厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです
1.厄災令嬢は辺境へ
王都の大聖堂で「厄災の烙印」と告げられた瞬間のことを、私は今でも忘れられない。
「……厄災の烙印でございます」
神官の声は震えていた。 ざわめきが広がり、聖装に身を包んだ令嬢たちは、まるで疫病でも見るように一斉に距離を取った。
十四歳の洗礼式。
他の令嬢たちとは異なり、私だけが、神官の前に引き摺り出された。
大聖堂の光が祭壇に差し込む中、神官が私の前に立った。 その声は低く、重く、会堂の隅々にまで響いた。
「ルーチェ・シェリフォード公爵令嬢には、厄災の烙印が見出されました」
(……厄災の烙印……?)
「この翠の瞳の奥……ご覧下さい」
「痛……ッ!」
神官が私の前に魔晶石をかざす。
強い光を当てられ、瞳が鋭く痛んだ。手で押さえることもできない。
照らされた両目には、「厄災の烙印」ーーその紋章が光っていた。
「烙印が刻まれていることが確認できます」
胸がぎゅっと締めつけられる。周囲の人々も、私から離れていく。
「この烙印は、神の啓示により災厄を周囲に呼び寄せる可能性のある者に与えられるものです。この烙印持ちが現れたのは、いわば神からこの国への警告」 ざわめきが聖堂に広がる。同じく洗礼を受けていた令嬢たちの視線が、まるで疫病を避けるかのように私を避ける。
義父も母も、きょうだいも、遠くから私を見つめている。 その目には、愛情よりも戸惑いと警戒が混ざっていた。
「よりによって、公爵家の令嬢が……?」
「こんな前例、聞いたことがないわ」
「伝承には、触れただけで不運が移るって。本当なのかしら……」
私はうつむいたまま、ただ静かに息を整えた。
神官の声はさらに重くなる。
「烙印の者が出たということは、近くこの国に厄災が降るということ。 しかし、決して忘れてはならないのは、決して彼女を傷つけてはならないということです」
周囲がピリ、と緊張した。
「烙印持ちを傷つけることは、神の意志に背く行為となり、かえって大きな災いを呼ぶとされます。だからこそ、烙印持ちを保護し、距離を取りつつも安全を確保する義務があります。古き国法にも定められた通り」
祭壇の光に照らされた神官の顔は穏やかで厳粛だったが、その言葉には不安を煽る重みがあった。 周囲の人々は目をそらし、息をひそめて私を見ている。
(……殺してはいけない……保護しなくてはならない……)
胸の奥に、理解と孤独が入り混じる。 誰もが触れず、近づかず、でも守らねばならない存在。 その矛盾の中で、私は初めて自分の立場をはっきりと自覚した。
「……となると、公爵家も……あの娘を追い出すことはできないのね」
「ええ。生かしておかないと、災いが降ると言われているもの」
「でも、どうするの?置いておいても、公爵家に不運が降るのかしら。国に降らせられたらとんでもないわ」
気の毒そうに公爵家を嘲笑う声。心配そうに私を罵倒する声。
囁きは、私の心に刺さるほどはっきり聞こえた。
洗礼式後。
「……厄災の烙印がある以上、普通の生活はさせられない」
義父の声は冷たい。
まるで、そこに私が存在してはいけないかのような空気だった。
「厄災の娘なんて、王都に置けるわけがない」
「この家にいると、また不運が起きますぞ」
