わたしたちのカノン 桜嵐に聴こえる不協和音~ジュ・トゥ・ヴー あなたが欲しい~
第三曲 歩み寄る甘やかな和音
次の日は音楽室が使えなかったから、あたしは真田先生にお願いして音楽準備室の鍵とヘッドホンを借りた。
楽器が並んだ狭い準備室の一角でヘッドホンをすれば、自分だけの世界に入れる。
ピアノがある家のほうが練習できるけれど、リラックスできる環境では暗譜が進まない。あたしの場合はね。
電気を消して。
カーテンを閉めて。
ヘッドホンから流れる曲に合わせて、指を宙に舞わせる。
まぶたの裏に、音符が浮かぶ。
ふしぎと、いつもより曲の甘やかさに身をゆだねられる気がした。
――あなたが欲しい
――私のすべてがあなたのものに
胸が苦しくなるほどの愛おしさに、身が焦がれる。
かっちりテンポを守るのではなく、自由に加減して揺らす奏法がぴったりな曲。
身をゆだねてしまえば、指は自然に動いた。いつの間にか、あたしのなかに曲が入り込んでいたみたい。
何度も何度もくり返しているうちに、またしても時間が経ってしまっていたらしい。
「おい」
ひょいっとヘッドホンをはずされ、あたしは「ぎゃああああっ」と大声を上げた。
「待てって、俺が不審者みたいやないか」
「なんだ、葉月くんか……」
ドキドキが止まらない心臓をおさえてそう言うと、葉月くんは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「あぁ、ちが……。不審者扱いしてごめんって」
「悪かったな、お望みの相手やなくて」
「? なんのこと?」
「なんでもない。ほら、帰る準備せぇ」
「もうそんな時間?」
カーテンを開けると、もう薄暗かった。とはいえ、昨日よりは遅くなっていないみたい。
「なんであたしがここにいるってわかったの?」
「頼まれたんや。真田先生に」
「真田先生に?」
「きっと遅くまで練習しとるやろうから、早めに切り上げさせて家まで送れって」
その依頼内容に驚いて、あたしは目を丸くした。
「いいよ! ひとりで帰れるし」
「ほんまは先生が家まで送れって頼まれたそうや」
「……ん? 誰に?」
「アンリ先輩に」
ああ、なるほど……。
昨日の相談からあたしの行動を予測できるなんて、アンリ先輩はシゴデキすぎる。
「で、先生は用事があるからって、俺に」
「うわぁ、それはほんとにゴメンナサイ……」
じゃあ早く帰らないと、葉月くんまで帰るのが遅くなっちゃうね。
とばっちりをくらった葉月くんにもうしわけなくて、あたしは急いで準備をした。
「なんで家で練習せぇへんの?」
自転車を押しながら歩調を合わせてくれるあきれ顔の葉月くんに覗き込まれ、あたしはうーんとうなった。
「集中できないから、かな。気がゆるんじゃう。気がついたらベッドで寝てる……」
「そらぁあかんわ」
葉月くんが軽快に笑った。
「家で思いっきり練習できんのはうらやましいけどな」
「あー、そっか。金管楽器はむずかしいか……」
「防音室があったらええんやけどなぁ」
「うちにあるよ?」
あたしが七歳のときに亡くなってしまったお父さんはピアニストだった。全然有名ではなかったけれど、小さな防音室をつくって毎日音を奏でていた。
去年まではお父さんの思い出を閉じ込めておくための閉ざされた場所だったけれど、最近になってあたしのピアノを置かせてもらえるようになったんだ。
「思いっきり吹きたくなったら来ていいよ」
「……いや、いい」
せっかく笑ってもらえたのに、葉月くんはまた苦い顔になってしまった。あれ? なんか変なこと言ったかな。
「……フェアやないからな」
ぽつりとこぼれ落ちた葉月くんのひとりごとのような言葉に、あたしはなんとなく納得した。
「ああ、金管五重奏の他のメンバーにもうしわけないってこと? 確かに5人で練習するには狭すぎるよね……ピアノあるし」
