ひまわり
 リビングから、高校野球の歓声が聞こえる。今年も、北国だとは思えないほどに暑い。日曜日で特に予定もない。部屋でごろごろしていたものの、喉が渇いて台所へと向かった。

 開け放したままのドアから中を覗くと、そこには両親がぼんやりと座っている。ふと父親が「あいつはまだ結婚する気にならないのか」と呟いた。ドアの向こうにいる私に気づいていないらしい。すると母親が「あのとき反対したから……」と答えた。とても黙って聞いていられない。私は足音を立てないよう静かに立ち去り、そのまま玄関から外に出た。

 「結婚したい人がいる」と恋人を紹介したのは、三十年前の、ちょうど高校野球の時期になる。同級生と十七歳から二十五歳まで穏やかに付き合い、結婚の話も出ていた。その結婚におそろしいほど反対したのが、父だった。

「理由はないが、認めたくない」

 当時、父はそう言った。何度聞いても答えは同じ。

 たとえばドラマや映画のように、「実は彼と血がつながっている」とか「彼の素行が悪い」といった理由があるなら納得もしただろう。しかし、そういった明確な理由はなく、単に気に食わないという理由で父親は猛反対した。平凡だけれど穏やかで優しい彼に対して、どうしてそこまで反対できるのか、今も不思議に思う。

 もちろん私も、素直に受け入れたわけではない。若かったし、父の反対など気にせず彼と付き合い続けた。きっと、反対されたからこそ気持ちが盛り上がった部分もあるだろう。最初は父も「一人娘を嫁に出したくない」くらいの気持ちだったのかもしれない。しかし、父は態度を硬化させ、私が出かけようとするたび、激しく暴力を振るうようになった。何度病院のお世話になっただろう。やがて、痣だらけの姿を、彼に見られたくないと思うようになった。

 駆け落ちでもすればよかったのかもしれない。しかし、家の電話線を抜かれてしまい、電話もできなかった。今のように携帯電話があれば状況は違っただろう。しかし、連絡手段もなく家から出られないのでは、打ち合わせもできない。二年後、父からの暴力に疲れ果て、人を介して別れを告げた。

 彼と別れるにあたって、「生涯誰とも結婚はしない」と決めて今に至る。すると腹立たしいことに、父は「誰とでもいいから結婚しろ」と言うようになった。「誰でもいいなら、なぜ彼では駄目だったのか」と聞いても、納得のいく返事はない。都合が悪くなると、父はすぐ拳を振り上げる。まだDVという言葉すら一般的ではない時代の話だ。せめて家を出るべきだったに違いない。しかし、軟禁されている期間中に仕事を辞めざるを得なくなり、お金もなかった。いや、正直なところ、そんな発想もなかったように思う。痛みと暴言に心が擦り減って、何も思いつかなかった。

 そんな私も、もう五十五になる。

 彼以外と結婚するつもりはない、と両親には話してある。今となっては子どもも望めないだろうが、それでも両親は私に結婚を望んでいるらしい。結婚の話題になるたび、最後は父の拳と暴言が飛ぶ。見合い話を断り続けたせいか、親戚は私に対して、「頑固」「わがまま」と陰口を叩いているらしい。ときどき、直接「結婚もせず親不孝」だと言われることもある。しかし、何の理由もなく壮絶に反対した父親こそがわがままなのではないだろうか。そんな父に従う母の考えも、私には理解できない。あのころ、母には「いつか家庭を持って子どもが生まれたらお父さんの気持ちがわかる」と言われた。果たして、本当だろうか。どれだけ懇願しても父は私たちの恋を許さなかった。未だに、その気持ちはわからない。あの二年で、きっと一生分泣いた。もう涙も出ない。父母に対する情もなく、ただ生きている。

 認めたくはないけれど、きっと私たちには縁がなかったのだろう。そう思わなければ、苦しくなる。結婚の話題が出るまでは、本当に穏やかで幸せな日々だった。世間では、結婚は本人たちの意思が尊重されるらしい。ただ、私にとっては違う。私なりに抗ったつもりだけれど、不器用な私には、うまくできなかった。数年前に聞いた話によると、彼も未だ独身らしい。

 三十年前は部屋に閉じ込められていたが、さすがに今は自由に外出できる。あてもなく散歩をしているうちに、いつのまにか彼の家の前に来ていた。二十分ほど歩いていたらしい。庭先には、眩しいほどに黄色くて大きなひまわり。彼は、私が笑うと、ときどき「ひまわりのようだな」と言っていた。あまり口数の多い人ではなかったが、彼なりの褒め言葉だったのだろう。

 チャイムを押したら、彼と話ができるだろうか。しかし今さら何を話せるというのだろう。気持ちを貫けなかった私には、許されない気がした。今も彼が好きなのかと聞かれたら、正直なところわからない。未婚だとして、彼だって長い年月のあいだには心変わりもするだろう。彼以外と結婚しないと決めたのは、ほかの人を好きになれる気がしなかったからだ。そして、自分を守るための意地でもある。ほかの誰かと結婚して父親を満足させ、「そんな出来事もあった」などと振り返りたくない。

 しばらく庭先のひまわりを眺めてから、私はその場を離れた。この季節は、当時を思い出すので少し苦しい。うだるような暑さのなかで、夏の終わりを待っている。
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