虻蜂とらず

光に揺れて

光がまぶしすぎる朝。
朝会が、ざわりと揺れた。

「安部(あべ)さんです。英語、リモア語も話せるトリリンガルです。今日から一員になります」

近年、リモアとの取引が急増していた。
問い合わせは山のように積み上がり、部署には常に焦りに似た空気が漂っている。
そのせいか、紹介の瞬間、ただの歓迎ではなく──
“使える人材が来た”
そんな計算めいた視線が一斉に前へ向いた。

長身。すらりと伸びた脚。
黒髪が額に落ち、彫りの深い横顔はまるで俳優のそれ。
背丈は180センチはあるだろう。
異国の影がふと差すような雰囲気がある。
ざわめきに本人が気づいているのかいないのか、
安部は涼しい顔で一礼した。

――すごい人だなぁ。

七海純(ななみ じゅん)は思わず息を呑んだ。
まぶしい。
なのに、近寄りがたい。
憧れと、説明できない違和感が胸の奥でかすかに混ざり合った。

純には、誰にも言えない事情があった。

密かに、上司の八木(やぎ)と関係を続けている。
恋人ではない。
不倫という言葉もどこかしっくりこない。
ただ、もつれた糸のように断ち切れず、
惰性のような情と、八木の“力”に絡め取られた関係だった。

別れ話は、何度もした。
真剣に向き合おうとした夜もあった。
もう終わりにしようとメッセージを書いては消し、
勇気を振り絞って会うたびに、
八木は決まって同じパターンで純を押し留めた。

泣いてすがる日もあれば、
純の言葉を封じるように怒鳴りつける日もある。
何も言えなくなった純を抱きしめ、
翌朝には決まって優しい声で「悪かった」と言ってくる。

その繰り返し。

八木の影は、純の心をじわじわと暗くしていた。
部下としての上下関係。
逃げたいのに、逃げられない。
八木の機嫌ひとつで、
職場での自分の立ち位置が危うくなることを、
純は本能的に理解していた。

そんな日々が長く続いていたからこそ、
今朝の安部の登場は、
胸の奥を小さくかき乱した。

――あんな光をまとった人が、本当にいるんだ。

自分とは違う世界の人。
自分とは関係のない光。

そう思い込むことで、
暗い影の中に自分を押し込めていた。

八木は、最初は優しそうだった。
配属直後。
純は一人、モニターとにらめっこしていた。

新人の頃に配られた厚いマニュアル。
何度読み返しても、どうしても腑に落ちない部分があり、
純はページをめくってはメモを取り、
また戻り……と、ひとりで答えを探していた。

(誰かに聞けばいいのはわかってる。
 でも……なぜか、それが苦手)

人に迷惑をかけてしまう気がして、
いつも自力で解決しようとする。
そんな癖が、純の肩を知らぬ間に重くしていた。

そのときだった。
背後から、落ち着いた声がした。

「七海、まだ終わらないのか?」

八木だった。
振り返ると、彼は腕を組み、純の画面をのぞきこんでいた。

「あ……すみません。
 ここが、どうしても理解できなくて……」

言い終わる前に、八木は軽く笑い、
純の手元のマニュアルを指で軽く叩いた。

「そんなの、読んでても時間の無駄だよ。
 わかるやつに聞いた方が早い」

口調は叱咤めいていたが、
その言い方にはどこか“守ろうとする優しさ”があった。

「困ったら、俺に聞けって。
 そういうときのために上司がいるんだろ?」

意外な言葉だった。
純は驚いて、瞬きをした。

(……そうか。
 誰かに聞いても、迷惑じゃないのかな)

八木は、面倒そうに伸びをしながら、
純の代わりに内線へ手を伸ばし、
的確に担当部署へ問い合わせてくれた。

端的で手際がよく、
その姿は確かに“頼れる上司”に見えた。

電話を切ったあと、八木は淡々と説明をしながら、

「七海、全部自分で抱えこむ癖あるよな。
 そんなの、仕事じゃ続かないぞ」

と軽く言った。

その言葉が、不思議と心に染みた。

今思えば――
八木のその“優しさらしきもの”が、
純の防壁を最初にゆるませた瞬間だった。

その日の夕方も、純のスマホは決まった時間に震えた。
八木からの着信。
出る前から、会う流れが決まっている。
いつものように、彼の都合がそのままふたりの予定になる。

電話に出る前――
純の胸の奥に、ふっと古い痛みが浮かんだ。

十五歳の初恋。
拙くて、触れたことすらない恋。
でも、もしも彼が生きていたら――
純が想像する限りでは、八木よりずっと優しくしてくれていたはずだった。

けれど、その彼はもう、この世界のどこにもいない。

闇を見つめると、
八木の白い裸体が、月のように淡く浮かぶ。
冷たく、頼りにならない光。
それでも、孤独を埋めるには十分だった。

初恋が残した空洞を、
八木の曖昧な温度が埋めてしまった。
それが、純が八木を切れない理由のすべてだった。

――そして、八木にはもうひとつ、理解できない部分があった。

同僚の前では、妻の写真を自慢げに見せるくせに、
純とふたりきりになると、まるで別人になる。

ある夜、純は子供のように問いかけてしまった。

「奥さんのこと、あんなに自慢しているのに……どうして浮気なんかするの?」

八木は面倒そうに笑った。

「家ではな、ちゃんと父親やってるよ」

そう言って、肩をすくめた。
その言葉に誇りはあっても、迷いはなかった。
役割を果たしていれば、それで十分だと信じているようだった。

「美人なんて、三日で飽きるんだよ」

あまりに平然と放たれた言葉だった。

純は何も返せなかった。

(じゃあ、私なんて……もっと早く飽きられるのかな)

