お兄ちゃんモノ
1
ルリは病室で待っていた。月に一度通っている。この穢祓禊木(えはらいみそぎ)記念病院は12年前、ルリが引き取られていった穢祓禊木家が運営している。
「穢祓禊木さん」
看護師に呼ばれ、彼女は診察室へと入っていく。
「お願いします」
引戸を閉じる。椅子を勧められ、ルリは腰を下ろした。
「調子はいかがですか」
彼女の主治医はカキザキという。20代半ばで、色の白い、長身痩躯の儚げな男だった。
「悪くありません」
いつもどおりのやりとりだ。下瞼を捲り、喉奥を診て、聴診器を当てられる。そして、カプセル型の装置のなかに入る。蓋が閉まると、透過性のあった素材が短時間で曇る。温かくも冷たくもない霧に視界が包まれ、所在なく彼女は目を瞑る。
ルリは身体が悪いそうだ。そのための検査をしているのだという。
カプセルが傾き、蓋が開く。霧が漏れ、視界が開けた。
「数値は安定しているね」
紙を持ったカキザキ先生が傍にやって来る。
「お父様にもこのデータを送っておくよ」
何の数値で、それが何を意味するのか、ルリは知らない。父母も教えはしなかった。また彼女もカキザキ先生に訊きはしなかった。"先生の言うことには素直に頷いていればいい"と父は言っていた
「ありがとうございました、カキザキ先生」
ルリは書類を受け取るとカプセルを出た。
「暗いから、足元に気を付けて」
彼女の出入りする診察室は、穢祓禊木記念病院の地下研究所にあった。照明がまともに機能せず、柱よろしく床から生えた円柱型の培養槽が不健康な清涼飲料水を思わせる蛍光色が光源の役割を果たしてもいた。
部屋を出ると、閉鎖的な昼白色の廊下に出る。時間感覚の分からなくなる空間だ。
エレベーター乗り場へ向かっていると、床に尻を付けて座っている真っ白な人物が目に入った。髪も肌も服も、すべてが白い。ひとつだけ白くないものがあった。機械質なチョーカーは金属製の色味をしている。肉感の薄さや体格から、少年のように思えた。彼は壁に数式を書いている。脇目も振らない。油性インクの数字と記号が線路よろしく伸びている。
この病院で保護している子供だろう。
少年の後ろを通り抜けた。
エレベーターに乗り外へ出ると、曇天の眩しさで彼女は腕を掲げた。
「柳鯉(るり)」
ルリは腕の陰から声のしたほうを覗いた。背の高い、眼鏡の男性が立っている。スーツは彼の体格に寄り添い、長身を際立たせ、実際の肉付きよりも華奢に見せる。
「花郁(かい)お兄さん!」
ルリは駆け寄った。長い四肢が開く。抱きつくつもりはなかった。けれども飛び込み先ができてしまえば、彼女の身体は一瞬浮いた。
「走ったら危ないだろう?」
彼のスーツからは人工的な薔薇の香りがする。穢祓禊木(えはらいみそぎ)カイ-花郁-はルリの長兄だ。
「うふふ、嬉しくて……」
平生(へいぜい)は冷徹な印象を与える長兄の眼差しがまろむ。
「身体は大丈夫か」
「先生は、問題ないっておっしゃられていました」
「そうか。よかった」
大きな掌が肩に乗る。
「帰ろう。みんな待ってる」
穢祓禊木家は、元は5人兄妹だった。ルリには上に3人兄がいて、下に1人、妹がいたのだという。この一番下の妹は生まれながらに病を患い、今現在、遠方の病院で治療をしているのだというから、ルリは家族の情愛を一身に受けた。彼女もまた、妹のサクラよりも健康ではあるとはいえ、通院を要する身の上なのだから家族の情愛はいっそう強まる。何よりも、ルリが施設に預けられていたのは誘拐事件に巻き込まれていたためだというのだから、父母や兄たちの気苦労を思えば、彼等の情を受け止めるのはルリにとって義務なのだ。
穢祓禊木宅の玄関を開ける。居間から足音が聞こえた。
「おかえりなさい」
次兄が出てきた。撫で肩で猫背が小柄な感じを与える。俯きがちな顔が持ち上がる。顔半分、肌が変色していた。質感も異なっている。片足を引き摺って歩くのも、幼少期の彼の身に降りかかった災難のためだろう。
「ただいま帰りました」
長兄が肩を叩く。
「俺は部屋にいるから、何かあったら遠慮なく来なさい」
彼は早々に自室へ向かっていった。
「病院、何ともなかった?」
次兄のミウは妹の機嫌を窺っている。
「はい。"数値は安定している"って」
「カキザキ先生はすごい先生だからね。カキザキ先生の言うこと、よく聞くんだよ」
次兄のミウの全身大火傷の跡を顔半分にまで治し、四肢が麻痺するところを片足が跛行する程度にまで回復させたのはカキザキ先生だった。
「同い年なのに、カキザキ先生はすごいなぁ……それなのに、ぼくは……」
丸まった背中がさらに丸まる。これは火傷の後遺症ではない。
「美雨(みう)兄さんには、美雨兄さんの、カキザキ先生にはカキザキ先生の務めがあります。わたしは美雨兄さんの優しいところが好きですよ」
猫背を摩すり、居間へと促す。
「ありがとう、柳鯉。ぼくも柳鯉がだ、だ、だ、大好きだよ」
次兄は屋内に守られた色白の面を朱に染めた。
「ケーキを作ったんだ。食べよう。花郁にも一切れ持っていってあげてくれる?」
「ええ、もちろん」
容貌のためか、次兄は内向的だった。あまり家の外には出ず、在宅で事の足りる仕事に就き、休みの日は料理や菓子を作って過ごしていた。
「倫於(リオ)くんはいないんですか」
「倫於はデートだって」
三兄は特定の交際相手がいるわけではなかった。不特定多数と同時に交際しているらしい。広く浅い関係に甘んじているようだ。
「美雨兄さんのケーキ美味しいのに、惜しかったですね」
「エヘヘ……倫於の分は、柳鯉が食べていいよ」
次兄が冷蔵庫から取り出したのはルリの好きなサワークリームのチーズケーキだった。ナイフ捌きには彼の卑屈さは顕れない。
切り分けたケーキの皿を渡され、ルリは長兄の部屋へ向かった。
「花郁お兄さん」
部屋の扉を叩くと、奥から入室の許可が降りた。
「お邪魔します」
殺風景な部屋が現れる。広い面積は風通しをよくするためであり、物を置き、飾り立てるためではないようだ。実用性を重視された部屋だが、窓辺にはルリの贈ったぬいぐるみだの指人形だのが並んでいる。
長兄はノートPCを閉じ、椅子をルリのほうへ向けた。
「美雨兄さんがケーキを作ってくださいました」
尖鋭な感じのする顔立ちに、穏やかな表情が灯る。
デスクの上に皿を置く。
「そうか。ありがとう。美雨にも、ごちそうさまと伝えておいてくれ」
「はい」
居間に戻ると、次兄が紅茶を淹れて待っていた。
「お待たせしました」
「さぁ、食べよう」
「花郁お兄さんが、ごちそうさまって」
「エヘヘ、よかった。ぼくにできることって、これくらいしかないから……」
次兄は否定を求めているわけではないようだった。本心からそう言っているようだった。大火傷を負う前の次兄をルリは知らない。けれども彼女には、この卑屈な性格は生まれながらのものではないように思えた。
火傷の跡が消え失せれば、本来の気質を取り戻せるのであろうか。


