さよならの代わりに授かった宝物
第十二章:銀世界の訣別
凍てつく北風が、古びた家屋の隙間をすり抜け、不気味な口笛のような音を鳴らしていた。
部屋の隅では、石油ストーブの上の薬缶が、コトコトと小さく揺れている。その音だけが、やけに大きく響いていた。
「……勇気さん」
萌香は、窓の外をじっと見張り続ける勇気の肩に、そっと毛布を掛けた。
「顔色、悪いわ。少しだけでも……眠ったら?」
勇気は視線を雪原に向けたまま、萌香の手を探し当て、静かに握りしめる。
「大丈夫だ。君の声が聞こえているだけで、目は冴える」
そして、少しだけ強く指を絡めた。
「それより……準備はできたか?
蓮を連れて、いつでも裏口から出られるように」
「……また、逃げるの?」
萌香の声が震える。
「私たち、ずっと……こうして逃げ続けるの?」
その問いに、勇気はようやく振り返った。
そこにあったのは、かつての冷徹な警視の顔ではない。
一人の女と子を、愛し抜こうとする男の、痛みを帯びた決意だった。
「違う」
静かに、しかしはっきりと。
「逃げるのは……今日で終わりだ」
勇気は懐から、小さなマイクロSDカードを取り出し、萌香の手のひらにそっと握らせる。
彼の体温が残るそれは、驚くほど重かった。
「これは……?」
「君の父親が、死の間際に俺へ託そうとしたものだ」
低い声で続ける。
「桐生建設を潰し、君の父を追い詰めた真犯人……
政界の黒幕たちの汚職データが、すべて入っている」
萌香の息が止まる。
勇気は両手で彼女の頬を包み、視線を逸らさせない。
「これがある限り、彼らは君たちを追い続ける。
だから……これを持って、明日の朝一番のバスで町へ行け」
「……勇気さんは?」
震える声。
「あなたは、どうするの……?」
勇気は答えず、ただ、穏やかに微笑んだ。
その優しさが、かえって萌香の胸を締めつける。
「佐倉には、もう連絡してある。
彼女なら……公安の規則を破ってでも、君と蓮を守る」
「じゃあ、あなたは……!」
「俺は」
勇気は、萌香の額にそっと額を寄せた。
「ここで、終止符を打つ」
萌香は首を振り、彼の胸に縋りつく。
「嫌よ……!
二年半も待って、やっと……やっと本物の家族になれたのに……!」
勇気は壊れ物を抱くように、萌香を強く、強く抱き寄せた。
何度も、その髪に唇を落とす。
「萌香……泣かないでくれ」
声が、わずかに震える。
「君を“便宜上の妻”だと言った、あの日から……
俺はずっと、君に謝りたかった」
彼女の耳元で、囁く。
「愛している。
この命を賭けても、足りないほどに」
その瞬間――
雪を踏みしめる、複数の足音が、闇の中から迫ってきた。
勇気の身体が、瞬時に硬直する。
彼は名残を断ち切るように、萌香をそっと離し、立ち上がった。
ホルスターから、銃を抜き放つ。
「パパ……?」
物音に目を覚ました蓮が、寝ぼけ眼で顔を出す。
勇気は一瞬で“父親の顔”に戻り、膝をついた。
「蓮」
優しく、真っ直ぐに。
「パパは、ちょっとだけ……悪い人たちとお話してくる」
小さな手を握る。
「ママのこと、守ってあげられるか?」
「……うん」
蓮はこくりと頷く。
「パパ、がんばって」
その言葉に、勇気は微笑んだ。
「ありがとう」
立ち上がり、最後に萌香を見つめる。
「萌香」
たった一言。
その中に、すべてを込めて。
「……俺たちの未来を、君に託す」
「勇気さん……!」
「行け。振り返るな」
玄関の扉が開き、冷たい雪が吹き込む。
「生きろ。
蓮と一緒に……幸せになれ」
扉が閉ざされる音が、胸を引き裂くように響いた。
暗闇と銀世界が溶け合う中――
一発の銃声が、夜の静寂を無惨に切り裂いた。
部屋の隅では、石油ストーブの上の薬缶が、コトコトと小さく揺れている。その音だけが、やけに大きく響いていた。
「……勇気さん」
萌香は、窓の外をじっと見張り続ける勇気の肩に、そっと毛布を掛けた。
「顔色、悪いわ。少しだけでも……眠ったら?」
勇気は視線を雪原に向けたまま、萌香の手を探し当て、静かに握りしめる。
「大丈夫だ。君の声が聞こえているだけで、目は冴える」
そして、少しだけ強く指を絡めた。
「それより……準備はできたか?
