なつかしい桜の中で、君を感じた
祭り当日。
朝からそわそわしていた私は、時計を何度も確認しながら支度を始めた。
今日のために選んだ浴衣は、柔らかなピンク地に白と薄紅の桜模様が散った、可愛らしい一着だ。
慣れない手つきで袖を通し、濃いピンクの帯を結ぼうとするけれど、思うようにいかない。何度もやり直し、ようやく形になったころには、額にうっすら汗がにじんでいた。
「よし、次は髪……」
鏡の前で髪をまとめ、お団子にしてピンで留める。
仕上げに小さな花の飾りを添えると、鏡の中の私はいつもより少しだけ大人びて見えた。思わず、頬がゆるむ。
――いい感じ。
自分にそう言い聞かせながら全身をチェックする。
春樹は、どんな顔をするだろう。
そう考えただけで、胸の奥がふわりと温かくなった。
草履に履き替え、巾着袋にハンカチと小さな財布を入れる。
玄関を出ると、夏の夕暮れが広がっていた。
赤く染まる空、淡く浮かぶ月。遠くから聞こえてくる太鼓の音と賑やかな声が、祭りの始まりを告げている。
歩くたびに胸が高鳴り、気づけば足取りも軽くなっていた。
楽しみ、楽しみ。
心の中で何度も繰り返しながら、屋台の明かりを目指す。
約束の公園には、少し早く着いてしまった。
春樹は花火の場所取りのため、先に会場へ向かっている。だから今日は現地集合だ。
浴衣の裾を整えながら周囲を見渡すけれど、まだ春樹の姿はない。
「……早すぎたかな」
ベンチに腰を下ろすと、夕暮れの風が涼しく頬を撫でた。
遠くで鳴る祭囃子を聞きながら、私は今日をどれほど楽しみにしていたかを思い出す。
浴衣姿を見せることも、花火を一緒に見ることも。
全部が、楽しみで仕方なかった。
時計を見る。
約束の時間までは、まだ少しある。
それなのに、その“少し”が待ちきれなくて、私は携帯を取り出した。
「まだかな……」
送ったメッセージに、返信はない。
――ちゃんと、いい場所取れてるかな。
しかし、約束の時間を過ぎても、春樹は現れなかった。
あたりは次第に暗くなり、街灯の明かりがぼんやりと公園を照らし始める。
携帯を取り出し、もう一度メッセージを送る。
画面は、相変わらず静かなままだった。既読の文字はつかず、通知もない。
その無音が、じわじわと心を暗くしていく。
どれくらい待ったのだろう。
遠くから祭りの喧騒が聞こえ、空にはぽつりと星が瞬き始めていた。
――ドン。
腹の奥に響くような大きな音とともに、最初の花火が打ち上がる。
「……花火……」
思わず振り返り、夜空を見上げた。
暗闇に咲いた大輪の光が、ゆっくりと広がり、淡く私の顔を照らす。
――きれい。
そう思ったはずなのに、その光の中に、春樹の姿はなかった。
どうして来ないの?
何かあったの?