「いや、昨日の晩餐会の騒ぎも……「厄災」のせいかもしれない」
それでも最初のうちは、家族はぎこちなくはあるけれど、私を庇ってくれようとした。
母は私を守ろうとしてくれて、兄は躊躇いながらも慰めてくれた。
義父は冷たく、妹は事態を理解できていないようだったけれど。
使用人たちも、半信半疑といった様子で私の周囲を窺っていた。
しかし、その後、家中で不運と呼ばれる出来事が続いた。
庭の馬が暴れて小屋を壊す。
領地で犯罪が起こる。
兄の婚約者の家が破産。
そして、母が病に倒れ、亡くなった。
母亡き後、家督を継ごうとした兄は、いちはやくそれを察した義父によって家を追放された。名目は遠い外国への留学だ。
ルーチェ、必ず手紙を、と最後まで叫んでくれていた。
ほとんど着の身着のままで家から放逐された兄を、私は助けることができなかった。
――この件は、それなりの醜聞となって社交界を賑わせたらしい。
厄災のせいだ、と最初に呟いたのが誰だったのかはわからない。
「やはり、神の啓示は正しかったのか」
「早く、どこか遠くへ行かせるべきだ」
その言葉を聞くたび、胸がじわりと痛んだ。
でも、反論の余地はない。
家の中の不運がすべて、私の存在に結びつけられてしまったのだから。
そうして私の世界はゆっくりと狭くなっていった。
広いはずの公爵家の屋敷は、いつの間にか私だけが息を潜める檻のように感じられた。
廊下の向こうにいたはずの使用人が、近づくにつれて消える。
すれ違いざまに交わされるはずの挨拶は、気配ごと薄れていく。
「……厄災の令嬢が来るぞ」
そんな囁きが、背中にかすかに冷たく触れた。
誰も露骨に罵ったりはしなかったが、避けられているのは痛いほどわかった。
妹は私に触れることを怖がり、私を見るなりあからさまに悲鳴をあげることもあった。
――お兄様みたいに私を不運に陥れて、この家から追い出すつもりなのね!
そう言われた、その時だけは、あまりに辛くて逃げ出してしまった。
家を出された兄からは、遂に一度も手紙は届かない。
生きていてくれさえすれば、と願った日もあった。
けれど、数年後のある日、兄が外国から既に戻っていて、王宮で官吏として働いていたのだと聞いた時は――きっと私のことを忘れてしまったのだと、更に深い絶望が私を襲った。
それでも静かに日々を積み重ねるしかなかった。
庭の端の小さな倉庫が、私の居場所になった。
けれど、それが特別つらかったわけではない。
誰からも触れられない場所は、ある意味で呼吸のしやすい空間だった。
ひっそりとした倉庫で過ごす時間のほうが、心は落ち着いた。
用意される食事や寝具は最低限のものだったが、不満を抱く気持ちはとうになかった。
心が磨り減る前に、静けさの中へ逃げ込めたのだから。
ある日、古い本の束を倉庫で見つけた。 幼い頃に私が読んでいた歴史書や伝承の本だった。
(……厄災の烙印について、少しでも知りたい)
その気持ちが、私をページへと向かわせた。
しかし、どれほど探しても“厄災”についての正確な記述はほとんどない。
年代によって言っていることが違い、地域によって扱いも違う。
大方は、神殿に訪れた平民の中から発見される。そしてある時代には「災厄を引き寄せる者」とされ、また別の時代には「災いと引き換えに変革を呼ぶ器」と呼ばれていたりする。「厄災そのもの」と呼ばれ、討伐の対象となっていたこともあった。一方では、烙印持ちを管理することで「厄災」を防いだとする記録もあった。
