神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

第十六章:偽装結婚という名の「終身契約」

共同生活が始まって数日。
だが、状況は好転するどころか、確実に悪化していた。

執念深く「清掃員」として潜り込む勝利。
そして、隙あらば拓真に抱きつき、無邪気に優里の心をかき乱す美優。

拓真の精神は、嫉妬と焦燥にすり減り、限界寸前だった。

「……優里。少し、座ってくれ」

ある夜。
美優が隣室で眠りにつき、ようやく訪れた二人きりの時間。
拓真は深く息を吸い、まるで人生最大の契約に臨むような顔で、一枚の書類をテーブルに置いた。

「……何ですか、それ」

優里の声は冷えている。
その距離感に胸を痛めながら、拓真は“上司の仮面”を被った。

「今後の生活についての、根本的な解決策だ」

「……また新しい契約書ですか?」

自嘲気味な優里の言葉に、拓真は一瞬だけ視線を逸らし、それから決意したように言った。

「俺と――偽装結婚しろ」

「…………はい?」

優里は驚き、手にしていたマグカップを落としそうになる。

「ぎ、偽装……結婚……?
 課長、冗談ですよね?」

「冗談で、こんな書類は用意しない」

拓真は低く、しかし震えを抑えた声で続ける。

「いいか。西園寺の執着は異常だ。
 あの男からお前を守るには、法的にも、社会的にも“俺の妻”になるのが一番早い」

優里は息を呑む。

「それに……片桐グループの次期総帥としての俺の立場も、盤石になる。
 これは、お互いにとって合理的な――戦略的提携だ」

(――お願いだ、優里。
 偽装でいい。形だけでいい。
 俺の隣にいてくれ。奪われるくらいなら、嘘でもいいから……)

だが、優里の胸に落ちた言葉は、全く別の形をしていた。

(……そういうことか)
(美優と結婚したい。でも、名門の跡取りが庶民の娘と結婚するのは都合が悪い)
(だから……私を“ダミーの妻”にするんだ)

優里は、小さく息を吐き、苦笑する。

「……なるほど」

拓真が顔を上げる。

「美優との愛を守るための、隠れ蓑が必要なんですね」

「……は?」

「大丈夫です」

優里は、ゆっくりと頷いた。

「お受けします。
 私みたいな人間でも、お二人の幸せの役に立てるなら」

拓真の胸が、鈍く痛んだ。

「……どうせ、私には“本当の幸せ”なんて、来ませんから」

その瞳に浮かぶのは、諦めと自己否定。
拓真は思わず、拳を握り締める。

「……その代わり、条件があります」

優里は淡々と言った。

「偽装結婚なんですから、私には一切触れないこと。
 それと……美優を、絶対に悲しませないこと」

「……それでいいのか」

「はい。約束してください」

「……ああ」

拓真は、苦しそうに頷いた。

「触れない。誓う」

(――嘘だ。
 触れたい。抱きしめたい。
 でも、そう言えばお前は壊れてしまう。
 だから、俺は耐える)

震える手で万年筆を取り、婚姻届の“夫”の欄に署名する。

それは、愛する人を守るために課した、
**「一生、自分から触れられない」**という地獄の制約だった。

「……これで、お前は俺の妻だ」

拓真は、できるだけ優しい声で言う。

「今日から、主寝室を使え」

「いいえ」

優里は首を振った。

「ダミーの妻ですから。私は、ソファで十分です」

「……駄目だ」

拓真の声が、思わず強くなる。

「……主寝室を使え」

(お前には、一番いい場所で眠ってほしいんだ……!)

その必死さに、優里は肩を震わせた。

「……わかりました」

小さな返事。

こうして、
戸籍上は夫婦。
心は最悪にすれ違ったままの、新婚生活が始まった。

拓真の
「触れたいのに、触れられない」苦悩の日々。

優里の
「私は妹の身代わり」という、悲劇のヒロイン意識。

同じ屋根の下にいながら、
二人の距離は、宇宙の果てよりも遠ざかっていく。
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