海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
4.5章 〜The other side of the story〜

海棠の花が咲く頃

海棠がまだ有昧の軍営で、蹴鞠に勤しんでいる頃―⋯。

相柳の墓場を離れた浮游の姿は、南西に位置する山、女几山(じょきしざん)の元にあった。
全ての域を知り尽くしているとはいえ、広大な大地、400以上の山、300以上の⋯川。実際に訪れたことがあるのは⋯そのたったの一部だった。

異変などの報告があれば、すぐに足を運び⋯状況を確認するのだが、この山の麓にはこれと言って事件が起きるほどの特別なものがある訳ではない。
多くの資源を有する山だが、ひっそりとした⋯静かなる山だった。

ここに来たのには、深い訳があった。


浮游は周囲を見渡し⋯その光景を、目に焼き付ける。

「⋯⋯⋯」
()后の天下が創始して以来、この女几山(じょきしざん)に足を踏み入れたことはなかった。

()の山々には、実に奇妙な動植物が存在していて。それは⋯天妖界であれば当たり前過ぎるくらいで、気にも留めなかった。
裏を返せば⋯季節を彩る、ごくごく普通の花々が、当たり前に咲いている訳ではない。

多種多様な、それら生態を把握するのは⋯、困難ではあるが。
浮游は1度見たものは、基本忘れない。

だから⋯、来たのだ。
天妖界(こっちのせかい)で、唯一⋯それを見た場所であったから。


彼は掌をスッと横に滑らせるように⋯木々へと翳して、神力を与えていく。
彼本来の【陸吾】として与えられた、時節を司る力は⋯決して失ってはいない。

罪を背負い、天帝や禹后の手によって消されたのは⋯、一部の感情と、己の身分。
そして、1つの命。

けれどこの力は、妖族として生きるには⋯過分であった。息を潜ませねば⋯、いつか浮游も、反意がある勢力だと⋯討伐される対象になり得るのだ。
能力は変わらぬまま―⋯天族から追放されたという事実があるのみ。神獣、陸吾であることに、その性質に、変わりはない。

浮游の名は―⋯反逆者(奸臣(かんしん)※高い地位に就きながら、主君や組織を裏で崩壊させる悪臣)として知られていった。
だから―⋯本来なら捨てなければならず、捨てたい名。けれど、最も幸せだった頃の名前。捨てられない名前が【浮游】ならば、放棄したくてもできない、名前とその役割が―⋯【陸吾】だ。

本人も、福も、わかっていて―⋯敢えて【有昧后】【福】と名乗り妖族だと自称する。己は陸吾であると周囲にそう信じ込ませ、脅威を抱かせないようにしているのだった。
浮游の、禹后に対する忠義は本物だ。


彼の神力を浴びた女几山の木々に成っていた赤い実が、時間を遡るようにして⋯1つ、また1つと⋯花を咲かせていく。
浮游は、それらをじっと見つめていた。

この山中に多く生息しているのは⋯杏や樫、梅。そして⋯海棠。

この山の、そう―⋯。この一面だけで見れる⋯【花海棠】。

それは⋯ずっと昔。
ずっとずっと昔、何十年も、いや、百年以上くらい、前なのかもしてないが⋯この場所で観たことがあった。



浮游が目を閉じて。そして⋯拳を開くと、氷漬けされたあの【海棠】がふわりと彼の目の前に浮かんで現れた。

《あの者》は、人間界から来た、と言う。
彼女が握っていたこの花は⋯人間界(その世界)では珍しいものではないのかもしれない。

けれど⋯天妖界(ここ)では、未だ女几山でしか見れない、希少な花だ。

そうであるから、浮游にとってもそれは物珍しく思ったものだった。
なぜならば、かつて浮游自身も―⋯この海棠の枝木を折って手に握りしめたことがあったからだ。



昔、先代の后、(しゅん)后から命を受け、ある者を探して⋯各山々を巡り、浮游はここ女几山(じょきしざん)に辿り着いた。
彼が追うその男、元々は東海の山の頂上が住まいであったが、追われていることに早々に気づき、住まいを出てこの樹木林に隠れるように身を潜めていた。
名は、()という。ここならば⋯訪れる者もほとんどなく、そして⋯己を癒す場としてもとても気に入っていたのだ、と、浮游に後に告白していた。
()は、その後先帝の楽官として登城し、その名が知られることになるのだが⋯。

さて、その時、()を見つけるよりも早くに⋯この山中にて浮游の目を奪ったのは。
凛とした佇まい。美しく咲き誇る⋯、この、海棠だった。

浮游はそこで1度足を止めて。
ふと⋯枝を折り、崑崙(こんろん)の丘に持ち帰ろうとした。自分が管理する庭園に移植し、SA繁殖させようと⋯目論んだのだ。
だが、それは⋯結局は叶わなかった。
ある女性に、渡してしまったからだ。