「ほんっっっと、そーいうとこ……」
「え、なに?」
「なんでもない」
ぷいっと顔をそむけられてしまった。
機嫌を損ねてしまったらしい。
「あ、じゃあ葉月くんはいつもどこで練習してるの? 屋上とかは知ってるけど。学校以外で」
「あー、公園とか?」
「公園!」
そういえば、学校の近くに大きな公園がある。
あたしたちが去年の夏休みにコンサートをやった野外音楽堂がある公園が。
イベントがない日は野外音楽堂の舞台は自由に使えるから、練習によさそう。
「いいなぁ! めっちゃ気持ちよさそう!」
「はは、めっちゃ気持ちええよ」
「いいなぁ、いいなぁ」
青空の下で思いきり演奏できるなんて、最高だよね。
遊びにきている子どもたちが集まってくれたりして、手拍子してくれたりなんかして。
サイコーだなぁ。
「桐野も来たらええやん」
「うーん、でもどうがんばってもピアノは持っていけないしなぁ」
「別になんもしなくても。そこにおってくれれば――」
「え?」
「……いや、なんでもない」
そっぽを向いた葉月くんの耳が赤く染まっているのを見て、あたしまでなんだか恥ずかしくなってきてしまった。
だめだだめだ、なんか調子がくるってしまう。
「あ、着いたよ」
あたしが自宅を指さすと、葉月くんはホッとしたような顔で足を止めた。
「ほいじゃ、お疲れさん」
「うん、ありがとう」
背を向けた葉月くんが、ひらひらと手を振ってくれた。
明日からは遅くならないようにしなくちゃね。
アンリ先輩にも真田先生にももうしわけない。
いろんな人に心配をかけて、それでもあたしは勝負に勝ちたいんだ。
その気持ちが、はっきりと形になった気がする。
(そういえば、最近全然九能くんに会ってないな……)
クラスが別になって、ピアノ三重奏の練習もなければ、こんなにも顔を合わせない関係なんだ。
その感情はちょっと寂しいものだったけれど。
今は、その気持ちを大事にしなければいけない気がした。
次の日は音楽室が使えなかったから、あたしは真田先生にお願いして音楽準備室の鍵とヘッドホンを借りた。
楽器が並んだ狭い準備室の一角でヘッドホンをすれば、自分だけの世界に入れる。
ピアノがある家のほうが練習できるけれど、リラックスできる環境では暗譜が進まない。あたしの場合はね。
電気を消して。
カーテンを閉めて。
ヘッドホンから流れる曲に合わせて、指を宙に舞わせる。
まぶたの裏に、音符が浮かぶ。
ふしぎと、いつもより曲の甘やかさに身をゆだねられる気がした。
――あなたが欲しい
――私のすべてがあなたのものに
胸が苦しくなるほどの愛おしさに、身が焦がれる。
かっちりテンポを守るのではなく、自由に加減して揺らす奏法がぴったりな曲。
身をゆだねてしまえば、指は自然に動いた。いつの間にか、あたしのなかに曲が入り込んでいたみたい。
何度も何度もくり返しているうちに、またしても時間が経ってしまっていたらしい。
「おい」
ひょいっとヘッドホンをはずされ、あたしは「ぎゃああああっ」と大声を上げた。
「待てって、俺が不審者みたいやないか」
「なんだ、葉月くんか……」
ドキドキが止まらない心臓をおさえてそう言うと、葉月くんは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「あぁ、ちが……。不審者扱いしてごめんって」
「悪かったな、お望みの相手やなくて」
「? なんのこと?」
「なんでもない。ほら、帰る準備せぇ」
「もうそんな時間?」
カーテンを開けると、もう薄暗かった。とはいえ、昨日よりは遅くなっていないみたい。
「なんであたしがここにいるってわかったの?」
「頼まれたんや。真田先生に」
「真田先生に?」
「きっと遅くまで練習しとるやろうから、早めに切り上げさせて家まで送れって」
