執行猶予の恋人
1
その人に声を掛けたのは、逆ナンとかそう言うつもりは微塵もなかった。
ただ、雨に濡れて、酒に酔ってどこか惚けた横顔が、とても綺麗で放っておけなく思えて。
私もその時は、付き合っていた彼氏に『急な打ち合わせが入った』とすっぽかしをくらって、
雨の中で行き場を失った彼が、まるで仲間のように思えたから、
なのかもしれない。
金曜日の夜21時。
公園のベンチには、不釣り合いな影が一つあった。
激しい雨が降り注いでいるのに、傘もささず、高級そうなスーツを濡れるに任せている男。
足元には空になったストロング缶が転がり、彼は虚ろな目で、雨に打たれる紫陽花をただぼんやりと見つめていた。
普通なら「関わってはいけない人」だと本能が警告して、通り過ぎるはずだった。
でも、街灯に照らされたその横顔があまりに悲痛で、そして硝子細工のように繊細に見えて、私は足が動いてしまった。
「……あの」
私が差し出したビニール傘が、彼に落ちる雨を遮る。
雨音が変わり、彼はゆっくりと、スローモーションのように顔を上げた。
焦点の合わない瞳。濡れた前髪の隙間から覗くその目は、この世のすべてに絶望しているようだった。
「……なんだ、君は」
酒焼けした低い声。けれど、威圧感はなかった。ただただ、疲弊していた。
「風邪、ひきますよ。こんなところで座ってたら」
「……構わない。冷えれば、思考が止まる」
彼はふっと笑った。自虐的で、それでいてひどく色気のある笑みだった。
「死ぬまでの暇つぶしに、風邪をひくのも悪くない」
穏やかな口調で「死」という単語を口にする彼に、私は息を呑む。
けれど、不思議と怖さはなかった。
今の私には、彼のその「投げやりな寂しさ」が、痛いほど理解できてしまったから。
「……私と、同じですね」
「あ?」
「私も今、ひとりぼっちなんです。彼氏にドタキャンされちゃって」
私は彼の隣――濡れたベンチの端に、ハンカチを敷いて座った。
彼は「正気か?」という顔で私を見る。
「大事な商談が長引いてるんだって、彼が。……嘘だってわかってるんですけどね。最近、いつもスマホを隠してるし」
誰かに聞いてほしかった愚痴が、初対面の、しかも死にたがりの男相手にするりと溢れ出る。
私の言葉を聞いた男は、濡れた髪をかき上げ、深くため息をついた。
「……おめでたい女だ」
「え?」
「商談じゃない。そいつは今頃、別の女でも見つけて舌なめずりをしている最中だ」
酔っているはずなのに、彼の言葉は鋭利なナイフのように的確だった。
「なんで……そんなひどいこと言うんですか」
「事実だからだ。……男が『急な仕事』と言う時、その9割はただの浮気か、やましい用事だ。俺も昔、よく使った言い訳だからな」
彼は悪びれもせず言い放つと、私の手から傘をひったくった。
「貸せ」
「あ……」
「君が濡れてる。……バカな女だ、見ず知らずの酔っ払いに傘を差して、自分が濡れるなんて」
彼は乱暴に、けれど確実に私が濡れない位置に傘を傾けた。
冷たい雨の中で、その不器用な優しさだけが温かかった。