異世界で未婚の母になることを選びましたが、シークレットベイビーではありません




 ──あれ、どうして……?

 開きっぱなしの本に頬を預けて、うたた寝していたはずだった。けれど、次に目を開けたとき、私は真っ白な空間に立っていた。

 足元には、真紅のバージンロード。両脇には、整然と並ぶ参列客。
 誰1人として言葉を発さず、ただじっと私を見つめている。

 私は──ウェディングドレスを着ていた。

 胸元に繊細なレースがあしらわれた、真珠のように白いドレス。
 ラベンダー色の髪はゆるく巻かれ、ヴェールが肩にかかっている。

 ──ここはどこ? 私は誰?

 叫び出したい衝動を、厳かな空気が押しとどめた。

 祭壇の前に立つ牧師が、静かに口を開く。

「新郎、カスパル・グランツ。
 汝は健やかなる時も病める時も、伴侶を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

 カスパル・グランツ──。

 その名を聞いた瞬間、背筋が凍った。

 ついさっきまで読んでいた小説の悪役。冷酷で、傲慢で、最後は妻を殺害する辺境伯。

「誓います」

 低く響く声に、私は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、まさに“彼”だった。
 白の礼服に長身を包んだ、威圧感あるその姿は、まさしく小説の中の“カスパル・グランツ”。

 ということは、私は──

「ルシーナ・アルディア。
 汝は健やかなる時も病める時も、伴侶を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

 やっぱり、辺境に捨てられた王女ルシーナだった。

 読み終わって、そのまま寝落ちした小説の夢を見ているんだ。

「……誓います」

 心の中で〈条件付きでね〉と、呟きながら。

「それでは、婚姻届にサインを」

 え、私、この世界の文字書けるの?

 不思議なことに、初めて見るはずの文字が、まるで昔から知っていたかのように読めた。
 手も自然に動いて、新郎に続いてサラサラとサインを記す。

「それでは、ここに2人を夫婦と認めます」

 拍手が鳴った。

 

 ドタバタと、廊下を駆ける足音が近づいてくる。

 寝室の扉が勢いよく開かれた。

 月明かりに照らされたその場に、新郎カスパル・グランツ辺境伯が立っていた。
 無造作に開いたシャツからは鍛え上げられた筋肉が覗いている。
 その腕の中には、背の低い太った中年女──艶やかなドレスに身を包み、媚びるようにカスパルの肩に寄り添っていた。

