これはもはや事故です!
 一晩過ごしただけなのに、空気が柔らかく変わった気がした。

「……忘れ物、ないか?」

「だ、大丈夫です」

 そう答えながらも、美羽は一瞬、足元を見下ろす。
 マンションの3階、階段を降りなければならない。

(気合があれば……どうにか……)

 不安そうにうつむく美羽の様子を、磯崎は見逃さなかった。

「美羽さん」

「はい?」

 ほんの少しだけ、美羽との距離を詰めた磯崎は、まだ触れない位置で立ち止まる。

「無理しないで、頼っていいんだよ」

 そう言ってから、磯崎はゆっくりと手を差し出した。
 その言葉が、胸の奥に静かに染みていく。

 美羽は一瞬ためらってから、そっと磯崎の手に指先を乗せた。
 触れた瞬間、逃がさないように、けれど強すぎない力で、彼の手が包み込む。

 磯崎は一段下を見てから、低く言った。

「階段は、危ないから……抱いて行くよ」

「え……」

 返事を待つことはしなかった。
 けれど、急でも強引でもない。

 片腕が背中に回り、もう一方の腕が膝裏をすくい上げる。
 次の瞬間、美羽の身体はふわりと宙に浮いた。

「……っ」

 反射的に、磯崎の首にをまわしてしまう。

「大丈夫」

 すぐ近くで聞こえた声は、落ち着いていて、揺るがない。

「力、抜いて。落とさないから」

 そう言われて、ゆっくり息を吐く。
 腕の中は思っていたよりも安定していて、怖さはなかった。

(……あったかい)
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