(……あいまい、なのね)
確かな答えに辿りつけないまま、私は歴史そのものに惹かれていった。
昔の人々の選択や、数百年前の街並みの描写、戦や飢饉の記録。その対応策。領主たちの努力の軌跡。人々の何気ない営み……
本の中では、私は誰にも不運をもたらさない。
どれだけ頁をめくっても、誰も怯えない。
その安心が、ほんの少しだけ心を軽くしてくれた。
(もし可能なら……いつか、もっと歴史を学べたら)
淡い願いを抱くようになったのは、この頃だった。 叶うはずもない夢だとわかっていたけれど、 夢を見るくらいなら許されるだろうと、自分にそっと言い聞かせていた。
本当は倉庫よりももっとずっと、遠く離れた地へ行きたかったけれど、神官たちは定期的に私が居所を変えていないか確認しにくる。
――厄災の居所は、管理しなくてはならないから。
――王の許可なく変えてはならないと。
それに、逃げてもそこに居場所はないだろう。
鏡を見れば、翠の瞳の奥に薄く見える紋様がある。
私に現れた厄災の烙印の紋様は、すでに人々に知られている。
子供でも、しっかりと近づいて私の目をじっと覗き込めば、そこに烙印があることは見えてしまう。
だから、庭の隅の倉庫で過ごしていた。屋敷の人々は、最低限の食事と寝床だけを届けてくれた。
「厄災」には誰も話しかけず、目も合わせない。
けれど、死なせはしない――それだけは、更なる厄災を恐れてのことか、守られていた。
(……離れて暮らして、少しでも迷惑をかけないように)
そう自分に言い聞かせた。
暗く狭い空間だが、ここなら私を避ける家族や使用人の視線もなく、ひっそりと呼吸できる。誰と関わらなくても食べ物が貰えるのはありがたかった。
屋敷で、領内で、大小さまざまな不運が起こるたび、必ず名前を呼ばれ、私のせいにされた。
ただ俯くしかなかった。 言葉を返すと、さらに責められるのがわかっていたから。
(……これが、私の運命なのね)
けれど、倉庫での静かな時間の中、私はふと思った。
(……じっとしていればいい。このまま忘れてもらえるまで。いつか「厄災」が通り過ぎるまで)
でも、それはいつになるのだろう。
(「厄災」は、くるのかしら……本当に……それとも、ずっとこうして、近しい人に無意味に災いを撒き散らすだけの生涯なのかしら)
胸の奥で微かに疼くものがあった。
家族に受け入れられず、誰もが私を疎む――
私にとって、十年はそういう時間だった。
◆
ある日、義父から久しぶりに呼び出された。
「ルーチェ、お前に縁談が決まった。王命だ」
義父は私を見ることなく言った。
「辺境伯ダリウス・ヴァルト。“厄災”は王都より離しておくべきだと嘆願して、ようやく婚姻のための移動が認められた」
「私が……?」
(……辺境。私がお嫁に……?)
十四で烙印を宣告されてからずっと、私は社交界に出ることさえ許されなかった。
厄災の烙印持ちが参加すれば、縁起が悪い。当然のことだと理解できた。
そして、十六、十七と年を重ねるうち、次々に同世代の令嬢たちが婚約を決めていった。華やかで、美しく、当然のように愛されて。
私が十八になった頃には、公爵家の誰も、私の結婚について口にしなくなっていた。
「厄災の烙印」持ちなど、もらいたがる家はないのだから。
(そんな私に、突然……どうして?)
