浦和探偵 ジン
『血より濃い、朱』上巻
沈黙の檻と、レディ
人は、怪我をすると静かになる。正確には、静かにならざるを得なくなる。骨が折れるというのは、音のする出来事だ。しかし、そのあとの時間は妙に無音が続く。身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入院していたのは、古いが掃除の行き届いた総合病院だった。廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。怪我人と病人、そしてそのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。俺は相談を受けた女をかばって、派手に転んだだけだった。トチった訳ではない。負けた訳でもない。それだけのことだ。
りょうと出会ったのは、その病棟だった。最初に気づいたのは、声だった。よく通るが、張り上げる声ではない。誰かに甘えるための声でも、自分を誇示するための声でもない。用件を済ませるための、短くて迷いのない声。看護師と必要最低限の言葉を交わし、書類を受け取り、頷く。動きに無駄はなく、感情を挟まない手つきだった。その隣には、りょうの母親がいた。同室だった。共通点は「骨折している」という一点だけ。母親は自宅の階段、俺は他人事に首を突っ込んだ結果だ。しかし、病室ではそんな違いに意味はない。どちらも「回復する予定の人間」という括りで、ベッドに並ぶ。りょうは毎日来ていた。見舞いというより、それは業務に近かった。洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものを正確にメモする。感情を挟まないその様子は、強い人間だと誰もが思うだろう。俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前だった。
「毎日来てるな。大変だな」
「ええ」
「何か、困ってることはないか」
「今のところは」
「そうか」
それだけだった。余計な説明はない。だが、翌日もその次の日も、顔を合わせるうちに挨拶が増え、言葉が一つ、二つと増えていった。俺が缶コーヒーを選ぶのを見て、りょうは言った。
「毎日それですね」
「うまいんだよ」
「病院のコーヒーが?」
「病院だからうまいのかもしれない」
「……どういう理屈ですか」
「非日常だからだ。同じもんでも、場所が変わると味が変わる」
りょうはそれを聞き、少し考えてから水のボタンを押した。
俺が先に退院した。しばらくして、りょうが事務所に来た。病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
「名刺を渡した覚えはないが」
「廊下で、話しているのが聞こえました」
「盗み聞きかい」
「廊下だったので」
「……まあ、いい。座りな。珈琲でいいか」
「はい、ありがとう」
彼女は理由を多く語らなかった。ただ、話がしたいと言った。最初の相談は曖昧だった。恋人の話。優しい人だという。感じがよく、嘘をつかない。怒鳴らない。しかし、決まった話題になると、彼は消える。一緒になる約束、親、将来。「強いから、大丈夫だと思って」。彼はそう言うらしい。
「その言葉、どう受け取った」
「……ありがたいと思いました」
「ありがたい、か。だが、何かが引っかかってる」
「…………」
「だから来たんだろ」
りょうはその言葉を否定しなかった。否定しない代わりに、全部を受け取ってしまう。それが、彼女の癖だった。スマイルくん、か。頭の中で、その名前だけが残った。
それから、りょうは何度も来た。週に一度、あるいは三日続けて。話す内容はいつも、彼の不在、我慢、そして沈黙。「考えすぎ」と彼に言われたこと。ある日、りょうが来た時、俺は読み聞かせの最中だった。
「ちょっと待ってな、いま終わるから」
「あら、読み聞かせ?」
「よし、おまえら今日はこれまでだ」
「えーーーーー!!!」
「わたあめあげるからな、かえれっ」
「わーーーーー!!!」
「ばいばい」
嵐が去っていった。
「ごめん、ごめん、また同じことを言われたのか」
「はい」
「お前は考えすぎだと思うか」
「……分からないです」
「考えすぎと言われた人間は、大体そう答える」
俺は正解を言わない。探偵は答えを出す仕事じゃない。見失わないようにする仕事だ。
やがて、りょうの母親が退院し、数ヶ月後に再入院した。今度は骨ではなかった。進行は早く、あっという間だった。葬儀の日、スマイルは来なかった。連絡もなかった。その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考え、間を置いて言った。
「なあ。身内の不幸に来られねぇやつってのは、どうなんだ」
「……仕事が、あったようで」
「連絡は」
「後で来ました」
「後で、か。後でな」
責める口調ではない。確認だ。りょうは答えず、視線を落とした。四十九日まで、彼は現れなかった。
ある日、俺は彼女に言った。
「楽だったろ。決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな。でもな、誰かの都合で生きるってのは、考えなくていい代わりに、自分の人生を預けるってことだ。それでもいいなら、続けりゃいい。ただ、それはもう、あんたの人生じゃねぇ」
沈黙が落ちた。りょうは泣かなかった。強いからじゃない。彼女は、考え始めていた。俺はくわえていた煙草に火をつけ、窓を開けた。外は、静かだった。
