これはもはや事故です!
 胸板の硬さ。
 腕の確かさ。
 そして、無言の配慮。

 磯崎は階段を一段ずつ、確実に降りていく。
 足音は静かで、身体が揺れることもほとんどない。

「……軽いな」

 ぽつりと零れた言葉に、美羽の心臓が跳ねる。
 
「美味しいもの、いっぱい食べさせないとな……」

 磯崎の優しさに、胸の奥がじんと熱くなる。

 階段を下りきると、朝の空気がひんやりと頬を撫でた。
 マンションを出て少し歩くと、角を曲がった先に小さなコインパーキングが見える。
 見慣れた無機質な機械音と、朝の静けさが混じり合う場所。
 磯崎はその場で立ち止まり、ゆっくりと美羽を地面に降ろす。

「気をつけて」

「……はい」

 そう答えながらも、美羽の胸には、さっきまで触れていた腕の感触が、まだ残っていた。

 磯崎の車の前で立ち止まると、彼は自然な動作で助手席のドアを開けた。

「段差、気をつけて」

 そう言ってから、そっと手を差し出す。

 美羽は一瞬だけためらい、でも今度は迷わなかった。
 差し出された手を、ぎゅっと握る。

 指先に伝わる温もりを、確かめるように。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 その声は、いつも通り穏やかだった。

 美羽がシートに腰を下ろすのを見届けてから、磯崎はドアを閉める。
 回り込んで運転席に乗り込み、エンジンをかけると、低い音が静かな朝に溶けた。

 車がゆっくりとパーキングを出ていく。

 窓の外で、さっきまでいた自分のマンションが遠ざかっていくのを見ながら、美羽はシートに深く身を預けた。

 磯崎のマンションへ向かう道は、昨日よりも、近く感じられた。



 
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