薔薇の秘密
彼はとても綺麗な顔をしていた。
やや長めにカットされた栗色の髪は艶を帯び、顔を動かすたびにサラサラと揺れ動いた。
瞳の色は深海を思わせる濃いブルーで、弓で射抜くような鋭い視線を投げかける。
どんなに美しい宝石よりも価値のあるその目に見つめられると、私は胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。
彼と一緒にいるときの私はまさしく恋する乙女の顔をしていたことだろう。
妙に女の扱いに慣れていて、私の前でも構わずハグやキスをすることもあった。
私は残念ながら、そんな彼の行動にいちいち驚いたり嫉妬をしたりするほど純情ではなかった。
彼の表向きの顔を目の当たりにするたび、本当の彼を知っているのは私だけなのだと優越感にも似た感情に支配された。
もちろん、私にも“魔の手”は伸びてくる。
自分で言うのも何だけど、私も彼と同じくらい異性にモテる。
今まで何度も告白や遊びの誘いを受け、気分で応じることもあった。
そのことが当時の彼氏にバレて、尻軽となじられたこともあった。
……尻軽? でも、私は自分をそう思ったことはない。
それに、他人からどう呼ばれようと構わない。
本当に愛する相手にだけ分かってもらえたらそれでいいから。
だけど、実はそれが一番難しいことだったりもする。
私は相手にとって分かりにくいタイプらしい。
何を考えているのか分からない、とか。
君の本心はどこにあるの?とか。
今までそのようなことを何度言われたことか。
言葉と行動が伴わないこともあるが、人間とはそういうものだから仕方ない。
なぜ、みんなその真理に気づかない?
その点、彼は今までの相手と違った。
彼は私をいっさい責めないし、「君の心が分からない」とも言わない。
勝手に期待して、幻滅して去っていく人たちとは全く違っていた。
でも、決して冷たいというわけでもなければ、やたらと甘やかすタイプでもない。
人当たりはいいのに、どこかミステリアス。
私は愛する彼にそんなイメージを持っていた。
私たちは一緒にいても多くは語らない。
好きなものや趣味を共有することはあっても、意味のない言葉を重ねるようなことはしなかった。
好きだよ、愛してる、俺には君しかいない……。
今までの相手は簡単に愛の言葉を囁いていたが、いとも簡単に去っていった。
彼らにちっとも未練などないし、そもそも付き合ったきっかけすら覚えていないほど薄っぺらい関係だった。
でも、彼は違う。
付き合ったきっかけも、一緒にいたい理由もしっかり把握していた。
もし彼に別れを告げられたら取り乱してしまうかもしれないと考えることもあった。
私は相手に依存するタイプではない。
なんなら一人でも生きていけるタフな人間だと思っている。
執着心も嫉妬心もなく、束縛も駆け引きもしない。
肉体関係を結ぶだけの相手なら掃いて捨てるほどいる。
でも、心から欲していたのはたった一人だけ。
私は彼を鑑賞し、観察するのが好きだった。
同じサークルの女たちと談笑する姿、
背筋を伸ばして愛車を運転する姿、
眩しそうに目を細めながらサングラスをかける仕草、
大学の図書館で静かに本を読む姿、
望遠鏡で星空を見上げる姿、
細身のわりに筋肉のついた胸板……。
私は彼のいくつもの顔を知っている。
一番好きなのは、私の目をまっすぐ見つめるときの顔だった。
それは愛情を込めた温かい眼差しのときもあれば、少年のような悪戯っぽい笑みや全く考えが読めないクールな表情のときもあった。
大好きな彼に見つめられると幸福な気分になれた。
人といるときは明るく社交的で、悩みや欠点など何もないかのような完璧な男を演じている。
私といるときの彼は聞き役に徹し、不完全さや弱さなどの一面も覗かせていた。
彼は、実は孤独だったのかもしれない。
一度だけ、彼に「強いな」と言われたことがある。
そのときは軽く笑って受け流したけど、もしかしたらその言葉の裏に何かがあったのかもしれない。
でも、私はそこまで深く考えることはしなかった。
彼を愛していたし、彼のことなら何でも知りたいと思っていたのに。
見せかけだけの愛だったのだろうか?