「お前を愛することはない」

 カスパルの声は冷たく、容赦がなかった。

「俺が愛するのは、このアンナだけだ。お前は、お飾りとして大人しく暮らせ」

 その言葉に、胸の奥がひやりと凍る。

 ──そう、ここは中世ヨーロッパに似た異世界。
 王女であっても入籍すれば、地位が夫の下になる。それが、この世界の常識。多少の理不尽には、耐えねばならない。

 けれど。

 王族を娶る以上、これを蔑ろにしてはならない。
 王室に対する不忠になるからだ。

「不敬罪よ。捕えて」

 私の声に応じて、寝室の奥に控えていた王宮騎士たちが動いた。
 銀の鎧が月光を弾き、2人がカスパルの腕をがっしりと掴む。

「バカめ。入籍したら、もう王族ではない。そんなことも知らないなんて。
 まともな教育を受けさせて貰えなかったのだな、冷遇姫は」

 カスパルが嘲るように笑った。

 冷遇姫とは、ルシーナのことだ。彼女は王の庶子。後宮の隅で、息を殺すようにして育った。

 私は静かに、書類を取り出す。

 1枚は、婚姻届無効証明書。もう1枚は、婚姻不受理届け。

「私はルシーナ・グランツじゃない」

 彼の目の前に、書面を突きつける。

「婚姻届の綴りを、わざと1つ間違えて書いたの。正式に無効申請も済ませてあるわ」

 数時間前、教会で結婚式をした時。咄嗟に自分のサイン1文字、変えておいた。
 そして式が終わり次第、婚姻届無効を申請した。
 だって──

「なっ……王命による婚姻だぞ!」

 カスパルの顔が、初めて歪んだ。

「父王は“グランツ家の跡継ぎを産め”とは言ったけれど、“入籍しろ”とは言ってないの」

 カスパルとアンナが、まるで死神を見たかのように顔を青ざめさせた。

 私は辺境伯夫人ではない、王女だ。

「さあ、取引をしましょう」

 だって──
 小説を読んで、ここのシーンは知っていた。
 初夜に愛人を伴ってきた夫に、原作のルシーナは、なす術なく震えていた。
 でも、私は違う。容赦なんかしない。

「契約書にサインしなければ、愛人と共に首を失うわね」

 私は、もう1枚の紙を取り出した。
 カスパルに渡すと、彼は紺の瞳を見開いた。
 ──それは、契約書だ。


契約書:『辺境統治に関する特別協定』

第1条:絶対服従の誓約
辺境伯はルシーナ・アルディア王女に対し、私的・公的を問わず絶対の忠誠を誓うものとする。

第2条:女主人および当主代理の地位
ルシーナ王女は辺境伯領において「女主人」および「当主代理」としての権限を有する。
辺境伯の名義において発せられる命令・布告・徴税・軍事指令は、ルシーナ王女の承認をもって有効とする。

第3条:持参金および王家資源の貸与
ルシーナ王女の持参金、嫁入り道具、ならびに王宮騎士団の一部は、辺境伯領の統治においてルシーナ王女の裁量により使用される。
これらはルシーナ王女の滞在中、辺境伯へ貸与されるものとする。

第4条:次代継承権
辺境伯の爵位及び家督は、ルシーナ王女が産んだ子に継承される。
継承権は婚姻の有無に関わらず有効とする。

第5条:違反時の罰則
本契約に違反した場合、辺境伯は爵位・領地・命・資産を含む一切の権利を放棄する。
ルシーナ王女は即時に辺境伯領の全権を掌握し、王家の承認を要さずして統治を継続できる。

※この契約は、婚姻の有無・代替わりに関わらず永続される。



 私はサイン済みの契約書のうちの1枚を手に取り、王宮騎士に差し出した。
 嫁入りの際、王都から一緒に来た護衛たちだ。

「これを、教会へ」

 彼は無言で頷き、契約書を皮張りの筒に収めると、すぐさま部屋を出ていった。
 廊下の先には、銀の鎧をまとった聖騎士の姿が見える。
 彼に渡された契約書は、今夜のうちに教会の記録庫へと届けられる手筈だ。

 ──証人として聖騎士を借りるのに、少なくない額の寄付をした。
 持参金がなければ、個人資産を持たない私にはどうすることもできなかった。

「その女を拘束して。牢へ」

 アンナと呼ばれていた中年女を、指差す。
 私の命に、騎士たちが動く。

 彼女は悲鳴を上げ、カスパルの腕にすがりついたが、容赦なく引き剥がされた。

「ついでに、彼女の家族も。収賄と不敬の疑いで取り調べを」

「お待ちください! アンナは関係ない!」

 カスパルが叫ぶが、誰も彼を見ない。

 騒ぎを聞きつけたのか、廊下の奥から家臣団が続々と集まってきた。
 重々しい鎧の音、ざわめき、そして──

 私は、彼を見つけた。

 アデル・グランツ。
 紺の髪に、真面目そうな同色の瞳。
 原作では、不遇なルシーナに何かと手を差し伸べたカスパルの末弟。
 そして、この小説「辺境に散る花」の男主人公でもある。

