浦和探偵 ジン
第二話
「パートタイマー」
 
 商店街に来てもう何年も過ぎると、みんなが親兄弟みたいな顔になる。いま事務所にいる自治会長のあつろうおっさんも、そういう一人なんだろう。
「あのねえ、最近ねえ。会長を引き継いでくれる人を探してるんだけどさあ。ジンちゃん、なってくんないかしらねぇ」
「あつーの言うことはよくわかるよ。でも、それは俺にはできないな」
「うちの商店街もさあ、当番制にすりゃよかったんだけどねえ」
「会議で集まったとき、言ってみな」
「それがさあ、誰も変わってくれないんだわ、これが」
たんまり話を聞いてやって、会長をなだめて帰した。会長が去ったあとの事務所は、急に静かになる。俺は椅子に体を沈めながら、親友と呼べるやつを一人一人思い出していた。
 ナオナと最初に会ったのは、俺が潜伏していた時だった。あの頃の俺は、大学の構内に紛れ込んでいた。学生でも職員でもない。誰に見られても、研究室の助手か業者の一人にしか見えない位置を選んで歩いていた。姿を消すより、いないように見えるほうが性に合っている。ナオナは、その大学で開かれていた学会に、自分の勉強のために来ていた。堅い資料を抱え、時間ぴったりに席に着く。隣同士になったのが、知り合ったきっかけだった。最初に交わした言葉は、どうでもいい世間話だったと思う。だが、妙に馬が合った。気づけば互いに余計なことを話すようになり、いつの間にか親友と呼べる距離にいた。
 不意に鳴った携帯の向こう側で、ナオナの声は砂を噛んだように渇いていた。
「もしもし、ナオナです」
「お疲れ。どうした」
「ジンさん、都内に来ることって、あります?」
「用はないけど、出るよ」
「わざわざ来ていただくのは、申し訳ないので」
「いいって。迎えに行く」
 仕事終わりのナオナを拾って、恵比寿で飯を食うことになった。探偵という仕事に興味津々らしく、話せる範囲だけ、いつ会ってもあれこれ聞かれた。その流れで、内々の話だが、ナオナが珍しく仕事の愚痴をこぼした。政策が数字で並ぶ表を前に、トップが指で一本の線をなぞる。「ここまでにしてちょうだい」それで終わりだ。そこまで効果が出たことにしろ、という暗黙の命令。ナオナはそれを汲み取り、形にして提出する。そんな役回りだった。上級職の試験を通り、周囲からはエリートと呼ばれていたらしい。だが彼女は言った。改ざんされた数字ばかりでは、成功に見える政策も、現場では何も変わらない。その違和感が、日に日に積もっていったのだ。
「改ざんされた数字ばかりでは、現場では何も変わらない。……そう思いませんか?」
「そう分かってて、続けてたのか」
「……分かってたから、やめました」
「さっぱりしてるな」
「さっぱりもしてないですよ。ただ、私の計算式には『嘘』という変数は入っていなかった。限界だっただけです」
ナオナは、ある日あっさりと仕事を辞めた。もちろん、秘密保持の念書は書かされた。辞めただけなら、まだよかった。優秀すぎるがゆえ、機密を漏らすんじゃないか。やっかんだ上司から、そんな疑いをかけられ、監視がついた。遊山で泊まったビジネスホテルに、掃除屋が来た。手際のいい連中だった。事故に見せる段取りも、ほぼ整っていた。そのとき、弦太から連絡が入った。俺は空気の異変に、すでに網を張っていた。逃げ場が一つでも残るように。
 「ナオナ! 廊下で誰でもいいから女の人つかまえて、部屋に入れてもらえ。今すぐだ!」
「え? 何を急に」
「いいから動け。今すぐだ!」
俺はホテルに駆けつけ、彼女を強引に連れ出した。変装させて、夜の街へ消した。彼女を匿ってくれた見ず知らずの女性には少しの金を渡し、元カレがしつこいからかくまってくれてありがとう、と礼を言った。そのまま車を北へ走らせた。
 助けたあと、ナオナは妙に落ち着いていた。泣きもしなければ、訴える素振りも見せなかった。
「怖くなかったのか。殺されかけたんだぞ」
「怖かったですよ。でも逃げてる間に考えてたんです。パニックになるのは効率が悪いので」
「何を考えてた」
「どうすれば、一番生存確率が高くなるか」
「……それで出た結論は?」
「追っ手が飽きるまで、遊んでいるだけの振りをして何もしない。そのほうが、裏で動くより生存率が高い、と」
「ほう。頭が回るな」
「名付けて『アホアホ作戦』です」