義父は私の様子に何を思ったのか、苛立たしげに舌打ちした。
「嫌だと言っても」
「も、申し訳ございません。嫌だなんて。とんでもない」
私は萎縮して首を振る。
「……でも、ヴァルト辺境伯様が、お気の毒です」
「……当然、当初は断られていた。だが持参金を釣り上げたら、辺境伯も折れた。安くはなかったが、流石は「貧乏辺境伯」だ。「厄災」だろうと金のためなら引き受けたわけだ」
「……」
「それにあの男も、これを逃せばもう嫁の来手はないのだと理解したのだろうよ。良かった良かった。お前さえいなければ妹のリリアーナの縁談も有利に進められる」
私は何も返さなかった。
倉庫へ戻る途中、胸の奥にかすかな痛みが走ったが、涙は出なかった。
もう“冷たくされる未来”に怯えるほど幼くはなかったから。
(また同じだわ。でも大丈夫。慣れてしまったもの)
そう呟きながら荷物をまとめ、そして出立の日を迎えた。
白亜の公爵邸は、まるで最初から私の帰りを望んでいないように静まり返っていた。
いつもの倉庫小屋を出て、公爵家の屋敷へ向かうと、広すぎる玄関ホールが冷たく感じられた。
(……今日、私はここを出るのね)
胸が少しだけ重くなる。
公爵家の令嬢なのに「厄災」とされ、家の奥ではなく庭の隅で暮らす日々。
粗末な倉庫での生活にも慣れきってしまった自分が、なんだか少し情けなかった。
そこへ、通りかかった使用人たちの声が聞こえた。
「……本当に、辺境伯領へ?」
「よりによって「貧乏辺境伯」だなんてね」
「ええ、あちらの領地は魔獣の被害で壊滅寸前だとか。領民も使用人も、みすぼらしい生活らしいですよ」
「十年くらい前に辺境伯様を見ましたが、まるで乞食みたいだったとか」
「辺境伯が、王家に金の無心にきた時か」
「「厄災」を引き受けたのも、持参金目当てでしょう?」
「まあ、公爵様が「厄災」を厄介払いしたい気持ちもわかりますけど」
「これでちょっとは我々にも運が向いてくると良いですねぇ」
彼らは私を“見えていない存在”のように扱うから、遠慮がない。
聞こえまいと気を遣う素振りすらなかった。
心の奥に淡い痛みが広がる。
けれど、反論する気はなかった。逃げることはできないのだから。
公爵家は「厄災の令嬢」を嫁がせることで、厄介払いをした。持参金は、手切金だ。
玄関前に用意された馬車の前で、老執事が私を見下ろした。 その視線は氷のように冷たい。
「……行ってらっしゃいませ、ルーチェお嬢様。どうか立派に果たしてくださいませ」
立派に、という言葉の裏に、「二度と戻るな」という本音が透けて見えた。
「はい……わかりました」
微笑んで返事をした。 微笑むしかなかった。
(大丈夫。私はもう、こういう態度に傷ついたりしないわ)
何度も冷たくされれば、慣れるものだ。
「それでは行ってまいります」
小さく頭を下げると、馬車へと乗り込んだ。
使用人たちは嬉しそうだった。家族は見送りにも来ない。
当然、同行する使用人はいない。不機嫌そうな御者がいるだけだ。
けれど窓に映った私の顔は驚くほど穏やかだった。
家に不運を撒き散らす、その不安から解放されるせいかもしれない。
(行きましょう。どんな場所であっても、過ごしてはいける)
そう思いながら馬車に揺られていると、ふと、これから会う人物のことが頭をよぎる。
(ダリウス・ヴァルト辺境伯様……どんな方なのかしら)
若くして爵位を継いだ、と聞いたことがある。
かつては武門の家として栄えていた家を傾かせ、“貧乏辺境伯”と噂されている方。
王都の社交界に姿を見せたのはもうずっとに一度きり。
その時も、みすぼらしい格好で金の話ばかりしていたとか。
ずっと魔獣退治にかかりきりで、荒れ果てた辺境伯領で貧しい生活をしている方。
きっと、誇張された噂なのだろうとは思うけれど、持参金目当てに「厄災」を引き受けたのなら、本当に金に困ってはいるのかもしれない。
(おとなしくしていましょう。息を潜めていれば……慣れていけるわ)
◆
──同じ頃、遠く離れた辺境伯領では。
銀髪の青年が、書類の束から顔を上げた。 ダリウス・ヴァルト。
その髪は陽光を浴びると銀の刃のように輝き、蒼い瞳は水底まで透きとおるように澄んでいる。
「公爵家より、出立したとの報告です」
部下の報告に、ダリウスはわずかに目を伏せた。
「……そうか。準備を整えて迎えるように」
低く落ち着いた声。横顔には、義務として妻を迎える覚悟が静かに刻まれていた。
表情は冷静だが、かすかな緊張が揺れている。
(“厄災”の令嬢……俺が引き受けねばならないなら、せめて——)
蒼い瞳が、決意を帯びて細く光った。
「……無事に、ここへ来られるように」
「……厄災の烙印でございます」
神官の声は震えていた。 ざわめきが広がり、聖装に身を包んだ令嬢たちは、まるで疫病でも見るように一斉に距離を取った。
十四歳の洗礼式。
他の令嬢たちとは異なり、私だけが、神官の前に引き摺り出された。
大聖堂の光が祭壇に差し込む中、神官が私の前に立った。 その声は低く、重く、会堂の隅々にまで響いた。
「ルーチェ・シェリフォード公爵令嬢には、厄災の烙印が見出されました」
(……厄災の烙印……?)
