時を縫う英雄譚
第一章
第一話
朝は、いつも一つ多い。
透は目覚ましを止めてから、無意識にキッチンへ向かった。
フライパンを温め、癖のように卵を二つ割る。
ベーコンも二枚。パンも二枚。
――そこで、一瞬だけ手が止まる。
皿を並べながら、違和感が胸の奥に引っかかった。
けれど透はそれを深く考えない。
その違和感を覚えるまでが、一括りだから。
「……まあ、いいか」
独り言と一緒に、皿を二つ並べる。
食卓の向かい側の椅子は、今日も空いたままだ。
その空席を見ないように、透は携帯を手に取った。
『おはよ!今日、体育あるよね!死ぬ!』
イインチョーからのメッセージ。
画面の向こうで笑っている顔が、簡単に想像できてしまう。
『ある。サボる?』
『ダメでしょ笑 あ、お昼休み購買寄ろ』
それだけのやりとりで、胸の奥が少し軽くなる。
透は空席から視線を外し、片方の皿だけを使って朝食を済ませた。
残ったもう一皿は、流しに置いたまま家を出る。
学校は、今日も変わらない。
チャイムの音。
廊下を走る足音。
誰かの笑い声と、誰かのため息。
透はそれを机に突っ伏しながら聞き流す。
「一ノ瀬ー!」
背中を叩かれて振り返ると、朝倉芽吹もとい、イインチョーがいた。
いつも通りの笑顔。いつも通りの距離。
「顔死んでるね〜、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。多分」
芽吹は首を傾げて、透の顔をじっと覗き込む。
「“多分”って何」
「……なんとなく」
なんとなく眠りが浅い。
なんとなく夢を見た気がする。
なんとなく、誰かに呼ばれた気がする。
でも、思い出せない。
「購買、今日新作あるらしいよ」
「そうなんだ、買ってみる?」
他愛もない会話。
それだけで、世界は正常に回っているように見えた。
昼休み、屋上。
風が強く、雲が流れていく。
「ねえ、一ノ瀬」
芽吹がフェンスにもたれながら言った。
「最近さ、変な感じしない?」
「……変?」
「うん。説明できないけど。
何か、少しだけズレてる感じ」
透は返事に詰まった。
同じだ。
同じ違和感を、自分もずっと感じている。
「イインチョーも、そう思うんだ」
「へー、一ノ瀬も?」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「んー、まあ、気のせいかもね!」
芽吹はすぐに笑って、話題を切り替えた。
透もそれに合わせて笑う。
――気のせい。
そういうことにしておくのが、一番楽だから。
夜。
街灯の下で、影が揺れた。
それは最初、ただの錯覚だった。
でも次の瞬間、影は“形”を持った。
歪んだ輪郭。
人のようで、人ではない。
「……懲りないなぁ」
透は小さく息を吐く。
驚きはなかった。
恐怖も、もうない。
いつからか、こういう“ズレたもの”が見えるようになっていた。
ポケットから取り出したのは、細い針。
月明かりを反射して、鈍く光る。
針を空中に走らせると、世界が軋んだ。
布を引き裂くような感触。
空間に縫い目が浮かび上がる。
「……《縫写・ナイトステッチ》」
言葉と同時に、影は裂け、ほどけ、消えた。
静寂。
透は肩で息をしながら、針を握りしめる。
――何かを、削った感覚。
ほんの一瞬、胸が痛んだ。
大切な、大好きなはずの名前を、喉元まで思い出しかけて。
「……?」
けれど、それもすぐに消える。
「気のせい、か」
そう呟いて、透は夜道を歩き出した。
背後の闇で、誰かが笑った気がした。
それが大切な人の声だったことに、
このときの透は、まだ気づいていない。
透は目覚ましを止めてから、無意識にキッチンへ向かった。
フライパンを温め、癖のように卵を二つ割る。
ベーコンも二枚。パンも二枚。
――そこで、一瞬だけ手が止まる。
皿を並べながら、違和感が胸の奥に引っかかった。
けれど透はそれを深く考えない。
その違和感を覚えるまでが、一括りだから。
「……まあ、いいか」
独り言と一緒に、皿を二つ並べる。
食卓の向かい側の椅子は、今日も空いたままだ。
その空席を見ないように、透は携帯を手に取った。
『おはよ!今日、体育あるよね!死ぬ!』
イインチョーからのメッセージ。
画面の向こうで笑っている顔が、簡単に想像できてしまう。
『ある。サボる?』
『ダメでしょ笑 あ、お昼休み購買寄ろ』
それだけのやりとりで、胸の奥が少し軽くなる。
透は空席から視線を外し、片方の皿だけを使って朝食を済ませた。
残ったもう一皿は、流しに置いたまま家を出る。
学校は、今日も変わらない。
チャイムの音。
廊下を走る足音。
誰かの笑い声と、誰かのため息。
透はそれを机に突っ伏しながら聞き流す。
「一ノ瀬ー!」
背中を叩かれて振り返ると、朝倉芽吹もとい、イインチョーがいた。
いつも通りの笑顔。いつも通りの距離。
「顔死んでるね〜、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。多分」
芽吹は首を傾げて、透の顔をじっと覗き込む。
「“多分”って何」
「……なんとなく」
なんとなく眠りが浅い。
なんとなく夢を見た気がする。
なんとなく、誰かに呼ばれた気がする。
でも、思い出せない。
「購買、今日新作あるらしいよ」
「そうなんだ、買ってみる?」
他愛もない会話。
それだけで、世界は正常に回っているように見えた。
昼休み、屋上。
風が強く、雲が流れていく。
「ねえ、一ノ瀬」
芽吹がフェンスにもたれながら言った。
「最近さ、変な感じしない?」
「……変?」
「うん。説明できないけど。
何か、少しだけズレてる感じ」
透は返事に詰まった。
同じだ。
同じ違和感を、自分もずっと感じている。
「イインチョーも、そう思うんだ」
「へー、一ノ瀬も?」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「んー、まあ、気のせいかもね!」
芽吹はすぐに笑って、話題を切り替えた。
透もそれに合わせて笑う。
――気のせい。
そういうことにしておくのが、一番楽だから。
夜。
街灯の下で、影が揺れた。
それは最初、ただの錯覚だった。
でも次の瞬間、影は“形”を持った。
歪んだ輪郭。
人のようで、人ではない。
「……懲りないなぁ」
透は小さく息を吐く。
驚きはなかった。
恐怖も、もうない。
いつからか、こういう“ズレたもの”が見えるようになっていた。
ポケットから取り出したのは、細い針。
月明かりを反射して、鈍く光る。
針を空中に走らせると、世界が軋んだ。
布を引き裂くような感触。
空間に縫い目が浮かび上がる。
「……《縫写・ナイトステッチ》」
言葉と同時に、影は裂け、ほどけ、消えた。
静寂。
透は肩で息をしながら、針を握りしめる。
――何かを、削った感覚。
ほんの一瞬、胸が痛んだ。
大切な、大好きなはずの名前を、喉元まで思い出しかけて。
「……?」
けれど、それもすぐに消える。
「気のせい、か」
そう呟いて、透は夜道を歩き出した。
背後の闇で、誰かが笑った気がした。
それが大切な人の声だったことに、
このときの透は、まだ気づいていない。
< 1 / 24 >