「……ネーミングがひどいな。台無しだ」
「でも、一番本質が伝わるでしょう?」
プロも、俺がそばにいるから下手には手を出せない。失敗すれば、いろいろと表に出てしまうからだ。命がけのバカ騒ぎだった。
 そこから半月、山形の旅館を転々とした。昼は温泉、夜は地酒。歌舞く旅行と言えば聞こえはいいが、要は逃げ回っていただけだ。
「ジンさん、私、小説家になろうかな」
ナオナがメガネの縁をなぞりながら言った。
「やめとけ」
「なんでですか。才能あると思いません?」
「頭が堅すぎるから小説もカッチカチだよ。読んだら歯が折れそうだ」
「温泉につかりながら執筆活動。いいと思いますが。じゃあ明日、お釜を見に行きません?」
「ああ、いいよ。蔵王だな」
「話の切り替えが早いですね」
「小説の話より、お釜のほうがまだ現実的だ」
 酒田では海を眺めながら花火をした。ナオナは、よく食べ、よく寝た。湯に浸かり、何も考えない時間を、体が思い出していくのが分かった。失った何かを、静かに充電しているように見えた。
――俺にも、逃がしてくれた人間がいたな。
追手は、次第に薄れていった。来られなかったのか、来る価値がなくなったのか。その違いは、俺にとってはどうでもよかった。
「ジンさん。本当に、ありがとうございました」
さくらんぼの種を吐き出しながら、彼女が不意に言った。
「なんだよ、急に。まだ実を食ってる途中だぞ」
「帰りましょう」
「もう、いいのか」
「はい」
「早いな」
「これ以上長居したら、ジンさんが本当に小説家になりそうで怖いです。お釜でずっとメモを取ってましたよね?」
「あれは景色のデッサンだ。俺はならねぇよ」
「今のが一番、報告書みたいでしたよ」
「うるさい、帰るぞ」
 さくらんぼを山ほど買って埼玉に戻った頃には、ナオナの表情は少し柔らいでいた。
行き場がないなら、うちに来ればいい。俺がそう言うと、ナオナは翌朝、事務所のドアを開けるなり無言で掃除を始めた。
「……何してる」
「掃除です。見れば分かるでしょう。ホコリの堆積量が法定基準を超えています」
「法定基準があるのか」
「比喩です」
「勝手に始めるな。客が来たらどうする」
「もう半分終わりました。それに、客なんて当分来ません」
「……あぁそうかいっ」
俺は電話をかけた。
「たーくん? ちょっと走りすぎちゃったよ。よろしくな」
しばらくして、ナオナが汗を拭いながら顔を上げた。
「オイル交換ですか」
「悪い血を入れ替えねえとな」
「月曜から金曜、定時四時間。時給一〇〇〇円でどうですか?」
「なに突然。俺がどっかでバイトしなきゃいけねぇじゃん」
「本業で稼いでください。探偵さん。私が事務をすれば、営業効率は三割上がります」
「三割、根拠は」
「現状比です。現状が低すぎますので」
「……ったく。内職の広告、捨てなきゃよかったよ」
「さっきゴミ箱にありましたよ。捨ててありましたけど」
「捨てた。……いや、保管してたんだ」
「それを『捨てた』と言うんですよ。日本語は正確に」
「……好きにしろ」
ナオナは呆れたような顔をして、また掃除に戻った。こうして浦和探偵事務所に、月曜から金曜、定時四時間の「パート事務員」が誕生した。
 次の日、ナオナは、ジンに促されるまま弦太に向かい、少し照れくさそうに微笑みながら、感謝の気持ちを込めてさくらんぼを手渡した。「ありがとうございます」と、小さな声で付け加えて。
 俺は煙草に火をつけた。すかさず、シュボッという音にかぶせるように、ナオナが窓を全開にする。
「外で吸ってください」
「自分の事務所だぞ」
「ジンさんも年貢の納め時です。私がいる時間は禁煙。契約書に追記しておきますね」
「四時間もか?」
「四時間です。不服ですか? ですよね! 弦太さん」
「はははなん」
「……世の中は、波乱万丈だな」
「何の話ですか」
「独り言だ」
「いいっすねん」
「はい、はい。掃除の続きがありますよ」
「俺の独り言にまで、突っ込むな」
本人は事務員のつもりだろう。だが町は、案外こういう人間に助けられて回っていく。少なくとも、ナオナは今、俺の目の前で生きている。新しい珈琲の香りが、すすけた事務所にゆっくりと満ち始め、静かに日常が戻ってきたことを告げていた。
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