善意の記録
町内会から配られた一冊のノート。
表紙には、丸い字でこう書かれていた。

「見守りノート」

「気になることがあれば記録してください。早期対応のためです。」

高齢者や一人暮らしの住人が増えてきたため、そんな人達の異変にすぐに対応できるよう隣人間での見守りを強化するらしい。

私はふと隣室の女性を思い浮かべた。無表情で、挨拶もしない。毎日夜遅くに帰宅し、誰かを部屋に呼んでいる様子もない。

私は見守りノートを前に、少し迷ってからペンを動かした。

「生活リズムが不規則」
「孤立しているように思える」
「情緒不安定に見える」

事実であるし、悪口ではない。ただ、心配しているだけだ。

すると、彼女の帰宅時間が早くなった。
私は“良いことをしている”気がして、観察を続けた。

数日後、彼女の部屋に書類を持った男女が来ていた。

廊下ですれ違った彼女は、明らかに疲れた顔をしていた。視線が合った一瞬、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

私は胸がちくりとしたが、すぐにそんな思いを打ち消した。

「必要な支援が始まっただけ。」

「もし本当に困っていたら、この記録は助けになる。」


私は記録を続けた。洗濯物が少ない日。深夜の帰宅。
表情。歩き方。息遣い。

気になったことは全て。

ある朝、隣室は静まり返っていた。
彼女の挨拶もなく、隣の部屋は空になり、数日後には次の入居者募集の紙が貼られた。

一週間後、回覧板が回ってきた。
最後のページに、見覚えのない文字があった。

「私は普通に暮らしていただけです。」
「でも、記録の中の私は“問題のある人”でした。」

息が詰まった。
ページの端に、短くこう続いていた。

「次は、あなたですね。」

震える手で次のページをめくる。

そこには、私の名前があった。
帰宅時間。
生活リズム。
交友関係。
ゴミ出しの曜日。
カーテンを閉める時間。

すべて、正確だった。

最後の行に、赤字で一言。

周囲と距離がある
被害意識が強い
記録に過剰な関心を示す
——要注意

回覧板が私の手から滑り落ちた。

その瞬間、玄関のインターホンが鳴った。
「町内会です。」

今度は、私が記録される側だ。
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