Bella Notte
 『これ、楓じゃない?』

 心臓が、不安と緊張で跳ねてうるさいくらいに高鳴る。
 報道の波紋は静かに、しかし確実に楓の生活を飲み込もうとしていた。

 ホテルのスイートは異空間のように静かで、桜井が手配したその部屋は都心を見下ろす高層階の隅にあり、香りも音もすべてが楓を包み込むように設えられていた。

 ふと楓の体を包み込む腕が優しく後ろから伸びてくる。
 「楓、ただいま」
 そういってほほ笑む顔には、少しだけ疲れが見える。
 泣きそうになるのを抑えて。
 「おかえり、桜井。お疲れ様」
 そういうのが精いっぱい。

 そばに座り、彼女の手に触れることなくこう呟く。
 「……俺、たぶんキャリア捨ててもいいと思ってる」

 その声は、甘い夜の中にあるのに確かに決意した、力のある声。

 誰よりも楓の表情を見てきた桜井は、それを守りたいと願っていた。
 けれど楓は、答えられない。
「ごめん」も「嬉しい」も——。

 ふと苦しくなって視線を逸らして見つめる窓の外では、車のテールランプが点と線を描いていた。
 楓はその光を見つめながら、自問する。
 
(どうしたらいいのか分からない、だけど、頷いてはいけないのだけは分かる)

 桜井が再び電話に呼ばれて立ち上がり部屋の奥へと消えていった。
 そして部屋にひとり残された楓は、ソファに膝を抱えた。
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