の依頼。
全部が偶然だなんて思えない。
まるで、甘い匂いに導かれているみたいだ。
――甘党と苦党。
そんな対極の二人の物語が、ゆっくり動き始めていることを、
このときの私はまだ知らなかった。