——拝啓『明日の君』へ
第一話
病院の自動ドアが開くたび、匠は無意識に顔を上げていた。
白い廊下、消毒液の匂い、遠くで鳴るナースコール。
何度も通った場所なのに、慣れることはなかった。
「……遅い」
腕時計を見る。
約束の時間より、まだ五分も早い。
それでも落ち着かなくて、匠は椅子から立ち上がった。
ほどなくして、車椅子の音が近づいてくる。
「タクくん、そんなにそわそわすると怪しいよ?」
要だった。
薄いカーディガンを羽織って、いつも通りの、少し悪戯っぽい笑顔。
安堵のため息をバレないようにして、少し目を吊る。
「誰のせいだと思ってるんだ」
「えー、私? 私は今日も元気ですけどー?」
そう言って、要は胸を張る。
でも匠は見逃さなかった。
歩く速度が、ほんの少し遅いこと。
頬の色が、昨日より淡いこと。
「…無理するなよ」
「はいはい、もー…タクくんは私の執事ですかー?」
軽口を叩きながらも、要は匠の隣に来ると、自然に腕を絡めた。
それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――この距離が、当たり前でなくなる日が来るなんて。
匠は、まだ考えたくなかった。
「ねえ、タクくん」
「なに」
「“明日”ってさ、何してる予定?」
唐突な質問だった。
「……学校。あと、バイト」
「ふーん。ちゃんと生きてるね」
「当たり前だろ」
要はくすっと笑った。
その笑い方が、なぜか少しだけ遠く感じる。
「じゃあさ、明日の次は?」
「次?」
「明後日。その次。そのまた次」
匠は答えに詰まった。
未来を数えるなんて、したことがなかった。
「考えてない。けど、明日と同じじゃない?」
「そっか」
要は残念そうでも、安心したようでもない、不思議な表情で頷いた。
「ね、ゲームしよ」
「……また?」
「今回は長期戦」
要は指を一本立てる。
「ルールはね、笑顔でいること」
「それゲームか?」
「うん。私が審判ね」
匠はため息をついた。
「どうせ俺はすぐ負ける」
「そこが楽しいんじゃん。
タクくん、負けず嫌いだもん」
そう言われて、否定できなかった。
要は、匠のことをよく知りすぎている。
窓の外では、雲がゆっくり流れていた。
今日も、何事もない一日。
そう信じたかった。
けれど、要はふと、遠くを見るような目をした。
「あ。ねえ、もしさ」
「ん?」
「もし、違う線に行っちゃったら……ちゃんと戻ってきてね」
「……は?」
意味がわからず、匠が聞き返したときには、
要はもう、いつもの笑顔に戻っていた。
「冗談!ゲームの演出だよ!タクくん、真面目すぎ」
そう言って、彼女は匠の袖を引く。
「今日はさ、猫見に行こ。売店の前にいるやつ。
あそこ車椅子で行けるから、ほんと助かる〜」
「……体調は?」
「大丈夫。たぶん」
“たぶん”。
その曖昧な言葉が、胸に引っかかったまま、
匠は要と並んで歩き出した。
まだ、このときの彼は知らない。
この「いつも通りの今日」が、
もう二度と同じ形では戻らないことを。
白い廊下、消毒液の匂い、遠くで鳴るナースコール。
何度も通った場所なのに、慣れることはなかった。
「……遅い」
腕時計を見る。
約束の時間より、まだ五分も早い。
それでも落ち着かなくて、匠は椅子から立ち上がった。
ほどなくして、車椅子の音が近づいてくる。
「タクくん、そんなにそわそわすると怪しいよ?」
要だった。
薄いカーディガンを羽織って、いつも通りの、少し悪戯っぽい笑顔。
安堵のため息をバレないようにして、少し目を吊る。
「誰のせいだと思ってるんだ」
「えー、私? 私は今日も元気ですけどー?」
そう言って、要は胸を張る。
でも匠は見逃さなかった。
歩く速度が、ほんの少し遅いこと。
頬の色が、昨日より淡いこと。
「…無理するなよ」
「はいはい、もー…タクくんは私の執事ですかー?」
軽口を叩きながらも、要は匠の隣に来ると、自然に腕を絡めた。
それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――この距離が、当たり前でなくなる日が来るなんて。
匠は、まだ考えたくなかった。
「ねえ、タクくん」
「なに」
「“明日”ってさ、何してる予定?」
唐突な質問だった。
「……学校。あと、バイト」
「ふーん。ちゃんと生きてるね」
「当たり前だろ」
要はくすっと笑った。
その笑い方が、なぜか少しだけ遠く感じる。
「じゃあさ、明日の次は?」
「次?」
「明後日。その次。そのまた次」
匠は答えに詰まった。
未来を数えるなんて、したことがなかった。
「考えてない。けど、明日と同じじゃない?」
「そっか」
要は残念そうでも、安心したようでもない、不思議な表情で頷いた。
「ね、ゲームしよ」
「……また?」
「今回は長期戦」
要は指を一本立てる。
「ルールはね、笑顔でいること」
「それゲームか?」
「うん。私が審判ね」
匠はため息をついた。
「どうせ俺はすぐ負ける」
「そこが楽しいんじゃん。
タクくん、負けず嫌いだもん」
そう言われて、否定できなかった。
要は、匠のことをよく知りすぎている。
窓の外では、雲がゆっくり流れていた。
今日も、何事もない一日。
そう信じたかった。
けれど、要はふと、遠くを見るような目をした。
「あ。ねえ、もしさ」
「ん?」
「もし、違う線に行っちゃったら……ちゃんと戻ってきてね」
「……は?」
意味がわからず、匠が聞き返したときには、
要はもう、いつもの笑顔に戻っていた。
「冗談!ゲームの演出だよ!タクくん、真面目すぎ」
そう言って、彼女は匠の袖を引く。
「今日はさ、猫見に行こ。売店の前にいるやつ。
あそこ車椅子で行けるから、ほんと助かる〜」
「……体調は?」
「大丈夫。たぶん」
“たぶん”。
その曖昧な言葉が、胸に引っかかったまま、
匠は要と並んで歩き出した。
まだ、このときの彼は知らない。
この「いつも通りの今日」が、
もう二度と同じ形では戻らないことを。
