海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
昔、先代の后、(しゅん)后から命を受け、ある者を探して⋯各山々を巡り、浮游はここ女几山(じょきしざん)に辿り着いた。
彼が追うその男、元々は東海の山の頂上が住まいであったが、追われていることに早々に気づき、住まいを出てこの樹木林に隠れるように身を潜めていた。
名は、()という。ここならば⋯訪れる者もほとんどなく、そして⋯己を癒す場としてもとても気に入っていたのだ、と、浮游に後に告白していた。
()は、その後先帝の楽官として登城し、その名が知られることになるのだが⋯。

さて、その時、()を見つけるよりも早くに⋯この山中にて浮游の目を奪ったのは。
凛とした佇まい。美しく咲き誇る⋯、この、海棠だった。

浮游はそこで1度足を止めて。
ふと⋯枝を折り、崑崙(こんろん)の丘に持ち帰ろうとした。自分が管理する庭園に移植し、繁殖させようと⋯目論んだのだ。
だが、それは⋯結局は叶わなかった。
ある女性に、渡してしまったからだ。



彼は海棠(あの者)が持っていたそれと、山中の樹木の海棠とを比べるようにして⋯交互に見つめた。


氷漬けのこれが、人間界の海棠であるとは⋯限らない。珍しい花だが、こうして天妖界にも存在するのだから。

彼女が持っていた唯一のものが、人間界を証明する確固たる証拠には⋯なり得ない、ということだ。

信じる、信じないとは別に、可能性の1つを⋯疑念の1つを⋯考えていたのだ。

彼女の記憶以外に、手掛かりがない。その、ない、という事実こそが⋯その存在を不確かにし、天妖界にとっては脅威になるのだ。

曖昧であれば曖昧であるほど、悪しき者に利用される、格好の⋯的に。

かつて浮游がこの地に戻って来た時も、まさに⋯権力を争う戦乱の時。大義名分を探す、方国(ほうこく)(※中心王朝の周辺に存在する、同族ではない、あるいは従属関係にある異民族系の国家や勢力)の諸侯たちの勢力がいくつもの戦を起こし、混乱を招いた。

この、海棠が⋯どんな意を持つことになるのか。


浮游の手から⋯その花はフッと消えて。
それと同時に、山々の満開になった花海棠の枝木から―⋯一斉に、花びらが散っていった。

渦を巻き、その陣で浮游を囲むようにして⋯そして、風に拐われいく。

「⋯⋯⋯」

それを⋯彼は見送って。その場を後にしようとした時だった。
ひらりと―⋯たった1枚の花びらが、ゆっくりゆっくりと、下降してきて。浮游のその肩へと、降りてきた。

もうとっくに、他の者は風に消えたというのに。たったの1枚だけ。

「あの者と同じだな」
浮游はそう呟いて、その1枚をそっと肩からとると⋯。側を流れる沢へと、放つ。

けれど⋯それは風に戻されて、沢の石の陰へと落ちていって。流れては―⋯いかなかった。

彼は沢の側にしゃがみ込んで。石に囲われ、身動きができないソレを⋯見つめる。

「ずっとここに留まる気か?」
海棠の姿を重ねて⋯浮游は小さく息を吐いた。


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