考えれば考えるほど、不安と寂しさが心を満たしていった。
「……春樹、どこにいるの?」
小さく漏れた声は、夜風に溶けて、どこにも届かない。
空では次々と花火が咲き、華やかな音と光が夜を彩っていく。
そのたびに、私だけが取り残されていくような気がした。
私はただ立ち尽くし、咲いては消えていく花火を見つめる。
楽しみにして選んだ浴衣も、髪につけた花の飾りも、今はただ虚しく感じた。
夜空に咲いては散る光の花は、あまりにも綺麗で――そのたびに、胸が痛んだ。
何度目かわからないほど、心の中で春樹の名前を呼ぶ。
携帯を見ても、残っているのは送信したメッセージと電話履歴だけ。既読はつかず、連絡は一度もなかった。
やがて、最後の一発が夜空を彩り、その余韻とともに音が消えていく。
ほんのり明るかった空は闇に溶け、風の音と虫の声だけが公園に残った。
私は、その静けさの中で、ひとり立ち尽くしていた。
「終わっちゃった……」
期待でいっぱいだった時間が、ゆっくりと寂しさに塗り替えられていく。
さっきまで響いていた祭りの喧騒も、花火の轟音も、今では遠い幻のようだった。
それでも、春樹を責めきれない自分がいた。何か理由があったのかもしれない――家に行ってみようかな。
気持ちを切り替えようと立ち上がると、草履の音がやけに大きく響き、その音が私の孤独を際立たせた。
祭りが終わったあとの公園を、私はひとり歩き出す。
自分の足音だけが、小道に虚しく響いていた。
「……えっ」
そのとき、遠くから話し声が聞こえ、思わず足を止める。
公園の入り口付近に見えたのは――春樹だった。
友達と楽しそうに話しながら歩くその姿を見た瞬間、胸の奥に溜め込んでいた怒りと悲しみが、一気に込み上げる。
「……春樹」
かすれた声は夜風に消え、春樹には届かない。
やがて春樹は友達に別れを告げ、公園の中へと入ってきた。
そして、私の姿に気づいた瞬間、ぴたりと足を止める。
「……咲良?」
目を見開き、戸惑いを隠せない表情で近づいてくる春樹。
私はその場から動けず、ただ春樹を見つめることしかできなかった。
「なんで、ここに……?」
その言葉を聞いた瞬間、抑え込んでいた感情が、言葉になって溢れ出す。
「なんでって……私と約束してたでしょッ! 今日、一緒に祭りに行こうって――!」
その言葉を聞いた瞬間、春樹の表情が、驚きから困惑へ、そして後悔へと静かに移ろっていくのがわかった。
「……え?」
眉を寄せ、何かを思い出そうとするように視線を彷徨わせる。そして、焦ったように口を開いた。
「ごめん……本当に、ごめん!」
その一言で、胸の奥に溜めていたものが一気に熱を帯びる。
私は溢れそうになる涙を、必死にこらえた。
「……忘れてたの……?」
震える声で問いかけると、春樹は答えられず、視線を逸らした。
それが答えだと、すぐにわかってしまった。
「ずっと、待ってたのに……」
春樹は何度も口を開きかけては、何も言えずに閉じる。
その沈黙が、何よりも苦しかった。
「楽しみにしてたの、私だけだったんだね」
その言葉に、春樹は苦しそうに顔を歪める。
「違う、咲良……俺……」
言いかけたまま、言葉は続かない。
その姿を見ているうちに、胸の奥に、どうしようもない不安が広がっていく。
涙をこらえきれず、思わず口をついて出た。
「……春樹、本当に……私のこと、好き?」
自分でも驚くほど、か細く震えた声だった。
言葉を放った瞬間、後悔が押し寄せる。
春樹は、ただ私を見つめていた。
迷いが浮かんだ瞳。けれど、何も言わない。
その沈黙に耐えきれなくなり、私は逃げるように言ってしまった。
「……もういい。別れよう」
言葉が、勝手にこぼれ落ちた。
その瞬間、春樹の目が大きく見開かれる。
どこか傷ついたような顔をした。
でも、それはほんの一瞬だった。
春樹はゆっくりと表情を曇らせ、静かにうなずく。
「……わかった」
短く、それだけだった。
「……本当に……わかったの?」
私が欲しい言葉はそんなんじゃなかった。
消え入りそうな声で尋ねても、返ってきたのは、小さな頷きだけだった。
その無表情が、何よりも冷たく感じられる。
私は拳をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。
心の中で、何かが音を立てて崩れていく。
少しの沈黙のあと、私は何も言わず、その場を去った。
背中越しに春樹の気配を感じたけれど、追いかけてくることも、声をかけられることもなかった。
静かな夜道を、ひとりで歩く。
涙が、止めどなく頬を伝う。
――ただ「好きだ」と言ってくれれば。
――追いかけてきてくれたなら。
それだけで、よかったのに。
本当に、これでよかったの?
