君が、となりにいるだけで
隠された命綱
病院から戻った柚を待っていたのは、安らぎではなく「検閲」だった。
「おい、柚。病院はどうだった」
玄関を入るなり、ソファにふんぞり返った職員の男が声をかけてきた。
手には、飲みかけの缶ビールが握られている。
「……別に、異常ありませんでした。風邪気味なだけだって」
「ふん、ならいい。余計な薬なんか処方されてないだろうな。あれは管理が面倒なんだ。金もかかるし、お前が自分で管理できるはずもない」
柚はカバンを強く抱きしめた。
その奥底には、蓮から無理やり渡された吸入器と、あの名刺が隠されている。
「……はい。何も、もらっていません」
「ならさっさと部屋へ行け。飯まで床掃除だ」
柚は逃げるように廊下を抜け、共有の居室へ駆け込んだ。
古い畳の匂いと、何人もの子供が生活する特有の湿気。
自分のスペースは、ボロボロのタンスの横にある、たった一畳ほどの布団の上だけだ。
柚はタンスの隙間に手を伸ばし、奥の壁との僅かな空間に、吸入器と名刺を隠した。
(……あんな先生の言うことなんて、聞かない。使わなきゃいいだけ。そうすれば、バレることもない……)
けれど、その夜。
冷え込みとともに、肺の奥がチリチリと痛み出した。
「……は、ぁっ、……っく……」
布団の中で口を塞ぎ、咳を殺す。
一度出始めると、止まらない。
空気を吸い込もうとするたびに、笛が鳴るような高い音が喉から漏れる。
(だめ、静かにしなきゃ……怒鳴られる……)
隣で寝ている下級生の女の子を起こさないよう、柚は必死に枕に顔を押し当てた。
意識が朦朧とする中、ふと、昼間のあの光景が浮かぶ。
白衣を着た、氷のような瞳の男。
『次に息ができなくなった時、お前が頼れるのはその吸入器と、この番号だけだ』
あんなに怖くて、高圧的だった。
なのに、どうしてあの時、彼に掴まれた手首だけは、ずっと温かかったのだろう。
柚は震える手でタンスの隙間を探った。
指先に当たったのは、冷たいプラスチックの感触。吸入器だ。
それを取り出し、先生に教えられた通りに口に当てる。
シュッ、という小さな音とともに、冷たい薬剤が喉を通り、肺の奥へと染み込んでいった。
「……っ、……はぁ……」
数分後、あんなに苦しかった呼吸が、嘘のように楽になった。
生まれて初めて、深く空気を吸い込めた気がした。
柚は暗闇の中で、吸入器と一緒に取り出した名刺をじっと見つめた。
如月、蓮。
その名前に指先で触れる。
(……一回、使っちゃった。……負けたみたいで、悔しいな)
柚は名刺を胸元に抱え、再び眠りについた。
まだ「心を開いた」わけじゃない。
ただ、死ぬのが少し怖くなっただけ。
そんな彼女の小さな変化を、蓮が知る由もなかったが、二人の運命の歯車は、この夜、確実に動き出していた
「おい、柚。病院はどうだった」
玄関を入るなり、ソファにふんぞり返った職員の男が声をかけてきた。
手には、飲みかけの缶ビールが握られている。
「……別に、異常ありませんでした。風邪気味なだけだって」
「ふん、ならいい。余計な薬なんか処方されてないだろうな。あれは管理が面倒なんだ。金もかかるし、お前が自分で管理できるはずもない」
柚はカバンを強く抱きしめた。
その奥底には、蓮から無理やり渡された吸入器と、あの名刺が隠されている。
「……はい。何も、もらっていません」
「ならさっさと部屋へ行け。飯まで床掃除だ」
柚は逃げるように廊下を抜け、共有の居室へ駆け込んだ。
古い畳の匂いと、何人もの子供が生活する特有の湿気。
自分のスペースは、ボロボロのタンスの横にある、たった一畳ほどの布団の上だけだ。
柚はタンスの隙間に手を伸ばし、奥の壁との僅かな空間に、吸入器と名刺を隠した。
(……あんな先生の言うことなんて、聞かない。使わなきゃいいだけ。そうすれば、バレることもない……)
けれど、その夜。
冷え込みとともに、肺の奥がチリチリと痛み出した。
「……は、ぁっ、……っく……」
布団の中で口を塞ぎ、咳を殺す。
一度出始めると、止まらない。
空気を吸い込もうとするたびに、笛が鳴るような高い音が喉から漏れる。
(だめ、静かにしなきゃ……怒鳴られる……)
隣で寝ている下級生の女の子を起こさないよう、柚は必死に枕に顔を押し当てた。
意識が朦朧とする中、ふと、昼間のあの光景が浮かぶ。
白衣を着た、氷のような瞳の男。
『次に息ができなくなった時、お前が頼れるのはその吸入器と、この番号だけだ』
あんなに怖くて、高圧的だった。
なのに、どうしてあの時、彼に掴まれた手首だけは、ずっと温かかったのだろう。
柚は震える手でタンスの隙間を探った。
指先に当たったのは、冷たいプラスチックの感触。吸入器だ。
それを取り出し、先生に教えられた通りに口に当てる。
シュッ、という小さな音とともに、冷たい薬剤が喉を通り、肺の奥へと染み込んでいった。
「……っ、……はぁ……」
数分後、あんなに苦しかった呼吸が、嘘のように楽になった。
生まれて初めて、深く空気を吸い込めた気がした。
柚は暗闇の中で、吸入器と一緒に取り出した名刺をじっと見つめた。
如月、蓮。
その名前に指先で触れる。
(……一回、使っちゃった。……負けたみたいで、悔しいな)
柚は名刺を胸元に抱え、再び眠りについた。
まだ「心を開いた」わけじゃない。
ただ、死ぬのが少し怖くなっただけ。
そんな彼女の小さな変化を、蓮が知る由もなかったが、二人の運命の歯車は、この夜、確実に動き出していた