胸の奥が、小さく軋むように痛んだ。

その夜は、なぜか八木の言葉が、いつまでも耳に残った。

展望フロアの端。
東京の夜景が足元に広がり、ガラスに映る自分たちの影が重なっている。

いつものハグ。
いつものキス。
その腕に、ほんのわずか普段より力がこもっているように感じた。

ふと純の視線が八木の顔に留まった。

背丈は180㎝ほどで、白い肌は透き通っている。
その目の奥には自信と余裕が満ちている。

以前、純が「営業はルックスも重視されるみたいだね」と言ったとき、
八木は嬉しそうに笑ったものだ。
その笑顔に惹かれた時期があったことを、純はもう思い出したくなかった。

そういえば、八木の言葉。
「営業ってのはな、数字だけ追ってりゃいいわけじゃない。
 人の噂や空気の変化に鈍かったら、取れる案件も取れないんだよ」

そう言って、他部署の人事異動の話を
当然のように言い当てた。

純は感心した。
(八木さんって、そういうのに敏感なんだ……)

その瞬間は、それを“仕事のできる証”だと思った。
でも後になってわかる。
――噂に敏感ということは、“私のこと”にも敏感、ということだった。

話題が、新人の安部へと移った。

「すごい、いい男だな」
八木は景色を見下ろしながら探るように言った。

純は、あえて軽く笑って返す。
「でも、きっと彼女持ちだよ。関係ないよ、私には」

その一言の裏に、
さっき見た安部のまなざしの静かな透明さがふとよぎった。
八木は一瞬だけ純を見たが、それ以上何も言わなかった。

ガラスに映る影は、相変わらず八木の影が濃くて、
その隣に立つ自分が溶け込むように見えた。

その後、二人は当たり前のように山手線に乗った。

断る理由を探す前に、体が先に動いてしまった。

鶯谷で降りる。
改札を抜けると、湿った夜気が肌にまとわりつき、
街灯の下でホテル街のネオンがぼんやりとにじんでいた。
二人が向かう先は、いつも決まっている。
光の届かない、行き止まりのような場所。

純は歩きながら、安部の顔を思い浮かべた。

(……私がこんな場所にいるなんて。
 安部さんが知ったら、きっと嫌われる)

胸の奥が、じんと痛む。
安部のことは何も知らないはずなのに、
どうしてか“見られたくない自分”だけは、はっきりしていた。

昼と夜を行き来しているようで、
どちらの世界にも属せていない気がした。
それでも足は、いつものルートから外れられない。

純は小さく息をのんだ。
暗い方へ歩いていく自分の影が、
安部の光からどんどん遠ざかっていくように見えた。

――でも、立ち止まる勇気もなかった。

八木と二人でホテルに入ろうとして、
一人で出てきた女とすれ違った。
髪が乱れ、肩で息をしている。
自分と同じように“訳あり”の女か、売春か。
知らない女なのに、その影が純の胸をチクリと刺した。

(……私も、あの人と同じに見えるのかな)

胸の奥がひゅっと縮む。
けれど、ホテルの自動ドアは無機質に開き、
背中を押すように純を飲み込んだ。

安っぽいホテルの部屋。

八木は迷わず、純のブラウスに手をかけた。
その手つきに、抗う気力がすっと削がれていく。

いつものセックス。

――しかし、冷めてしばらくたつと、部屋の空気は重く沈んだ。

天井を見つめたまま、純は胸の奥にずしりとした罪悪感が広がるのを感じた。
わかっている。
こんな関係、もうやめたほうがいいことくらい。

なのに同時に、どうしようもなく八木の体温を求めてしまう自分がいた。

(……最低だ。わかってるのに)

理性は「逃げろ」と何度も訴えるのに、
その声をかき消すように、
心の奥の“空洞”が八木を呼び寄せてしまう。

ひとりになることへの恐怖。
誰にも必要とされない場所へ戻る怖さ。
そのすべてが、八木にしがみつく理由になってしまっていた。

わずかな温もりにすがるたび、
後で必ず苦しくなると知っているのに、
手を離せない。

暗い部屋の沈黙は、
純の弱さと孤独だけを映し返してくる鏡のようだった。

(……何してるんだろう、私)

小さく、喉の奥で自嘲がにじんだ。
絶望は深いのに、逃げ出す力は残っていなかった。

翌朝。
いつも通り出社し、パソコンの電源を入れた瞬間――
前夜の湿った闇がまだ心の奥に貼りついているのを感じた。

そのとき、背中にやわらかな視線がふっと触れた。

安部だった。

純の胸の奥で、
ほんの少しだけ、空気が揺れた。

「おはようございます」

低く、落ち着いた声。
必要以上に出しゃばらないのに、
どこか異国の礼儀正しさが混じっているように感じた。

(すごい人なのに、ちゃんと謙虚なんだ……)

「すみません、マニュアルのファイルって、どこにありますか?」

デスクに近づいた安部の声は控えめで、
距離感の取り方が不思議なほど自然だった。

「あ、こっちです。キャビネットの下段にありますよ」

立ち上がり、安部を棚へ案内した。
並んで歩くほんの数秒。
背の高さの差が、むしろ守られているような奇妙な安心感をもたらした。

ファイルを手渡したとき、指先がかすかに触れる。
その瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
ときめきなのか、後ろめたさなのか、判別がつかない。

「ありがとうございます。助かります」

安部は丁寧に礼を言い、
ふっと目元だけやわらかく笑った。
その笑みは、純にだけ向けられたような錯覚を生むほど、静かな温度を持っていた。

――まさか。そんなはず、ない。

ほんの一瞬の目線。
ただそれだけの出来事。
けれどその日の純は、
モニターに向かいながら、胸の奥のざわめきを何度も思い出してしまった。
そのざわめきに、名前をつけるのが、少し怖かった。
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