「アデル・グランツ」

 私は彼に向き直り、まっすぐに言った。

「私との間に、子を作りましょう。
 辺境伯家の後継ぎを、あなたとの子にするの」

 その瞬間、アデルの顔が凍りついた。

「……えっ」

 彼は1歩、後ずさる。
 その目に浮かんだのは、驚愕と──恐怖。

 どうやら“強い女”は苦手らしい。
 彼は“ヒーロー”でいたいのだ。守る側でありたい。
 ロマンス小説の主人公らしく、夢見がちだ。

「ふざけるな!」
 カスパルが吠えた。
「入籍していなくても、俺が婚約者だろう!」

 その声に、アデルがその中性的で美しい顔をしかめながらも同調する。

「そうです。
 兄のしたことは謝りますが、後継ぎは兄の子であるべきです」

「契約書には、“私の子”が未来の辺境伯と書いてあるのであって──誰との子かまでは、書いてないわ」

 私は静かに言った。
 アデルの顔が、見る間に青ざめていく。

「辺境伯の血統でないと、家の乗っ取りになるから、血縁者の中から探すのが妥当だと思った。
 でも──」

 私は紺の瞳を、まっすぐに見つめた。

「あなたが拒むなら、グランツ家と関係ない相手にしましょう」

「そんなっ……!」

 アデルが声を上げる。
 けれど、私は首を横に振った。

「勘違いしないでちょうだい。あなた方に、決定権はないの」

 この譲歩は、私の“好意”によるものだ。

 家臣団が従うには、血の正統性が必要。だからこそ、私はアデルを選んだ。
 それに──原作を読んだ私は、彼に好感を持っている。

「アデル様。ここは、王女殿下のご意志に従うべきでは」
「そうです。殿下の血を継ぐ子が必要です」

 家臣たちが、ざわめき始めた──その時。

「そんなに嫌なら、俺が作ろうか?」

 低く響いた声に、場が静まる。

 グランツ前辺境伯の次男、ライガ・グランツの燃える紅目が、まっすぐに私を見ていた。
 凛々しい直線的な眉に、甘い目元の美丈夫。
 黒の軍服に長身を包み、太い腕を組んだ姿は、まるで獣のような威圧感を放っている。
 20代前半にしては、迫力があり過ぎる。

「なんと、タイミングがいい。まるで予見していたみたいだな」

 カスパル派の文官が、皮肉を込めて呟く。

「人聞きの悪いことを言うなよ」

 ライガが肩をすくめると、別の声が割って入った。

「ならば、俺でもいいはずです」

 ジーク・ヴァイス。アデルの従兄。
 茶色い癖毛をかき上げ、真剣な眼差しで私を見つめている。

「俺が子作りするのが、1番揉めないのでは?」

「それなら、俺でもいいだろう」

 ジークの弟、カラムも口を挟む。
 次々と名乗りを上げる男たちに、場の空気がざわつき始めた。

 家臣たちも、誰が最も適任かを巡って口論を始める。

 ──まったく、男たちというのは。

 私は、手を掲げた。

「この件は一旦、保留とします。
 1週間以内に答えを出すわ。
 本日は、これで解散」

 私は彼らに背を向け、厚手のネグリジェの裾を翻した。
 続き扉の先にある自室で眠ろう。
 ──長い1日だった。



 翌朝。
 目覚めても元の世界に戻らないことから、恐らく転生か憑依したのだと理解した。
 来てしまったものは、仕方ない。
 幸い、ルシーナは美人なので、そこだけはラッキーだ。

