浦和探偵 ジン
第一話
「ジン」
 
 芝浦ふ頭の海は、夜になると鉄のように冷たく光っていた。その光は、過ぎた日々の残響を抱えたまま静かに広がり、寄せては返す波の奥で、ひとりの女の歩んできた道を淡く映していた。その女が、聖子だった。
 和歌山で育った家は、いつしか宗教の渦に呑み込まれていった。母は信仰に身を沈め、家の中の物音は、季節の気配とともに消えていった。恋愛の末に婿として入った父が、母の変化の理由を知ったのは、ずっと後になってからだ。娘を宗教の幹部に差し出す話が水面下で進んでいる――そんな噂を耳にしたのは、闇が深く沈む晩だった。蛍光灯が揺れる台所で、父は震える指で小さな封筒を聖子の手に押し込んだ。封筒は汗を吸い、紙はしっとりと柔らかくなっていた。
「逃げなさい。ここはもう駄目や。聖子、おまえだけは生きなあかん」
「……お父さんは」
「ええから。行け」
「一緒に来て」
「おまえが先や。お父さんは後から行く」
その声には、父が積み上げてきた時間がすべて込められていた。それが嘘だとは、その時の聖子には気づけなかった。家を抜けるための、最後の細い綱だった。弱いながらも、その光は確かに闇を裂いていた。
 そこからの日々は、逃げ道を探すより先に涙が枯れ、体の芯が空洞になるような時間だった。それでも芝浦の海風は頬に触れ、辿り着いた終着点の存在を知らせてくれた。住む場所も働き口もないまま、夜の縁を歩き続けていたある日、聖子は一軒のバーに拾われた。ママと呼ばれる女は、鋭い目の奥に、布団のような温もりを隠していた。
「あんた、どこから来たの」
「……和歌山です」
「一人?」
「……はい」
「そう。今夜は奥で休みな。明日のことは明日考えればいい」
聖子はその言葉に、声もなく泣いた。背の高い聖子は、どこか脆さをにじませるせいか、自然と客に好かれた。カウンターに立つと、故郷に残る癒えない記憶は一時ほどけ、ここなら息ができると感じた。
 近畿訛りが薄れてきた頃、ひとりの客が扉を開けた。芝浦の探偵を名乗る男――兄貴だった。軽い笑みの奥には、街の底に沈む痛みを嗅ぎ分けてきた者の勘があった。
「せいちゃん、タバコある?」
「セッターならあるわよ。男は黙ってセブンスターでしょ」
横からママが口を挟む。
「ママー、マイセンも置いてくれよ」
「贅沢言うなら自分で買いな」
聖子が小さく笑った。
「私のでよければどうぞ。帰りに買って帰りますから」
「せいちゃん、助かるよ」
「いえ、ほんのことです」
兄貴は煙草に火をつけながら言った。
「和歌山の子か」
「……よう分かりましたね」
「訛りが残ってる。いい訛りだ」
「そんなこと言うてもろたの、初めてです」
「本当のことだからな」
そんなやり取りが重なり、芝浦という街の温度が、少しずつ聖子の肌になじんでいった。兄貴は聖子を「せいちゃん」と呼び、聖子も自然にそう返した。
やがて、兄貴の声に疲れがにじみ始めた頃、ぽつりと頼みごとが落ちてきた。
「せいちゃん、今度ちょっと手伝ってほしいんだが」
「どうしたんです?」
「ワンちゃんがいなくなっちゃってさ」
「ワンちゃん探しですね。もちろん、お手伝いします」
「助かる。せいちゃん、足が速そうだもんな」
「……走るの、得意です」
「そうか。じゃあ頼んだぞ」
それが、聖子にとって最初の探偵助手の仕事だった。兄貴の事務所とバーを行き来する日々の中で痛みは、街のざわめきに紛れるように、いつの間にか輪郭を失っていた。
 年月が流れ、街には危険ドラッグの匂いが満ち、クラブの空気は重く濁っていった。政治家からの依頼で、娘がその渦に巻き込まれたという。兄貴は女でなければ踏み込めない場所があると判断し、ママの了承を得て聖子に声をかけた。
「せいちゃん、頼みがある」
「はい」
「断ってもいい」
「……聞いてから決めます」
兄貴はクラブの話を簡潔に説明した。聖子は黙って聞いた。
「怖いか」
「怖いです。でも、行きます」
「なんでだ」
「……断ったら、もっと後悔しそうで」
 クラブの入口からは、体の奥まで震わせる重低音が漏れていた。売人の視線を追っていたとき、娘を見つけた瞬間、胸が締めつけられた。その手首は軽く、触れれば折れそうだった。売人を追うか、娘を救うか。迷いはなかった。聖子は娘を抱えるように外へ出し、兄貴の腕がそれを受け止めた。
「よくやった」
「……娘さん、大丈夫ですか」
「生きてる。それで十分だ」
「……そうですね」
「お前、震えてるぞ」
「怖かったです。でも……これをやりたいと思いました」
「どういうことだ」
「沈む声を拾い上げる側に回りたい。逃げるためだけに歩いてきたけど、初めて自分から選んだ気がして」
兄貴はしばらく黙って煙草を吸った。それから火の残った煙草を灰皿で押しつぶした。
「この世界はな、女ってだけで敵が増える。続けるつもりなら名前を変えたほうがいい」
「名前をですか?」
「悪くない話だろ」
「……そうですね」
「相変わらず真面目だな。飛猿!」
「嫌です」
「聖、真、しん……あーもう面倒だ。俺のをやる。嫌じゃなきゃ」
「兄貴の名前を、私が」
「俺にはもう別の名があるからな。お前が使え」
「……使っていいんですか」
「お前に合うと思ってるよ」
軽い口調だったが、その瞳は澄んでいた。聖子の胸に、熱が走った。
「兄貴。お願いします。ほんまに、ありがとうございます」
「礼はいらん。その名で、ちゃんと生きろ」
兄貴が差し出したのは、彼自身の通り名。『ジン』だった。
 そして時は流れた。浦和の商店街のはずれ、元スナックだった小さな建物の入口に、古びた看板がぶら下がっている。浦和探偵事務所、SAKURAI JIN。夜風に揺れるその看板の下で、桜井ジンは今日も街を歩く。宵のどこかで、救いを待つ声のほうへ。
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