その依頼内容に驚いて、あたしは目を丸くした。
「いいよ! ひとりで帰れるし」
「ほんまは先生が家まで送れって頼まれたそうや」
「……ん? 誰に?」
「アンリ先輩に」
ああ、なるほど……。
昨日の相談からあたしの行動を予測できるなんて、アンリ先輩はシゴデキすぎる。
「で、先生は用事があるからって、俺に」
「うわぁ、それはほんとにゴメンナサイ……」
じゃあ早く帰らないと、葉月くんまで帰るのが遅くなっちゃうね。
とばっちりをくらった葉月くんにもうしわけなくて、あたしは急いで準備をした。
「なんで家で練習せぇへんの?」
自転車を押しながら歩調を合わせてくれるあきれ顔の葉月くんに覗き込まれ、あたしはうーんとうなった。
「集中できないから、かな。気がゆるんじゃう。気がついたらベッドで寝てる……」
「そらぁあかんわ」
葉月くんが軽快に笑った。
「家で思いっきり練習できんのはうらやましいけどな」
「あー、そっか。金管楽器はむずかしいか……」
「防音室があったらええんやけどなぁ」
「うちにあるよ?」
あたしが七歳のときに亡くなってしまったお父さんはピアニストだった。全然有名ではなかったけれど、小さな防音室をつくって毎日音を奏でていた。
去年まではお父さんの思い出を閉じ込めておくための閉ざされた場所だったけれど、最近になってあたしのピアノを置かせてもらえるようになったんだ。
「思いっきり吹きたくなったら来ていいよ」
「……いや、いい」
せっかく笑ってもらえたのに、葉月くんはまた苦い顔になってしまった。あれ? なんか変なこと言ったかな。
「……フェアやないからな」
ぽつりとこぼれ落ちた葉月くんのひとりごとのような言葉に、あたしはなんとなく納得した。
「ああ、金管五重奏の他のメンバーにもうしわけないってこと? 確かに5人で練習するには狭すぎるよね……ピアノあるし」
「ほんっっっと、そーいうとこ……」
「え、なに?」
「なんでもない」
ぷいっと顔をそむけられてしまった。
機嫌を損ねてしまったらしい。
「あ、じゃあ葉月くんはいつもどこで練習してるの? 屋上とかは知ってるけど。学校以外で」
「あー、公園とか?」
「公園!」
そういえば、学校の近くに大きな公園がある。
あたしたちが去年の夏休みにコンサートをやった野外音楽堂がある公園が。
イベントがない日は野外音楽堂の舞台は自由に使えるから、練習によさそう。
「いいなぁ! めっちゃ気持ちよさそう!」
「はは、めっちゃ気持ちええよ」
「いいなぁ、いいなぁ」
青空の下で思いきり演奏できるなんて、最高だよね。
遊びにきている子どもたちが集まってくれたりして、手拍子してくれたりなんかして。
サイコーだなぁ。
「桐野も来たらええやん」
「うーん、でもどうがんばってもピアノは持っていけないしなぁ」
「別になんもしなくても。そこにおってくれれば――」
「え?」
「……いや、なんでもない」
そっぽを向いた葉月くんの耳が赤く染まっているのを見て、あたしまでなんだか恥ずかしくなってきてしまった。
だめだだめだ、なんか調子がくるってしまう。
「あ、着いたよ」
あたしが自宅を指さすと、葉月くんはホッとしたような顔で足を止めた。
「ほいじゃ、お疲れさん」
「うん、ありがとう」
背を向けた葉月くんが、ひらひらと手を振ってくれた。
明日からは遅くならないようにしなくちゃね。
アンリ先輩にも真田先生にももうしわけない。
いろんな人に心配をかけて、それでもあたしは勝負に勝ちたいんだ。
その気持ちが、はっきりと形になった気がする。
(そういえば、最近全然九能くんに会ってないな……)
クラスが別になって、ピアノ三重奏の練習もなければ、こんなにも顔を合わせない関係なんだ。
その感情はちょっと寂しいものだったけれど。
今は、その気持ちを大事にしなければいけない気がした。