 ラベンダー色の髪を整えると、まだ婚約者であるカスパルが訪ねてきた。

 黒の軍服に身を包み、傷1つない顔で、まるで昨夜のことなどなかったかのように振る舞っている。

「殿下、昨夜のことは水に流そう。俺と子を作るべきだ。そうすれば、すべて丸く収まる」

 私は微笑んだ。

「ちょうどいいわ。せっかくだから、一緒に朝食をとりましょう」

 彼は訝しげに紺の眉をひそめたが、私の誘いを断ることはできなかった。


 食堂の長いテーブルに並べられた、料理の数々。
 大皿の上に鎮座していたのは──銀の箱。
 蓋には、王家の紋章が刻まれている。

「ハレオン国ではね、人肉を食べる文化があったのよ」

 私はナイフとフォークを手に取りながら、静かに語る。

「有名な兵法家の好物も、人だったとか。知ってる?」

 カスパルの顔が引きつる。
 震える手で箱の蓋を開けた彼の目に、アンナ・マルクルの生首が映った。

「貴様ァッ!」

 一応まだ婚約者であるカスパルが立ち上がり、私に殴りかかろうとした瞬間──

「止まれ!」

 王宮騎士たちが一斉に動き、彼の両腕を押さえつけた。

「カスパル・グランツ。王女への暴行未遂により、拘束する」

 婚約者は、そのまま地下牢へと連行された。



 午後、会議室に家臣団が集められた。
 重々しい空気の中、私は椅子に腰を下ろし告げた。

「辺境伯カスパルは、怪我により療養ということにするわ。処刑は、今後の見通しがついてから」

 事前に経緯を通達しておいた家臣たちが、ざわつく。

「それよりも、次の当主を決めなくてはならないわね」

 全員の視線が、自然と末弟アデルに集まった。
 しかしアデルは拳を握りしめ、俯いたまま何も言わない。

「辺境伯は、アデルがなるとして。姫さんとの子作りは、俺でもいいんだろう?」

 次男のライガが、口を開いた。
 自分が領主になると言わないのは、彼が前辺境伯の庶子だからだ。
 直系アデルを差し置いて、次代にはなれない。

 私は思わず、彼を見つめた。
 グランツ三兄弟の中で1番背が高く、美しい顔をしている。
 しかし、原作に殆ど出てこなかったため情報がない。信用できるのか?

「家臣団が、揉めるのでは?」

「コイツはダメだ」
 ライガがアデルを顎で示す。
「姫さんにビビってる。使いもんにならんぞ」

 その言葉に、内心で頷いた。
 原作を知る私は、アデルが“いいやつ”だとわかっている。
 けれど、統率者として、これから産まれる子の父親として頼りない。

 だが、家督を継ぐのはアデルなのに、後継がライガの子となれば、家臣団は揉める。

 ライガとの子を、アデルの子として育てる案も考えたが、2人は髪色と高身長以外、似てない。
 ライガは凛々しく、アデルは中性的な面立ちなのだ。

 何より私が恐れてるのは、父王が口を出してくること。
 入籍を強制されては、堪らない。
 結婚すれば、私は“夫の下”になる。
 けれど、結婚しなければ、私は“王女”でいられる。

 ──それに、アデルは原作でヒロインのエリセと結ばれる。
 まだ出会っていないだけ。
 だから、彼と結婚しても良いことなんてない。

「私が代理として、辺境伯の職務を引き継ぐわ。その間に──アデルかライガと子を作る」

 会議室がざわめくが、無視して続ける。

「出産後に、子の父親を“辺境伯”とし、私は“後見人”となります」

 子が無事に生まれた後、療養中のカスパルは“死亡”する。
 カスパルの婚約者であった私が喪に服している間、入籍を強制されることはない。


 結論を置いて会議室を出たところで、次男ライガが追ってきた。
 紺の短髪を揺らし、長身を少しだけかがめて、私を見下ろす。

「よければ、領地を案内させてくれないか?」

「そうね。まずは、土地を把握した方がいいわね」

 私は頷き、彼の申し出を受け入れた。



 馬車の中、私はカーテンを少しだけ開けて、灰色の空を見上げていた。

 秋の雲が低く垂れ込め、遠くの山々を霞ませている。
 寒冷地の空は、どこか寂しげで、けれど静かで、心を落ち着かせる。

「なあ、今考えてること、当てようか?」

 向かいに座るライガが、いたずらっぽく笑う。

「ひたすら、何もないわ」

 提案に乗らず先に答えた。

「あー、それじゃゲームにならないだろっ」

 その言い方が可笑しくて、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
 この人は"女のあやし方"がうまい。
 さぞ、モテるだろう。