「この翠の瞳の奥……ご覧下さい」
「痛……ッ!」
神官が私の前に魔晶石をかざす。
強い光を当てられ、瞳が鋭く痛んだ。手で押さえることもできない。
照らされた両目には、「厄災の烙印」ーーその紋章が光っていた。
「烙印が刻まれていることが確認できます」
胸がぎゅっと締めつけられる。周囲の人々も、私から離れていく。
「この烙印は、神の啓示により災厄を周囲に呼び寄せる可能性のある者に与えられるものです。この烙印持ちが現れたのは、いわば神からこの国への警告」 ざわめきが聖堂に広がる。同じく洗礼を受けていた令嬢たちの視線が、まるで疫病を避けるかのように私を避ける。
義父も母も、きょうだいも、遠くから私を見つめている。 その目には、愛情よりも戸惑いと警戒が混ざっていた。
「よりによって、公爵家の令嬢が……?」
「こんな前例、聞いたことがないわ」
「伝承には、触れただけで不運が移るって。本当なのかしら……」
私はうつむいたまま、ただ静かに息を整えた。
神官の声はさらに重くなる。
「烙印の者が出たということは、近くこの国に厄災が降るということ。 しかし、決して忘れてはならないのは、決して彼女を傷つけてはならないということです」
周囲がピリ、と緊張した。
「烙印持ちを傷つけることは、神の意志に背く行為となり、かえって大きな災いを呼ぶとされます。だからこそ、烙印持ちを保護し、距離を取りつつも安全を確保する義務があります。古き国法にも定められた通り」
祭壇の光に照らされた神官の顔は穏やかで厳粛だったが、その言葉には不安を煽る重みがあった。 周囲の人々は目をそらし、息をひそめて私を見ている。
(……殺してはいけない……保護しなくてはならない……)
胸の奥に、理解と孤独が入り混じる。 誰もが触れず、近づかず、でも守らねばならない存在。 その矛盾の中で、私は初めて自分の立場をはっきりと自覚した。
「……となると、公爵家も……あの娘を追い出すことはできないのね」
「ええ。生かしておかないと、災いが降ると言われているもの」
「でも、どうするの?置いておいても、公爵家に不運が降るのかしら。国に降らせられたらとんでもないわ」
気の毒そうに公爵家を嘲笑う声。心配そうに私を罵倒する声。
囁きは、私の心に刺さるほどはっきり聞こえた。
洗礼式後。
「……厄災の烙印がある以上、普通の生活はさせられない」
義父の声は冷たい。
まるで、そこに私が存在してはいけないかのような空気だった。
「厄災の娘なんて、王都に置けるわけがない」
「この家にいると、また不運が起きますぞ」
「いや、昨日の晩餐会の騒ぎも……「厄災」のせいかもしれない」
それでも最初のうちは、家族はぎこちなくはあるけれど、私を庇ってくれようとした。
母は私を守ろうとしてくれて、兄は躊躇いながらも慰めてくれた。
義父は冷たく、妹は事態を理解できていないようだったけれど。
使用人たちも、半信半疑といった様子で私の周囲を窺っていた。
しかし、その後、家中で不運と呼ばれる出来事が続いた。
庭の馬が暴れて小屋を壊す。
領地で犯罪が起こる。
兄の婚約者の家が破産。
そして、母が病に倒れ、亡くなった。
母亡き後、家督を継ごうとした兄は、いちはやくそれを察した義父によって家を追放された。名目は遠い外国への留学だ。
ルーチェ、必ず手紙を、と最後まで叫んでくれていた。
ほとんど着の身着のままで家から放逐された兄を、私は助けることができなかった。
――この件は、それなりの醜聞となって社交界を賑わせたらしい。
