小さな死神が与えてくれた幸福
おわり
1
「死神さん。私を、早く空の上へ連れて行ってよ」
現実にいるかも分からないその存在は私にとって希望であった。
実際にいれば、だけど。
意識不明の状態。
早く死んでしまいたいと何度望んだことか。
ベットにくっつけれて治療を受ける日々は意味があるのだろうか。
大量の管には繋がれて視線を常に感じる。
真暗闇の視界にも確かに光があって、それは私が生きられる希望なのだろうが、ただ、身を苦しめる絶望であった。
死にたい。
「なーに悲しいこと考えてるの? 死んでしまいたいなんてもったいないよ」
幼い声が耳元で聞こえる。
聞き覚えは、ない。
ここに入院している子供だろうか。
でも、真夜中に子供がここに入り込むとは考えれない。
「姉ねさ、二週間目覚めれないからって落ち込まないでよ」
姉ね
私はあなたの弟じゃないのに。
声質と冷静に言葉を紡ぐ様子が釣り合わない。
よく窓越しに聞こえる子供の声のようなのに、大人が小さい子供をなだめるように語りかけてくる。
あれ。
何だか、体が動くような気がする。
ずっと石像のように固まっていた体が、動き出そうとしている。
眼球が動こうとしているのか、まだらに光が見える。
目の前に誰がいるのか興味を持ちながら、少し怯えながら目を、
開ける。
眩しい。
こんなに光を強く感じるのは久々だ。
何度か瞬きを繰り返したら世界の輪郭をつかめてきた。
少し辺りを見渡した。私から見て左側にいたのは小さな男の子。
黒いパーカーのフードを深く被っている。幼い顔立ちの彼には、正直似合っていない。
「おはよう」
「おはよう、?」
つい、身を引いてしまった。
可愛らしいけど、なんでここに子供がいるのかがわからなく、まだ怖さがある。
「怖がらなくていいよ。そんな恐ろしい存在じゃないから」
「君は誰? 私の周りの病室には子供はいなかったはずだよ」
「僕はここに入院してないよ」
なら、何故この病院の中にいるの? はてなを浮かべた私の顔を見た彼は思い切り吹き出した。
「そうだよね。自己紹介しなきゃだね」
ベットの横に置かれた椅子に座った。
初対面なのに緊張の色を見せず、話を淡々と進める彼についていけない。
それなのに、また話が動き出す。
「横見沙弥さん。初めまして。僕は、死神です」
子供らしさをすべて消し去った彼。改まって自己紹介をしてきた。
死神
不思議だった。おかしかった。
だって、死神なんて存在してないよ。存在しているわけないよ。
死神なんてフィクションに出てくる一キャラクターにすぎないんでしょ。
わかってて私は望んでいた。
死神という存在を。
現実から逃げるため、――生きずらいこの世から逃げるため――望んでいた。
「……何で、名前知っているの?」
やっぱり怖い。
私の名前を知っていた。
そして、死神と名乗った。
いないと思い込んでいた存在の名を挙げた。
「だって、僕は君のことなんでも知っているから」
話が噛み合わない。
どこにでもいる幼稚園児ならそういうものかと受け流した。
でも、この子は違う。
ねえ、怖いよ。
「君は、何歳なの?」
もう一度、質問を投げかける。これで話のキャッチボールが出来なかったら彼のことをただの少年と思っていよう。
「僕にはね、年齢なんてないよ。姉ね達にはある誕生日も僕にはない。急に生まれて、ある程度大きくなったら仕事するの」
ちゃんと返事が返ってきてしまった。戸惑った。困った。
君は、少年なの? 死神なの?
「一旦最後の質問。あなたの名前は?」
咄嗟に出てきた質問。なんで飛び出したのか、わからない。
「うーん」
よりフードを深く被って考え込んでいる。
少しの隙間から見える口元は、歪んでいた。
「あのね、僕には名前がないの。だから、呼び方を聞かれても、答えれないんだよね」
悲しそうな顔をして話す姿。
たとえ死神だったとしても、私の目にはただの子供、幼稚園児ぐらいにしか見えていない。
だからか、悲しくなった。
胸がキュっと痛んだ。
「私が君の名前を付けてもいい?」
この子の悲しそうな表情を見たくないから。
誰かが泣く姿を見たくないから。
――たとえ自分がどれだけ多くの涙を流すことになったとしても。
「えっ、でも、僕まだ見習い死神だから名前持てない……」
また口を歪ませる。さっきまでの大人びた姿が今はない。
弱々しい、小さな子。小さな命。
「私が付けたいだけ。君は名前を持っているとは思わなくていい。私が君を呼ぶためだから」
「……じゃあ、欲しい」
頭にすぐ浮かんだ名前。
少し、躊躇した。
この漢字をこの子に付けることに。
いいかな?
誰も答えてくれないんだった。
「絃月、って名前はどう?」
サイドテーブルに置かれていた紙に書き、彼に見せる。
この名前の意味を、この子が知る必要はない。
「絃月、か。素敵な響き。僕が貰っていいの?」
「うん。よろしくね。絃月」
あれ?
泣いてる? 私。
「大丈夫? ほら」
小さな手で差し出してくるハンカチ。
受け取ろうとしたら手が通り過ぎて行った。
ハンカチの向こう側に。
「ごめん。忘れてた。姉ね達は僕のものに触れられないんだよね」
「そうなんだ」
触れようとしたあのハンカチの影はとても冷たかった。
そして、彼の体からも冷たさが伝わってくる。
生温い手のひらで涙を払い、必死で笑顔を作る。
「もう大丈夫。もう泣いていない」
「頬がまだ濡れてる」
私の頬で感じられる冷たさに棘は無かった。温かい。
頬を濡らしたものはもういなかった。
「じゃあ、帰るね。また来るから」
「待って。何しに来たの?」
こんなに早く帰ってしまうのに疑問を持った。
死神、なんだよね。
私を死なせてくれるんだよね?