「こんな簡単なゲームに勝ったからって、何が欲しいの? まさか“権力”なんて言わないでしょうね」

「公式の場以外で、タメ口で話す権利」

「すでに敬語を使ってないじゃない」

「ラフでも処さないっていう、確約が必要なんだよ。いつ首を取るかわからないだろ、この鬼姫は」

 また、笑ってしまった。
 この男は、どうしてこうも軽やかに、私の警戒をすり抜けてくるのだろう。

「いいわ。許します」

「よっし!」

 ライガは大きな拳を握って、子どものように喜んだ。
 無邪気な目尻に少し皺ができたのを見て、愛らしく感じた。



 領地視察から戻った私を、アデルたちが出迎えた。
 アデルはいつも通り礼儀正しく、控えめに頭を下げる。
 隣でエスコートするライガは、弟を見るなり目を細め──

「……っ」

 私の唇にライガの唇が触れた。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 ライガはすぐに跪き、頭を垂れた。

「申し訳ありません、殿下。
 殿下があまりにも魅力的すぎて、我慢なりませんでした。
 どうぞ、打ち首にしてください」

 ……まったく、彼は極端だ。

「あなたは、私が産む子の父親候補。肉体的接触は許します」

 私がそう返すと、彼は深く頭を下げた。

「ありがたき幸せ。今後も殿下に尽くします」

 そのまま立ち上がり、アデルの横を通り過ぎる。
 すれ違いざま、彼がニヤリと笑ったのが見えた。
 アデルは拳を握っていた。
 ……ああ、面倒なことになりそう。


 夜。
 書類を片付けていた私のもとに、ノックの音が響いた。
「ライガ?」
 そう思って扉を開けると、そこにいたのはアデルだった。

「兄を待っていたのですか?」

 その言葉に、私は思わず目を逸らした。

「そういうことでは……あなたは私が怖いから、子作りは諦めるのかと」

「もちろん怖い。けれど、僕には直系としての責任がある」

 彼の声が低くなる。
 1歩、また1歩と近づいてくる。
 その顔は、昼間の穏やかな末弟ではなかった。

 私は思わず後退った。
 けれど、背中が壁に触れた瞬間、彼の腕が私の腰を抱き上げた。

「え? あっ……!」

「身体的接触は、許されるのでしょう?」

「ええ、もちろん。父王が口出ししてくる前に後継を産み、地盤を固めたいの」

「では、このまま子作りを」

 彼は私を寝室へ運び、ベッドにそっと降ろした。
 私は息を呑んだ。
 このまま? ──と思った、その時。

「ライガ様がいらっしゃいました」

 メイドの声が、空気を裂いた。

「えっと……」

「『後継は僕がつくる。さっさと帰れ』と伝えてくれ」

 アデルが冷たく言い放つ。

「そうはいかない」

 扉が乱暴に開かれ、ライガがズカズカと入ってきた。
 彼の目が、紅く燃えている。

「貴様……!」

「姫さんに触れるな」

 拳が交錯する。
 私はベッドの端で、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 政務なら、いくらでもこなせる。
 日本でもバリキャリだった。
 けれど、こういう状況には慣れていない。

 拳がぶつかる音が、寝室の空気を裂いた。
 アデルとライガ──2人の男が、私の目の前で殴り合っていた。

 アデルは、紺の髪を乱しながらも、鋭い目でライガを睨みつけている。
 その顔立ちは物語の主人公らしく整っているが、今はまるで獣のようだった。
 一方のライガも紅い瞳をぎらつかせ、黒革の上着をはだけさせながら、笑っていた。
 鍛え抜かれた体躯が、まるで戦場のように動く。
 2人とも、まさに“辺境の戦士”だった。
 教会から借りている聖騎士ミレスが、割って入ろうとしたが──