いや、きっと愛は本物だったはず。
愛の形や重さは人それぞれ違う。
同じ人間でも、一人ひとり肌の色や顔かたちが違うように。
自分の姿を鏡に映し、私は深呼吸をする。
彼のマンションに泊まった翌朝、鏡に向かって並んで歯磨きをした思い出が蘇る。
大学を主席で卒業した彼は、とある有名企業に就職した。
私は彼のいない大学に興味を失い、卒業までの1年間をどう過ごすか模索していた。
そして、社会人になった彼は多忙な日々を送り、会う機会が減っていった。
寂しくなかったと言えば嘘になる。
でも、私は私で自由を謳歌するかのように遊んだり、気の置けない友人たちと会社を立ち上げたりと忙しく過ごした。
ある日、彼から話があると言われた。
雰囲気のあるカフェに入り、彼と向き合う。
3ヶ月ぶりに会った彼は相変わらず綺麗な顔をしていたが、少しだけ疲れの色が滲んでいた。
彼は運ばれてきたコーヒーに口をつけ、静かにカップをソーサーに戻した。
実は、結婚を前提に交際しようと思う女性がいる。
その言葉を聞いた瞬間、私はハッと息を呑んだ。
とうとう来たか……。
そう、分かっていたのだ。
いつかはこの日が来るということを。
結婚を前提に交際する、というところが彼の誠実さを物語っていた。
その幸運な女性は同じ会社の同期だという。
私は頭の中に、彼と顔なき女性の未来の結婚式のシーンを思い浮かべた。
やがて子供も産まれて……。
私は慌てて軽く頭を振る。
彼の人生を干渉するつもりはない。
振られるのは初めてではないが、胸の奥がズキッと疼いた。
何と言うべきか分からず黙っている私に、彼は「ありがとう」と小さく言った。
ごめん、ではないところが彼らしい。
少し困惑したような、柔らかい微笑みを浮かべている。
そして、静かな声で言葉を重ねた。
本当に夢のような2年間だった、と。
ズキズキと疼いていた胸の奥の痛みがなくなり、私は別れを切り出されたというのに笑みを返していた。
……こちらこそ、ありがとう。レイと出会えて良かったよ。
彼は私の言葉を噛みしめるようにゆっくり頷いた。
そして彼と握手をかわし、カフェの前で別れた。
私たちに他の選択肢などなかった。
彼の父親は厳格で、息子が幼い頃からしつけや教育を徹底してきたという。
男は家庭を持って一人前だと言う父親に倣い、会社で自分の妻に相応しい女性を選んだ。
ただ、それだけのこと。
彼は決して私のことを嫌いになったわけではないという確信があった。
おそらく、私たちは別れた後も両思いのままだっただろう。
ことあるごとに彼のことを思い出した。
カメラの前で演技をしているときも、大学の友達とうわべだけの会話をしているときも、新しいパートナーと抱き合っているときでさえも……。
それから2年の月日が流れ、街中で偶然にも彼の姿を見かけた。
髪がさっぱりと短くなり、精悍な顔つきになっている以外は以前とほとんど変わっていない。
だが、決定的に変わったものがあった。
彼の隣には妻らしき女性がいて、その腕にはピンク色のベビー服にくるまれた乳児を抱えていた。
この2年のうちに彼は結婚し、自分の家庭を持っていた。
有言実行。
おめでとう、レイ──と、私は心の中で祝福した。
そのまま立ち去ろうとしたが、突然私の中にある欲望が頭をもたげた。
彼に今の自分の姿を見てもらいたい。
気がつくと私は彼の名前を呼んでいた。
振り返った彼の顔に驚きと懐古の表情が広がる。
そして、若干の焦りの色も。
お友達?と、彼の妻が私から夫に視線を移す。
彼の秘密を知らない女。
私は意地悪さを含んだ憐れみの感情を彼女に抱いた。
大学時代の、後輩だよ。俺たち仲良かったんだ。
一瞬のうちに落ち着きを取り戻した彼が言う。
そうなんだ! いい関係ね。
何も知らない彼の妻が無邪気に笑う。
えぇ、すっごく仲良しだったんですよ〜!