そう思ったから、止めてしまった。
「今日は、挨拶に来ただけなの。ごめん。でも、まだ死んでほしくないから。今は帰る」
私の枕元に置かれたナースコールを押し、そのまま扉を開けて何処かへ行く。
背中を最後まで見つめてみた。
死神とは思えなかった。
突然現れて死神と、一瞬のように何処かへ帰ってしまった。
そんな謎秘めた顔がずっと離れなかった。
また会いたい。
死にたかったけど、そう思ってしまった。
殺してほしかったのに。
なんでよ。
会いたかった。会ったことの無いあの人に会いたかった。
もう二度と会うことのないあの人と重なる。顔も知らないのに。
会いたい。
死神と名乗っただけで目的を言い残さないまま消えた。
そういえば、私と繋がっていた多くの管がなくなっている。
自由になっている。
手も、足も動く。
だから、さっき紙に名前を書くこともできた。
「横見さん! 目、覚ましたんですね……」
若い女性の看護師さんが部屋に入ってきた。
眠っている間何度も聞いた声。まだ若いのに、疲れ切った顔をしている。私のせいでも、あるのかな。
眠っていた間は何も出来なかった。ずっと固まっていた。それなのに、今は硬直していた体が事故以前と同じように動く。
当たり前のように。
「ご家族呼んできますね」
また一人。
心がすり減っていくような感じがした。
一人を望んでいたはずなのに。
大きく開いているカーテン。
目に留まる美しい朝月夜。必死に顔を見せる繊月が朝を彩っている。
空の様子だと時刻は六時前ぐらいだろうか。
秋の夜明けは夏よりも少しばかり遅い。久々だった。こんなにきれいな空を見るのは。
家族はまだ起きていないだろうからしばらく一人きり。起きていても来てくれないかもしれない。
椅子に座って空を眺めていようかと、起き上がる。
固定された右足。包帯が巻かれた左腕。体中に残る傷。
椅子に座ることは諦めた。動けるとは言っても痛みは当然ある。やめておこう。
ベットから眺める空も十分綺麗だ。
「沙弥!」
勢いよく開いたドアから呆れるほど聞いてきたその声が聞こえた。
「良かった……。目覚めてくれて」
強く抱きしめられて胸が痛む。
「……ごめんなさい」
胸の奥から飛び出してきた言葉。耳元で小さく呟いた。この言葉が本心か本心じゃないのかは私にもわからない。
恐らく、――本心じゃない。
私は、この人に対して苛立ちを覚えていた。嫌い、という感情があった。
大きく首を振る振動が体に流れた。
二人分の体温は、暑苦しい。
優しさという鎖を切り、体を離した。
「ずっと待ってた。沙弥が起きてくれることを」
どんな顔をしていればいいのだろう。
***
些細なことだった。
毎日部屋で引きこもっていた。毎朝、私を高校に連れていくために起こしに来る。毎晩、晩御飯を部屋の前に置きに来る。
菓子で腹が膨れているから手は付けない。
あの日の晩御飯の置かれたお盆の上に置かれた一枚のメモ用紙。
『ちゃんとご飯食べてね』
……余計なお世話。
朝昼はきちんと食べているのだから。
小さな紙切れに苛立ちを覚え、気付いたら自室の窓から飛び降りていた。二階から、一階に。
床に平行につけた足に強い衝撃が流れたが、痛みなどどうでも良かった。
せっかくの機会だ。
手ぶらで身軽な体のままどこかで消えよう。誰かに見られながらいなくなるのは勘弁。
全力疾走。痛む足をかばいながらでも、何とか走れた。ただ、鈍っていた体には莫大な負担。
それでも走り続けた。
何もかも私には関係ない。
周りにいる人々も遠くにいる人々もすべてを包み込むこの世界ももう、味方ではないから。
隣接市に着いた。見慣れないその景色はあの場所より何倍も安心できた。
呼吸を整えるために散策してみた。
暖かな街灯は本来であれば優しいのだろうが、私には棘のように感じられた。
大きな家。あんな家で暮らせたらさぞ幸せなのだろう。
でも、もういいんだ。
すべてを振り切ろう。
もう終わりなんだから。
もう一回全力で風を切った。
流れる意味が分からない涙が止まらぬまま。
誰もいない夜の街に溶けていく私の涙。
口元に流れたその水は塩辛くて仕方がない。
この冷たい風よ、私の心を空っぽにしてくれ。
思い出を蘇らさせるこの涙を乾かしてくれないか。
これが最後だから。もう消えるのだから。
最期だけは楽にいたい。
消え去らない思いと涙。
また生きるなんてもう無理だ。
早く、早く。
信号機の無い横断歩道。白線を一つずつ踏みしめる。
辺りの光が私のことを包み込み、何処かへと誘おうとしている。
耳の中で強く反響するブレーキ音に足を止めた。
こちらへと向かってくる真っ白な光が視界を奪っていく。
白く染まった私の世界ではなすがままとなった。
鈍い衝突音が体中を巡り、痛みを引き起こした。
どこも動かせない。言葉が出ない。
微かに触れる生温い血液。気持ち悪くなって吐き出したくなる。
上手く呼吸ができない。苦しい。
目が自然と、閉じた。
大量の管に繋げて、固定して、人々は私のことを助けようとする。
助けられてしまった。拒みたくても、拒めなかった。
***
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