「くっ……止まらん……!」

 銀の鎧が軋む音。
 ミレスほどの騎士でも、2人の力を押さえ込むことはできなかった。

「ひ、人を呼んできて!」

 私は叫んだ。
 メイドが頷き、すぐに部屋を飛び出していく。

 すぐの複数の王宮兵が駆けつけ、ようやく2人を引き剥がすことに成功した。
 けれど、2人とも顔は腫れ唇は切れ、服は血と汗で濡れていた。
 これでは、子作りどころではない。

 私は呆然と立ち尽くしていた。
 そのとき、家臣団が駆け込んできた。
 それぞれが主の傍に駆け寄り、傷の確認を始める。

「殿下、どちらか選ばれませんと……血の海になります」

 家臣団の頭でもあるジークが、低く告げた。
 私は言葉を失い、視線を落とした。
 選ばなければならない。
 けれど──

「でも……アデルは、本当に子作りが出来るの?」

「なっ!」

 アデルが顔を真っ赤にして、紺の目を見開いた。
 その反応に、場の空気が一瞬凍りつく。

 沈黙を破ったのは、ライガだった。

「腰抜けめ!
 最初に姫さんが『お前を』と言った時に、ありがたく受けておけば良かったのに。
 難色を示したから、こうなったんだ」

 正論だった。
 誰も何も言えなかった。
 アデルでさえ、唇を噛んで俯いている。

 私は2人を見比べ、静かに言った。

「……2人の怪我が治ったら、アデルにチャンスをあげます。それでダメだった時は──」
 視線を、ライガに向ける。
「……あなたに」

 ライガは肩をすくめ、笑った。

「仕方ないな。俺は、後回しにされるのに慣れてるから。それでいい」

 その言葉に、胸が締めつけられた。
 彼の笑顔は、どこか寂しげで、痛々しかった。
 私は、彼に同情した。
 けれど、それ以上に──何かは、まだ言葉にできなかった。



 翌朝、私は1人でライガの見舞いに向かった。
 彼が寝かされているのは、グランツ城の客室。
 簡素な調度に、陽の光が静かに差し込んでいる。

「……ずっと、この部屋に?」

 ベッドに横たわるライガは、紅い瞳を細めて私を見た。
 紺髪は乱れたまま、上半身には包帯が巻かれている。
 それでも、彼の存在は部屋の空気を支配していた。

「今まで本城に近付かなかったし、前辺境伯夫人が俺を嫌がったからな」

 その言葉に、胸が痛んだ。
 私はベッドの傍に腰を下ろし、視線を落とした。

「わかるわ。私の部屋は、後宮にあったの。
 王女宮じゃなくて、母に与えられた部屋をそのまま使ってた。
 父王に認知されたのも、婚約が決まる直前だったから、公式行事にもほとんど出てない。
 王の子は男ばかりで、女は私と、あと1人しかいない。
 だから殺されずに生かされてきたけど……男だったら、きっと私は──」

 言葉が喉で詰まった。
 そのとき、ライガが体を起こし、私を抱き締めた。
 傷が痛むはずなのに、逞しい腕はしっかりと私を包んでいた。
 それから、短く確かなキスが落ちてきた。
 ──慰めるような、共有するような。

「俺は、姫さんを怖いと思ったことはない」

 低く、熱のこもった声が耳元に落ちる。

「あいつ(三男アデル)は、姫さんがアホ(長男カスパル)に強く出たから怖がってるんだ。
 あれは、アホどもが悪いのに。姫さんは当然のことをしたまで。
 あんな腰抜け(アデル)より、俺の方が気が合うだろう?」

 私は、彼の胸に顔を伏せたまま、目を閉じた。
 ──正直、そう思っていた。
 アデルは誠実だけど、頼りない。
 ライガのように、私の怒りや痛みを“当然”と受け止めてくれる男は、他にいなかった。

 けれど──

「あなたを次の辺境伯に押すと、家臣団が割れる。
 戦力が下がると、困るでしょう?」

 辺境において戦力は、何より価値がある。
 私がそう言うと、ライガはふっと笑った。
 私より6つ年上なのに、少年みたいに笑う。
 男らしい凛とした顔が、フニャッと崩れる瞬間に目が奪われた。