蓮を連れて、いつでも裏口から出られるように」
「……また、逃げるの?」
萌香の声が震える。
「私たち、ずっと……こうして逃げ続けるの?」
その問いに、勇気はようやく振り返った。
そこにあったのは、かつての冷徹な警視の顔ではない。
一人の女と子を、愛し抜こうとする男の、痛みを帯びた決意だった。
「違う」
静かに、しかしはっきりと。
「逃げるのは……今日で終わりだ」
勇気は懐から、小さなマイクロSDカードを取り出し、萌香の手のひらにそっと握らせる。
彼の体温が残るそれは、驚くほど重かった。
「これは……?」
「君の父親が、死の間際に俺へ託そうとしたものだ」
低い声で続ける。
「桐生建設を潰し、君の父を追い詰めた真犯人……
政界の黒幕たちの汚職データが、すべて入っている」
萌香の息が止まる。
勇気は両手で彼女の頬を包み、視線を逸らさせない。
「これがある限り、彼らは君たちを追い続ける。
だから……これを持って、明日の朝一番のバスで町へ行け」
「……勇気さんは?」
震える声。
「あなたは、どうするの……?」
勇気は答えず、ただ、穏やかに微笑んだ。
その優しさが、かえって萌香の胸を締めつける。
「佐倉には、もう連絡してある。
彼女なら……公安の規則を破ってでも、君と蓮を守る」
「じゃあ、あなたは……!」
「俺は」
勇気は、萌香の額にそっと額を寄せた。
「ここで、終止符を打つ」
萌香は首を振り、彼の胸に縋りつく。
「嫌よ……!
二年半も待って、やっと……やっと本物の家族になれたのに……!」
勇気は壊れ物を抱くように、萌香を強く、強く抱き寄せた。
何度も、その髪に唇を落とす。
「萌香……泣かないでくれ」
声が、わずかに震える。
「君を“便宜上の妻”だと言った、あの日から……
俺はずっと、君に謝りたかった」
彼女の耳元で、囁く。
「愛している。
この命を賭けても、足りないほどに」
その瞬間――
雪を踏みしめる、複数の足音が、闇の中から迫ってきた。
勇気の身体が、瞬時に硬直する。
彼は名残を断ち切るように、萌香をそっと離し、立ち上がった。
ホルスターから、銃を抜き放つ。
「パパ……?」
物音に目を覚ました蓮が、寝ぼけ眼で顔を出す。
勇気は一瞬で“父親の顔”に戻り、膝をついた。
「蓮」
優しく、真っ直ぐに。
「パパは、ちょっとだけ……悪い人たちとお話してくる」
小さな手を握る。
「ママのこと、守ってあげられるか?」
「……うん」
蓮はこくりと頷く。
「パパ、がんばって」
その言葉に、勇気は微笑んだ。
「ありがとう」
立ち上がり、最後に萌香を見つめる。
「萌香」
たった一言。
その中に、すべてを込めて。
「……俺たちの未来を、君に託す」
「勇気さん……!」
「行け。振り返るな」
玄関の扉が開き、冷たい雪が吹き込む。
「生きろ。
蓮と一緒に……幸せになれ」
扉が閉ざされる音が、胸を引き裂くように響いた。
暗闇と銀世界が溶け合う中――
一発の銃声が、夜の静寂を無惨に切り裂いた。