厄災のせいだ、と最初に呟いたのが誰だったのかはわからない。
「やはり、神の啓示は正しかったのか」
「早く、どこか遠くへ行かせるべきだ」
その言葉を聞くたび、胸がじわりと痛んだ。
でも、反論の余地はない。
家の中の不運がすべて、私の存在に結びつけられてしまったのだから。
そうして私の世界はゆっくりと狭くなっていった。
広いはずの公爵家の屋敷は、いつの間にか私だけが息を潜める檻のように感じられた。
廊下の向こうにいたはずの使用人が、近づくにつれて消える。
すれ違いざまに交わされるはずの挨拶は、気配ごと薄れていく。
「……厄災の令嬢が来るぞ」
そんな囁きが、背中にかすかに冷たく触れた。
誰も露骨に罵ったりはしなかったが、避けられているのは痛いほどわかった。
妹は私に触れることを怖がり、私を見るなりあからさまに悲鳴をあげることもあった。
――お兄様みたいに私を不運に陥れて、この家から追い出すつもりなのね!
そう言われた、その時だけは、あまりに辛くて逃げ出してしまった。
家を出された兄からは、遂に一度も手紙は届かない。
生きていてくれさえすれば、と願った日もあった。
けれど、数年後のある日、兄が外国から既に戻っていて、王宮で官吏として働いていたのだと聞いた時は――きっと私のことを忘れてしまったのだと、更に深い絶望が私を襲った。
それでも静かに日々を積み重ねるしかなかった。
庭の端の小さな倉庫が、私の居場所になった。
けれど、それが特別つらかったわけではない。
誰からも触れられない場所は、ある意味で呼吸のしやすい空間だった。
ひっそりとした倉庫で過ごす時間のほうが、心は落ち着いた。
用意される食事や寝具は最低限のものだったが、不満を抱く気持ちはとうになかった。
心が磨り減る前に、静けさの中へ逃げ込めたのだから。
ある日、古い本の束を倉庫で見つけた。 幼い頃に私が読んでいた歴史書や伝承の本だった。
(……厄災の烙印について、少しでも知りたい)
その気持ちが、私をページへと向かわせた。
しかし、どれほど探しても“厄災”についての正確な記述はほとんどない。
年代によって言っていることが違い、地域によって扱いも違う。
大方は、神殿に訪れた平民の中から発見される。そしてある時代には「災厄を引き寄せる者」とされ、また別の時代には「災いと引き換えに変革を呼ぶ器」と呼ばれていたりする。「厄災そのもの」と呼ばれ、討伐の対象となっていたこともあった。一方では、烙印持ちを管理することで「厄災」を防いだとする記録もあった。
(……あいまい、なのね)
確かな答えに辿りつけないまま、私は歴史そのものに惹かれていった。
昔の人々の選択や、数百年前の街並みの描写、戦や飢饉の記録。その対応策。領主たちの努力の軌跡。人々の何気ない営み……
本の中では、私は誰にも不運をもたらさない。
どれだけ頁をめくっても、誰も怯えない。
その安心が、ほんの少しだけ心を軽くしてくれた。
(もし可能なら……いつか、もっと歴史を学べたら)
淡い願いを抱くようになったのは、この頃だった。 叶うはずもない夢だとわかっていたけれど、 夢を見るくらいなら許されるだろうと、自分にそっと言い聞かせていた。
本当は倉庫よりももっとずっと、遠く離れた地へ行きたかったけれど、神官たちは定期的に私が居所を変えていないか確認しにくる。
――厄災の居所は、管理しなくてはならないから。
――王の許可なく変えてはならないと。
それに、逃げてもそこに居場所はないだろう。