「俺は義勇軍を持ってる。だから、戦力は補える」

「……城の治安が悪くなるんじゃない?」

 この時代の義勇軍など、ヤクザみたいなものだ。
 彼は声を上げて笑った。

「ははっ、そりゃそうだ。……イテテッ」

 笑いながら、脇腹を押さえる。
 包帯の下の傷が痛んだのだろう。
 私は思わず大きな手に、自分の手を添えた。
 すると、彼は私の頬に手を添え、顔を近づけてきた。
 唇同士が触れそうな距離。

「離したくない……」

 かすれた声で懇願されると、途端に心臓がドキドキ音を立て始めた。


 情事のような甘い時間から何とか逃げ出し、次に向かったのはアデルの部屋だった。
 彼の傷も深かったはずなのに、机に書類が散らばっている。
 紺色の髪は丁寧に整えられ、白い包帯が頬に一筋巻かれている。
 その横顔は、まるで何事もなかったかのように静かだった。

「寝ていた方がいいのでは?」

「辺境の男は、13で戦場の下働きに駆り出され、15には戦闘に参加するのです。
 殴り合いくらい、何ともありません」

 その言葉に、私は思わず目を細めた。
 ならば、なぜ──私が怖いのか。

 あの夜、彼は確かに言った。「怖い」と。
 それでも責任があるからと、私に触れようとした。
 けれど、あの時の彼の手は、震えていた。

 ──女に幻想を、抱いているのかもしれない。

 原作の彼は、不遇な王女を見かねて手を差し伸べる。
 その後に出会うヒロインも、前向きだけれど放っておけない、どこか危うい女だった。
 つまり、彼は“庇護欲”を強く刺激する女が好きなのだ。

 私は──違う。
 自分の足で立ち、男たちを従える女。
 幻想を壊すには、十分すぎる存在だった。

 グランツ領は、女性が少ない。
 この地では、男手が必要とされるため、男児の出産率が高い家系から嫁を取る。
 そのせいで、男女の出生比率は2対1。
 しかも、戦で男が死にやすく、戦地になることも多い。
 女が寄り付かないのも当然だった。

