【書籍化】つまらない女だと婚約破棄されましたが、浮気男はこっちから願い下げです〜行き遅れた秀才令嬢は、天才侯爵に溺愛されるようです

19.クリスの孤独と良き友と、私?


「クリスは結構苦労人でね。研究成果を奪われそうになった件もそうだけど、幼い頃に両親が亡くなってさ。その後すぐに、信頼していた使用人に資産を持ち逃げされそうになったんだ」

「…………」

 クリスの過去に、ミラは思わず息を飲んだ。

 誰かに裏切られたのは一度ではなかったのだ。彼の心を思うと、胸が苦しくなる。

「クリスが人間不信気味になったのは、その頃かららしい。人を信じられず、常に相手の表情を伺い、自分に害を与える存在かどうか見極めながら生きてきた。だから、人の感情には誰よりも敏感でさ」

 両親を失ってから、クリスはずっと孤独だったのかもしれない。幼い少年が、常に人を疑いながら生きることを強いられるなんて、あまりにも酷な話だ。

 クリスが普段から仏頂面で愛想が無いのも、他人に心を許さず過ごしてきたからなのだろう。

「それなのに優秀すぎるせいで、周囲から妬まれたり敬遠されたりして。本人は平気なふりをしてたけど、きっとつらかったと思うよ。自分を理解してくれる人がいないっていうのは、やっぱり寂しいものでしょう?」

 そう言って、シリウスは泣き笑いを浮かべていた。クリスの親友として、思うところがあるのだろう。

 一部の研究者にとって、クリスは嫉妬の対象だ。

 いくら努力しても絶対に追いつけない圧倒的な天賦の才。いくらあがいても絶対に埋まらない天才と凡才の差。それに気づいた研究者は、クリスを尊敬し崇めるか、嫉妬し敬遠するかのどちらかだった。

 この大学には、その割合が半々といったところだろうか。

 しかしクリスには、友がいる。シリウスの存在が、きっと彼の心を救ったはずだ。

「じゃあ先生にとっては、シリウス殿下が唯一の理解者ですね」

 シリウスは意外なことを言われたかのように目を丸くしたあと、嬉しそうにふわりと微笑んだ。金色の瞳が、ゆるく弧を描く。

「そうだといいな」

「きっとそうです。殿下と一緒のときの先生は、少し雰囲気が柔らかい気がしますもの」

「それを言うなら君もだよ、ミラ嬢。君と出会ってからのクリスは、とても楽しそうだ」

(楽しそう……?)

 クリスはミラといる時、基本的に仏頂面で、笑ったりしない。

 ミラ以外の人間といる時の方が、確かに無愛想に拍車がかかっているものの、ミラといる時だけ特別楽しそうにしているとも思えない。

 シリウスの言葉が腑に落ちず首を傾げていると、彼は「さてと」と言って立ち上がった。

「それじゃあ、僕はもう行くよ」

「先生への用事はよろしいのですか?」

「うん。緊急の用じゃないしね。クリスが元気になってからまた来るさ」

 そしてシリウスは去り際に、今後の対応について二、三言ミラに伝えてから部屋を出ていった。

 ロイド侯爵家への連絡は、シリウスがしてくれるとのことだ。クリスが動けるようになったら迎えを寄越すよう伝えてくれるらしい。シリウスは今の状態のクリスを運ぶのは得策ではないと判断し、まずは彼の回復を待つことにしたようだ。

 シリウスからは、そのうち目覚めるだろうから適宜帰るように言われたが、倒れたクリスを放っておく気にもなれず、ミラは彼の看病に(いそ)しんだ。

 額に乗せられた布を魔法でこまめに冷やしたり。彼が目覚めた時に食べられるものを食堂で用意してもらったり。

 色々と忙しなく動き回っていると、気づけばすっかり日が落ちていた。流石にお腹が空いたので、食堂で作ってもらった自分用の夜食を頬張っていると、クリスがとうとう目を覚ました。

 彼はわずかに首を動かしミラの存在に気づくと、ぼんやりとした視線を向けてきた。

「…………ミラか?」

 クリスの声はひどくかすれていた。ミラは慌てて口の中のものを飲み込み、彼に水を差し出す。コップを受け取った彼はゆっくりと体を起こすと、一口、また一口と水を飲み干していった。

 しばらく眠ったおかげか、クリスの顔色は随分と良くなっている。しかし頭が痛むのか、顔を顰めて額に手を当てていた。

「俺は……倒れたのか……?」

「そうですよ。本当、びっくりしたんですから。教授室で倒れていたところを、シリウス殿下がここまで運んでくださったんです」

「シリウスが? 来てたのか、あいつ」

「ええ。で、何日寝てなかったんです?」

 ミラがジトリとした視線を送ると、クリスは目を逸らしバツが悪そうに答えた。

「……たった三日だ」

「普通の人は三日も寝なかったら倒れるんです。先生は頭は常人でなくとも、体は普通の人と同じなんですから、ちゃんと寝てください」

「……迷惑をかけてすまなかった」

 素直に謝るクリスがなんだかいつもより幼く見えて、ミラは少し微笑ましくなった。そんなことを本人に言えば、確実に機嫌を損ねるから言わないが。

「待っててください。今スープを温めてきますので。少し食べてから薬を飲みましょう」

 ミラはそう言うと、一度仮眠室から出て給湯室に向かった。

 研究棟にある給湯室は、ちょっとした調理くらいはできるほど整っている。食堂で作ってもらったスープ入りの鍋を火にかけ温め直した後、再び仮眠室に戻ると、クリスはベッドから抜け出し椅子に座っていた。

「横になってなきゃだめじゃないですか」

 ミラはそう言って窘めながら、両手に持っていた鍋をテーブルに置き、皿にスープをよそう。クリスの顔色は随分と良くなったが、まだ熱は高そうだ。息遣いが荒い。

 ミラは彼の隣に座り、皿を渡した。

「もう大丈夫だ。色々と世話をしてくれて助かった。感謝する」

 クリスはスープ皿を受け取ると、一気にそれを平らげ、続けざまに薬を飲んだ。急いでいるところを見るに、どうやら彼は仕事に戻ろうとしているようだ。

 案の定、食器を片付けて出ていこうとしているクリスに、ミラは呆れとやるせなさを感じた。

「先生。やっぱり事務仕事は私にやらせてください」

「前にも言ったはずだ。俺はお前に雑務をやらせたくて雇ったわけではないと」

 彼は片付けの手を止めることも、こちらを見ることもなくそう答えた。ミラは心がきゅっと締め付けられるように切なくなり、思わず胸に手を当て、感情のままに言い返す。

「絶対に研究をおろそかにはしませんから! 少しくらい……少しくらい、先生が背負ってるもの、分けてください……」

 その言葉に、クリスはようやく手を止め、ミラに視線を向けた。

 ほのかな明かりに照らされた彼の表情には、驚きと気まずさと、わずかな動揺が混じっている。その瞳の奥が揺れているように感じたが、一瞬すぎてわからなかった。

 しばしの沈黙が流れたあと、ミラは堪えきれなくなり声を絞り出す。
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