鏡を見れば、翠の瞳の奥に薄く見える紋様がある。
私に現れた厄災の烙印の紋様は、すでに人々に知られている。
子供でも、しっかりと近づいて私の目をじっと覗き込めば、そこに烙印があることは見えてしまう。
だから、庭の隅の倉庫で過ごしていた。屋敷の人々は、最低限の食事と寝床だけを届けてくれた。
「厄災」には誰も話しかけず、目も合わせない。
けれど、死なせはしない――それだけは、更なる厄災を恐れてのことか、守られていた。
(……離れて暮らして、少しでも迷惑をかけないように)
そう自分に言い聞かせた。
暗く狭い空間だが、ここなら私を避ける家族や使用人の視線もなく、ひっそりと呼吸できる。誰と関わらなくても食べ物が貰えるのはありがたかった。
屋敷で、領内で、大小さまざまな不運が起こるたび、必ず名前を呼ばれ、私のせいにされた。
ただ俯くしかなかった。 言葉を返すと、さらに責められるのがわかっていたから。
(……これが、私の運命なのね)
けれど、倉庫での静かな時間の中、私はふと思った。
(……じっとしていればいい。このまま忘れてもらえるまで。いつか「厄災」が通り過ぎるまで)
でも、それはいつになるのだろう。
(「厄災」は、くるのかしら……本当に……それとも、ずっとこうして、近しい人に無意味に災いを撒き散らすだけの生涯なのかしら)
胸の奥で微かに疼くものがあった。
家族に受け入れられず、誰もが私を疎む――
私にとって、十年はそういう時間だった。
◆
ある日、義父から久しぶりに呼び出された。
「ルーチェ、お前に縁談が決まった。王命だ」
義父は私を見ることなく言った。
「辺境伯ダリウス・ヴァルト。“厄災”は王都より離しておくべきだと嘆願して、ようやく婚姻のための移動が認められた」
「私が……?」
(……辺境。私がお嫁に……?)
十四で烙印を宣告されてからずっと、私は社交界に出ることさえ許されなかった。
厄災の烙印持ちが参加すれば、縁起が悪い。当然のことだと理解できた。
そして、十六、十七と年を重ねるうち、次々に同世代の令嬢たちが婚約を決めていった。華やかで、美しく、当然のように愛されて。
私が十八になった頃には、公爵家の誰も、私の結婚について口にしなくなっていた。
「厄災の烙印」持ちなど、もらいたがる家はないのだから。
(そんな私に、突然……どうして?)
義父は私の様子に何を思ったのか、苛立たしげに舌打ちした。
「嫌だと言っても」
「も、申し訳ございません。嫌だなんて。とんでもない」
私は萎縮して首を振る。
「……でも、ヴァルト辺境伯様が、お気の毒です」
「……当然、当初は断られていた。だが持参金を釣り上げたら、辺境伯も折れた。安くはなかったが、流石は「貧乏辺境伯」だ。「厄災」だろうと金のためなら引き受けたわけだ」
「……」
「それにあの男も、これを逃せばもう嫁の来手はないのだと理解したのだろうよ。良かった良かった。お前さえいなければ妹のリリアーナの縁談も有利に進められる」
私は何も返さなかった。
倉庫へ戻る途中、胸の奥にかすかな痛みが走ったが、涙は出なかった。
もう“冷たくされる未来”に怯えるほど幼くはなかったから。
(また同じだわ。でも大丈夫。慣れてしまったもの)
そう呟きながら荷物をまとめ、そして出立の日を迎えた。
白亜の公爵邸は、まるで最初から私の帰りを望んでいないように静まり返っていた。
いつもの倉庫小屋を出て、公爵家の屋敷へ向かうと、広すぎる玄関ホールが冷たく感じられた。
