そのおじさん、蜂蜜パンケーキのごとし
prologue
離婚届を提出した日の夜、私はコンビニの駐車場で肉まんを食べていた。
二十七歳の冬───
人生のリセットボタンを押してから約一年後、私は外資系企業、AstraLink Technologies, Inc.(アストラリンク・テクノロジーズ)──略称はALT(オルト)に縁故入社した。
これからの人生は平和に過ごせるはず───……そう、思っていた。
元夫のモラハラも、妙な束縛も、意味不明な『馬鹿か?』という語尾とも、完全にお別れしたのだから。
……なのに───
出社初日の朝、エレベーターの中で急に声をかけられた。
「───きみ、新しい子?」
振り返ると、綺麗なブロンドヘアの長身の男性が立っていた。
スーツが完璧に似合う、外資らしい切れ味のある顔立ち。だけど、日本語は妙に柔らかい。
江波戸 琉生、推定年齢40歳の人事部長……
つまり、私の上司になる人だった。
第一印象は……こわそう? 絶対怒らせちゃいけないタイプ? だろうか。
……のはずが───
彼の腕には、子どもの落書きみたいなシールが貼られていた。
『ぱぱ きょうははやくかえってきてね』
外資エリートなのに、生活感がえげつない。
「あ……パパ、なんですね」
意外すぎるそれに、つい口から出てしまった。
彼は一瞬だけ眉を上げて、照れたように目をそらした。
「……まあ、ちょっと事情があってね」
その“事情”が、仕事中に猫の失踪連絡が飛び込んできたり……五歳児のお嫁さんに指名されたり……中二の娘と露天風呂に入ることになるとは、このときの私は知らなかった。
平和な社会生活を求めて転職したはずなのに、なぜか私は、このおじさんの家庭戦争に巻き込まれていく。
ただひとつだけ確かなのは───
江波戸部長は、元夫よりずっと優しい。
そしてそれがまた、ややこしい。