彼は海棠(あの者)が持っていたそれと、山中の樹木の海棠とを比べるようにして⋯交互に見つめた。


氷漬けのこれが、人間界の海棠であるとは⋯限らない。珍しい花だが、こうして天妖界にも存在するのだから。

彼女が持っていた唯一のものが、人間界を証明する確固たる証拠には⋯なり得ない、ということだ。

信じる、信じないとは別に、可能性の1つを⋯疑念の1つを⋯考えていたのだ。

彼女の記憶以外に、手掛かりがない。その、ない、という事実こそが⋯その存在を不確かにし、天妖界にとっては脅威になるのだ。

曖昧であれば曖昧であるほど、悪しき者に利用される、格好の⋯的に。

かつて浮游がこの地に戻って来た時も、まさに⋯権力を争う戦乱の時。大義名分を探す、方国(ほうこく)(※中心王朝の周辺に存在する、同族ではない、あるいは従属関係にある異民族系の国家や勢力)の諸侯たちの勢力がいくつもの戦を起こし、混乱を招いた。

この、海棠が⋯どんな意を持つことになるのか。


浮游の手から⋯その花はフッと消えて。
それと同時に、山々の満開になった花海棠の枝木から―⋯一斉に、花びらが散っていった。

渦を巻き、その陣で浮游を囲むようにして⋯そして、風に拐われいく。

「⋯⋯⋯」

それを⋯彼は見送って。その場を後にしようとした時だった。
ひらりと―⋯たった1枚の花びらが、ゆっくりゆっくりと、下降してきて。浮游のその肩へと、降りてきた。

もうとっくに、他の者は風に消えたというのに。たったの1枚だけ。

「あの者と同じだな」
浮游はそう呟いて、その1枚をそっと肩からとると⋯。側を流れる沢へと、放つ。

けれど⋯それは風に戻されて、沢の石の陰へと落ちていって。流れては―⋯いかなかった。

彼は沢の側にしゃがみ込んで。石に囲われ、身動きができないソレを⋯見つめる。

「ずっとここに留まる気か?」
海棠の姿を重ねて⋯浮游は小さく息を吐いた。


すると⋯その川の水面に。
見たこともない女の姿が⋯突如映し出される。その【誰か】は、その視線の先の誰かに向かって、無邪気に笑っているのだが⋯。

妙であった。

見たこともないような景色。()には存在しない衣服。口に運んだ茶色の塊を―⋯美味しそうに頬張る姿。

目まぐるしく映り変わっていく情景に⋯浮游はふと、思うのだった。

思いの⋯残像である、と。
そしてそれは、ここに映る者が見ている「誰か」に向けた便りなのではないか―⋯、と。

不思議であった。
知らない女子(おなご)なのに―⋯その先に見ているものは、自分と同じものではないか?と錯覚するのだ。

映像が終わると同時に⋯、その花びらは石の隙間をするりと抜けて。瞬く間に⋯流れ去っていった。後に、僅かな香りだけを残して。



浮游はふと―⋯思い出す。
あの時、この山で得た筈だった海棠の花の行方を。

崑崙山へと持ち帰ろうとの目論みは⋯結局は叶わなかったのだ。
この広い山中で()を見つける術を教え、手助けしてくれた者に―⋯その対価として、それをあげたから。

面紗をしていたその者の顔を⋯知ることはなかった。ただ、威厳あるその語り口と、的確な啓示は忘れることはない。

そして今―⋯脳裏に突如浮かんだのだった。
口上を述べるあの女性の、不敵で⋯かつ、たおやかな笑みが。




浮游の頭上には⋯いつの間にか雲が立ち込めていて。しとしとと、静かに雨を落としていた。

「⋯⋯⋯」

瑶姫(ようき)が崑崙に雨を降らせ―⋯知らせてくれたのだ』
禹后の言葉が―⋯ふと、脳裏に浮かぶ。

『人間界から―⋯姿を消した、と』

「⋯⋯⋯」
浮游は懐から、と、ある玉符を取り出す。
それは―⋯禹后から命を受けたことを証明する片割れの玉符。

九部を知り尽くす【陸吾】であり、禹后の臣下であれば当然の責務だ。

その任務は―⋯陸吾と同様の理由で、もう1人受けた者がいた。

行方知らずになっているある者を探し―⋯保護せよとの索命。
有扈氏が持っていた玉符が偽物であることは―⋯、初めから知っていたのだ。



偶然見つけた人間の少女。
小賢しくも泥臭く、ちっぽけで弱い己の身1つで―⋯この地に根を下ろした者への、小さな小さな疑念の芽。
あの、駒にもならぬちっぽけな石ころが。
波紋を―⋯広げていったのだ。

浮游が、拳を握りしめると、手の中の玉符が、ピシ、と音をたてた。そこで―⋯力をようやく緩める。

割れそうで、割れないそれをまた懐へと戻す。

遠くから―⋯雷鳴。
思わず空を見上げると、有昧の⋯その方角から、大きな黒い影が飛び去っていくのがみてとれた。

「⋯⋯⋯」

それが⋯北の方向へと向かっていくのを見送ると。
浮游は、一瞬にして⋯女几山(じょきしざん)から姿を消して、その影の後を追いかけていったのだった。



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