(……今日、私はここを出るのね)
胸が少しだけ重くなる。
公爵家の令嬢なのに「厄災」とされ、家の奥ではなく庭の隅で暮らす日々。
粗末な倉庫での生活にも慣れきってしまった自分が、なんだか少し情けなかった。
そこへ、通りかかった使用人たちの声が聞こえた。
「……本当に、辺境伯領へ?」
「よりによって「貧乏辺境伯」だなんてね」
「ええ、あちらの領地は魔獣の被害で壊滅寸前だとか。領民も使用人も、みすぼらしい生活らしいですよ」
「十年くらい前に辺境伯様を見ましたが、まるで乞食みたいだったとか」
「辺境伯が、王家に金の無心にきた時か」
「「厄災」を引き受けたのも、持参金目当てでしょう?」
「まあ、公爵様が「厄災」を厄介払いしたい気持ちもわかりますけど」
「これでちょっとは我々にも運が向いてくると良いですねぇ」
彼らは私を“見えていない存在”のように扱うから、遠慮がない。
聞こえまいと気を遣う素振りすらなかった。
心の奥に淡い痛みが広がる。
けれど、反論する気はなかった。逃げることはできないのだから。
公爵家は「厄災の令嬢」を嫁がせることで、厄介払いをした。持参金は、手切金だ。
玄関前に用意された馬車の前で、老執事が私を見下ろした。 その視線は氷のように冷たい。
「……行ってらっしゃいませ、ルーチェお嬢様。どうか立派に果たしてくださいませ」
立派に、という言葉の裏に、「二度と戻るな」という本音が透けて見えた。
「はい……わかりました」
微笑んで返事をした。 微笑むしかなかった。
(大丈夫。私はもう、こういう態度に傷ついたりしないわ)
何度も冷たくされれば、慣れるものだ。
「それでは行ってまいります」
小さく頭を下げると、馬車へと乗り込んだ。
使用人たちは嬉しそうだった。家族は見送りにも来ない。
当然、同行する使用人はいない。不機嫌そうな御者がいるだけだ。
けれど窓に映った私の顔は驚くほど穏やかだった。
家に不運を撒き散らす、その不安から解放されるせいかもしれない。
(行きましょう。どんな場所であっても、過ごしてはいける)
そう思いながら馬車に揺られていると、ふと、これから会う人物のことが頭をよぎる。
(ダリウス・ヴァルト辺境伯様……どんな方なのかしら)
若くして爵位を継いだ、と聞いたことがある。
かつては武門の家として栄えていた家を傾かせ、“貧乏辺境伯”と噂されている方。
王都の社交界に姿を見せたのはもうずっとに一度きり。
その時も、みすぼらしい格好で金の話ばかりしていたとか。
ずっと魔獣退治にかかりきりで、荒れ果てた辺境伯領で貧しい生活をしている方。
きっと、誇張された噂なのだろうとは思うけれど、持参金目当てに「厄災」を引き受けたのなら、本当に金に困ってはいるのかもしれない。
(おとなしくしていましょう。息を潜めていれば……慣れていけるわ)
◆
──同じ頃、遠く離れた辺境伯領では。
銀髪の青年が、書類の束から顔を上げた。 ダリウス・ヴァルト。
その髪は陽光を浴びると銀の刃のように輝き、蒼い瞳は水底まで透きとおるように澄んでいる。
「公爵家より、出立したとの報告です」
部下の報告に、ダリウスはわずかに目を伏せた。
「……そうか。準備を整えて迎えるように」
低く落ち着いた声。横顔には、義務として妻を迎える覚悟が静かに刻まれていた。
表情は冷静だが、かすかな緊張が揺れている。
(“厄災”の令嬢……俺が引き受けねばならないなら、せめて——)
蒼い瞳が、決意を帯びて細く光った。
「……無事に、ここへ来られるように」