人は、怪我をすると静かになる。正確には、静かにならざるを得なくなる。骨が折れるというのは、音のする出来事だ。しかし、そのあとの時間は妙に無音が続く。身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入院していたのは、古いが掃除の行き届いた総合病院だった。廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。怪我人と病人、そしてそのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。俺は相談を受けた女をかばって、派手に転んだだけだった。トチった訳ではない。負けた訳でもない。それだけのことだ。
りょうと出会ったのは、その病棟だった。最初に気づいたのは、声だった。よく通るが、張り上げる声ではない。誰かに甘えるための声でも、自分を誇示するための声でもない。用件を済ませるための、短くて迷いのない声。看護師と必要最低限の言葉を交わし、書類を受け取り、頷く。動きに無駄はなく、感情を挟まない手つきだった。その隣には、りょうの母親がいた。同室だった。共通点は「骨折している」という一点だけ。母親は自宅の階段、俺は他人事に首を突っ込んだ結果だ。しかし、病室ではそんな違いに意味はない。どちらも「回復する予定の人間」という括りで、ベッドに並ぶ。りょうは毎日来ていた。見舞いというより、それは業務に近かった。洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものを正確にメモする。感情を挟まないその様子は、強い人間だと誰もが思うだろう。俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前だった。
「毎日来てるな。大変だな」
「ええ」
「何か、困ってることはないか」
「今のところは」
「そうか」
それだけだった。余計な説明はない。だが、翌日もその次の日も、顔を合わせるうちに挨拶が増え、言葉が一つ、二つと増えていった。俺が缶コーヒーを選ぶのを見て、りょうは言った。
「毎日それですね」
「うまいんだよ」
「病院のコーヒーが?」
「病院だからうまいのかもしれない」
「……どういう理屈ですか」
「非日常だからだ。同じもんでも、場所が変わると味が変わる」
りょうはそれを聞き、少し考えてから水のボタンを押した。
俺が先に退院した。しばらくして、りょうが事務所に来た。病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
「名刺を渡した覚えはないが」
「廊下で、話しているのが聞こえました」
「盗み聞きかい」
「廊下だったので」
「……まあ、いい。座りな。珈琲でいいか」
「はい、ありがとう」
彼女は理由を多く語らなかった。ただ、話がしたいと言った。最初の相談は曖昧だった。恋人の話。優しい人だという。感じがよく、嘘をつかない。怒鳴らない。しかし、決まった話題になると、彼は消える。一緒になる約束、親、将来。「強いから、大丈夫だと思って」。彼はそう言うらしい。
「その言葉、どう受け取った」
「……ありがたいと思いました」
「ありがたい、か。だが、何かが引っかかってる」
「…………」
「だから来たんだろ」
りょうはその言葉を否定しなかった。否定しない代わりに、全部を受け取ってしまう。それが、彼女の癖だった。スマイルくん、か。頭の中で、その名前だけが残った。
それから、りょうは何度も来た。週に一度、あるいは三日続けて。話す内容はいつも、彼の不在、我慢、そして沈黙。「考えすぎ」と彼に言われたこと。ある日、りょうが来た時、俺は読み聞かせの最中だった。
「ちょっと待ってな、いま終わるから」
「あら、読み聞かせ?」
「よし、おまえら今日はこれまでだ」
「えーーーーー!!!」
「わたあめあげるからな、かえれっ」
「わーーーーー!!!」
「ばいばい」
嵐が去っていった。
「ごめん、ごめん、また同じことを言われたのか」
「はい」
「お前は考えすぎだと思うか」
「……分からないです」
「考えすぎと言われた人間は、大体そう答える」
俺は正解を言わない。探偵は答えを出す仕事じゃない。見失わないようにする仕事だ。
やがて、りょうの母親が退院し、数ヶ月後に再入院した。今度は骨ではなかった。進行は早く、あっという間だった。葬儀の日、スマイルは来なかった。連絡もなかった。その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考え、間を置いて言った。
「なあ。身内の不幸に来られねぇやつってのは、どうなんだ」
「……仕事が、あったようで」
「連絡は」
「後で来ました」
「後で、か。後でな」
責める口調ではない。確認だ。りょうは答えず、視線を落とした。四十九日まで、彼は現れなかった。
ある日、俺は彼女に言った。
「楽だったろ。決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな。でもな、誰かの都合で生きるってのは、考えなくていい代わりに、自分の人生を預けるってことだ。それでもいいなら、続けりゃいい。ただ、それはもう、あんたの人生じゃねぇ」
沈黙が落ちた。りょうは泣かなかった。強いからじゃない。彼女は、考え始めていた。俺はくわえていた煙草に火をつけ、窓を開けた。外は、静かだった。