何度問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、春樹の沈黙と、「わかった」という言葉だけが、いつまでも胸に残っていた。
朝からそわそわしていた私は、時計を何度も確認しながら支度を始めた。
今日のために選んだ浴衣は、柔らかなピンク地に白と薄紅の桜模様が散った、可愛らしい一着だ。
慣れない手つきで袖を通し、濃いピンクの帯を結ぼうとするけれど、思うようにいかない。何度もやり直し、ようやく形になったころには、額にうっすら汗がにじんでいた。
「よし、次は髪……」
鏡の前で髪をまとめ、お団子にしてピンで留める。
仕上げに小さな花の飾りを添えると、鏡の中の私はいつもより少しだけ大人びて見えた。思わず、頬がゆるむ。
――いい感じ。
自分にそう言い聞かせながら全身をチェックする。
春樹は、どんな顔をするだろう。
そう考えただけで、胸の奥がふわりと温かくなった。
草履に履き替え、巾着袋にハンカチと小さな財布を入れる。
玄関を出ると、夏の夕暮れが広がっていた。
赤く染まる空、淡く浮かぶ月。遠くから聞こえてくる太鼓の音と賑やかな声が、祭りの始まりを告げている。
歩くたびに胸が高鳴り、気づけば足取りも軽くなっていた。
楽しみ、楽しみ。
心の中で何度も繰り返しながら、屋台の明かりを目指す。
約束の公園には、少し早く着いてしまった。
春樹は花火の場所取りのため、先に会場へ向かっている。だから今日は現地集合だ。
浴衣の裾を整えながら周囲を見渡すけれど、まだ春樹の姿はない。
「……早すぎたかな」
ベンチに腰を下ろすと、夕暮れの風が涼しく頬を撫でた。
遠くで鳴る祭囃子を聞きながら、私は今日をどれほど楽しみにしていたかを思い出す。
浴衣姿を見せることも、花火を一緒に見ることも。
全部が、楽しみで仕方なかった。
時計を見る。
約束の時間までは、まだ少しある。
それなのに、その“少し”が待ちきれなくて、私は携帯を取り出した。
「まだかな……」
送ったメッセージに、返信はない。
――ちゃんと、いい場所取れてるかな。
しかし、約束の時間を過ぎても、春樹は現れなかった。
あたりは次第に暗くなり、街灯の明かりがぼんやりと公園を照らし始める。
携帯を取り出し、もう一度メッセージを送る。
画面は、相変わらず静かなままだった。既読の文字はつかず、通知もない。
その無音が、じわじわと心を暗くしていく。
どれくらい待ったのだろう。
遠くから祭りの喧騒が聞こえ、空にはぽつりと星が瞬き始めていた。
――ドン。
腹の奥に響くような大きな音とともに、最初の花火が打ち上がる。
「……花火……」
思わず振り返り、夜空を見上げた。
暗闇に咲いた大輪の光が、ゆっくりと広がり、淡く私の顔を照らす。
――きれい。
そう思ったはずなのに、その光の中に、春樹の姿はなかった。
どうして来ないの?
何かあったの?