 娯楽も乏しい。
 普通、軍事基地では水商売が隆盛し、同時に宝石商やドレスショップが並ぶはず。
 しかし、ここは毛皮商と武器屋の他、僅かな飲み屋と娼館があるだけ。

 更に前辺境伯夫人は、夫に代わって王都のタウンハウスに住み、社交に勤しんでいた。

 つまり、アデルは女と接する機会がなかった。
 だからこそ、女に幻想を抱いている。
 そして、その幻想を私が壊した。
 だから、私が苦手なのだ。

 戦地にならない土地の領主なら、アデルは合っている。
 けれど、この土地では──
 ライガの方が、向いているのではないか。

 もちろん、ライガがカスパルのようになる可能性がないとは言えない。
 けれど、城の実権は私にある。押さえればいい。

 私は静かに立ち上がり、アデルに背を向けた。

「お大事に。無理はしないように」

 彼が何か言いかけた気がしたが、私は扉を閉めた。
 廊下に出た私は、すぐに侍女に命じた。

「エリセ・ノルンを探して。至急、私のもとへ」

 彼女なら、アデルと釣り合う。
 アデルが次代辺境伯を諦め、ライガの補佐に回り、エリセと結婚する。
 そして、私とライガが喪中明けに婚約すれば──

 すべてが、丸く収まる。


 執務室の窓から、灰色の空が見えた。
 冷たい風が石造りの壁を撫で、蝋燭の火がかすかに揺れた。

 机の上には、山のような書類。
 辺境伯カスパルが地下牢に行ってから、すべての政務が私の肩にのしかかっている。

 この国の制度、税制、軍制、地理、そして人の動き。
 すべてが、頭の中に地図のように広がっている。

 王室は、ルシーナを政略結婚の駒として育てた。
 だから、教育だけは徹底されていた。
 それが今、ようやく役に立っている。

 扉がノックもなく開いた。

「俺にも仕事を分けろ」

 ライガだった。
 黒革の上着の前を開け、包帯を巻いた胸元を見せながら、ズカズカと入ってくる。
 紅い瞳は相変わらず鋭く、けれど、退屈そうでもあった。

「寝ていた方がいいわ」

「じっとしていることに、変わりはないだろう?」

 私は思わず、手を止めた。
 ……なるほど。
 彼にとって“執務”は、“動かない”に分類されているらしい。

 私は書類の束を1つ取り出し、彼の前に置いた。

「じゃあ、これをお願い。
 娼館を増やしてちょうだい。予算は私の持参金から組んでいいわ」

「は? ……もしかして、治安を気にしてるのか?」

「畑が少ないのも気にしてるわ。でも、あなたに適任なのは歓楽街をつくることよ」

 ライガは紺の眉をひそめた。
 けれど、すぐに真剣な顔に変わる。

 グランツ領は、とにかく治安が悪い。
 国の端にあり、2国と国境を接し、さらに北方蛮族と呼ばれる部族とも接している。
 小競り合いは日常茶飯事。
 そのうえ、土地の半分以上を占める林には、獣と山賊が潜んでいる。

 更には、この厳しい地形を利用して、巨大な刑務所が建てられている。
 そこには、凶悪犯が収監されているが、脱走者もいれば、出所後に林に住み着く者もいる。
 結局、辺境とは──左遷された者、罪を犯した者、居場所を失った者が流れ着く場所なのだ。
 治安が悪くなるのは、当然の帰結。

 ライガは書類を一瞥し、鼻を鳴らした。

「ふうん。そうだな……まず、領内の空き家を買い占めよう」

 私は手を止めて、彼を見上げた。
 身長が高すぎて、首がつりそうだ。

「歓楽街をつくるんじゃなくて?」

「わざわざ遠くまで行かなきゃいけないなら、その辺でヤギでも襲った方が早い」

「……各地に娼館をつくると、監視の目が届かず荒れるのでは?」

「兵士を派遣する理由になるだろ」

 なるほど。
 治安維持の名目で、兵を常駐させる。
 その土地に秩序が生まれれば、自然と人も集まる。
 彼のやり方は粗削りだけれど、理にかなっている。

「……あなたに任せるけど」

「なんだよ?」

「娼館の周りに、食堂や酒場、遊び場もできるようにして欲しいの。
 食生活が荒れてるから、平均寿命が短いのよ。戦死のせいだけじゃないわ」

 グランツ領の平均寿命は41。他の地区より10年も短い。
 それは、戦だけが原因ではない。
 栄養不足、衛生環境、娯楽の欠如──すべてが人を蝕んでいる。

「女がいないから、遊興施設が少ないんだ。
 女が増えれば、食堂も既婚者も増える」

「女性を増やすには、治安を良くしなきゃいけないのよ。
 でも、取り締まりをキツくして人口が減ったら、他国の進攻に堪えられない。
 だから、まずはやはり娼館ね

 ライガが頷くと、補佐官に向き直る。

「ジーク、石鹸を大量につくって。
 内職が必要な人間に、材料を渡して」

 ジークはライガの従弟で、今は私の命令を受ける立場にある。

「石鹸……ですか?」

 この国で石鹸は貴族しか使わない、希少なものだ。

「それで死亡者が減る。
 娼館ができれば性病が蔓延するから、その前に対策しておくの」

「まさか……そんなことで?」

「さっさとして」

 ジークがアデルと同じ紺の目を丸くして退室していくのを見届けてから、ライガが訊ねてきた。

「そりゃ、王宮で得た知識か?」

「……まだ秘密」

 私は微笑んだ。
 日本から来たことは、まだしばらく秘密にしておく。





< 1 / 7 >

この作品をシェア

pagetop