考えれば考えるほど、不安と寂しさが心を満たしていった。
「……春樹、どこにいるの?」
小さく漏れた声は、夜風に溶けて、どこにも届かない。
空では次々と花火が咲き、華やかな音と光が夜を彩っていく。
そのたびに、私だけが取り残されていくような気がした。
私はただ立ち尽くし、咲いては消えていく花火を見つめる。
楽しみにして選んだ浴衣も、髪につけた花の飾りも、今はただ虚しく感じた。
夜空に咲いては散る光の花は、あまりにも綺麗で――そのたびに、胸が痛んだ。
何度目かわからないほど、心の中で春樹の名前を呼ぶ。
携帯を見ても、残っているのは送信したメッセージと電話履歴だけ。既読はつかず、連絡は一度もなかった。
やがて、最後の一発が夜空を彩り、その余韻とともに音が消えていく。
ほんのり明るかった空は闇に溶け、風の音と虫の声だけが公園に残った。
私は、その静けさの中で、ひとり立ち尽くしていた。
「終わっちゃった……」
期待でいっぱいだった時間が、ゆっくりと寂しさに塗り替えられていく。
さっきまで響いていた祭りの喧騒も、花火の轟音も、今では遠い幻のようだった。
それでも、春樹を責めきれない自分がいた。何か理由があったのかもしれない――家に行ってみようかな。
気持ちを切り替えようと立ち上がると、草履の音がやけに大きく響き、その音が私の孤独を際立たせた。
祭りが終わったあとの公園を、私はひとり歩き出す。
自分の足音だけが、小道に虚しく響いていた。
「……えっ」
そのとき、遠くから話し声が聞こえ、思わず足を止める。
公園の入り口付近に見えたのは――春樹だった。
友達と楽しそうに話しながら歩くその姿を見た瞬間、胸の奥に溜め込んでいた怒りと悲しみが、一気に込み上げる。
「……春樹」
かすれた声は夜風に消え、春樹には届かない。
やがて春樹は友達に別れを告げ、公園の中へと入ってきた。
そして、私の姿に気づいた瞬間、ぴたりと足を止める。
「……咲良?」
目を見開き、戸惑いを隠せない表情で近づいてくる春樹。
私はその場から動けず、ただ春樹を見つめることしかできなかった。
「なんで、ここに……?」
その言葉を聞いた瞬間、抑え込んでいた感情が、言葉になって溢れ出す。
「なんでって……私と約束してたでしょッ! 今日、一緒に祭りに行こうって――!」
その言葉を聞いた瞬間、春樹の表情が、驚きから困惑へ、そして後悔へと静かに移ろっていくのがわかった。
「……え?」
眉を寄せ、何かを思い出そうとするように視線を彷徨わせる。そして、焦ったように口を開いた。
「ごめん……本当に、ごめん!」
その一言で、胸の奥に溜めていたものが一気に熱を帯びる。
私は溢れそうになる涙を、必死にこらえた。
「……忘れてたの……?」
震える声で問いかけると、春樹は答えられず、視線を逸らした。
それが答えだと、すぐにわかってしまった。
「ずっと、待ってたのに……」
春樹は何度も口を開きかけては、何も言えずに閉じる。
その沈黙が、何よりも苦しかった。
「楽しみにしてたの、私だけだったんだね」
その言葉に、春樹は苦しそうに顔を歪める。
「違う、咲良……俺……」
言いかけたまま、言葉は続かない。
その姿を見ているうちに、胸の奥に、どうしようもない不安が広がっていく。
涙をこらえきれず、思わず口をついて出た。
「……春樹、本当に……私のこと、好き?」
自分でも驚くほど、か細く震えた声だった。
言葉を放った瞬間、後悔が押し寄せる。
春樹は、ただ私を見つめていた。
迷いが浮かんだ瞳。けれど、何も言わない。
その沈黙に耐えきれなくなり、私は逃げるように言ってしまった。
「……もういい。別れよう」
言葉が、勝手にこぼれ落ちた。
その瞬間、春樹の目が大きく見開かれる。
どこか傷ついたような顔をした。
でも、それはほんの一瞬だった。
春樹はゆっくりと表情を曇らせ、静かにうなずく。
「……わかった」
短く、それだけだった。
「……本当に……わかったの?」
私が欲しい言葉はそんなんじゃなかった。
消え入りそうな声で尋ねても、返ってきたのは、小さな頷きだけだった。
その無表情が、何よりも冷たく感じられる。
私は拳をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。
心の中で、何かが音を立てて崩れていく。
少しの沈黙のあと、私は何も言わず、その場を去った。
背中越しに春樹の気配を感じたけれど、追いかけてくることも、声をかけられることもなかった。
静かな夜道を、ひとりで歩く。
涙が、止めどなく頬を伝う。
――ただ「好きだ」と言ってくれれば。
――追いかけてきてくれたなら。
それだけで、よかったのに。
本当に、これでよかったの?
何度問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、春樹の沈黙と、「わかった」という言葉だけが、いつまでも胸に残っていた。