私も感じ良くニッコリと笑った。
そんな含みを持たせても彼女が嫉妬するわけがない。
真実を知るすべもないのだから。
好都合なことに、彼の妻はフレンドリーな性格だった。
私を見る彼女の目に媚びの色が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。
気軽さを装って近況を聞いてみる。
話の流れから彼女に新居に招待された。
彼とは他人同士になったはずなのに、またしても接点ができた。
意気投合する私たちをどこか複雑そうな表情で見守る彼に、私はそっと目配せを送った。
──大丈夫。きっと、うまくやれる。
困惑を隠そうと笑みを作って取り繕うとする彼が心から愛おしい。
私は興奮と胸の高鳴りを覚えた。
かつて愛した人との再会。
そして、新たに始まる秘密の恋の予感に……。
やや長めにカットされた栗色の髪は艶を帯び、顔を動かすたびにサラサラと揺れ動いた。
瞳の色は深海を思わせる濃いブルーで、弓で射抜くような鋭い視線を投げかける。
どんなに美しい宝石よりも価値のあるその目に見つめられると、私は胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。
彼と一緒にいるときの私はまさしく恋する乙女の顔をしていたことだろう。
妙に女の扱いに慣れていて、私の前でも構わずハグやキスをすることもあった。
私は残念ながら、そんな彼の行動にいちいち驚いたり嫉妬をしたりするほど純情ではなかった。
彼の表向きの顔を目の当たりにするたび、本当の彼を知っているのは私だけなのだと優越感にも似た感情に支配された。
もちろん、私にも“魔の手”は伸びてくる。
自分で言うのも何だけど、私も彼と同じくらい異性にモテる。
今まで何度も告白や遊びの誘いを受け、気分で応じることもあった。
そのことが当時の彼氏にバレて、尻軽となじられたこともあった。
……尻軽? でも、私は自分をそう思ったことはない。
それに、他人からどう呼ばれようと構わない。
本当に愛する相手にだけ分かってもらえたらそれでいいから。
だけど、実はそれが一番難しいことだったりもする。
私は相手にとって分かりにくいタイプらしい。
何を考えているのか分からない、とか。
君の本心はどこにあるの?とか。
今までそのようなことを何度言われたことか。
言葉と行動が伴わないこともあるが、人間とはそういうものだから仕方ない。
なぜ、みんなその真理に気づかない?
その点、彼は今までの相手と違った。
彼は私をいっさい責めないし、「君の心が分からない」とも言わない。
勝手に期待して、幻滅して去っていく人たちとは全く違っていた。
でも、決して冷たいというわけでもなければ、やたらと甘やかすタイプでもない。
人当たりはいいのに、どこかミステリアス。
私は愛する彼にそんなイメージを持っていた。
私たちは一緒にいても多くは語らない。
好きなものや趣味を共有することはあっても、意味のない言葉を重ねるようなことはしなかった。
好きだよ、愛してる、俺には君しかいない……。
今までの相手は簡単に愛の言葉を囁いていたが、いとも簡単に去っていった。
彼らにちっとも未練などないし、そもそも付き合ったきっかけすら覚えていないほど薄っぺらい関係だった。
でも、彼は違う。
付き合ったきっかけも、一緒にいたい理由もしっかり把握していた。
もし彼に別れを告げられたら取り乱してしまうかもしれないと考えることもあった。
私は相手に依存するタイプではない。
なんなら一人でも生きていけるタフな人間だと思っている。
執着心も嫉妬心もなく、束縛も駆け引きもしない。
肉体関係を結ぶだけの相手なら掃いて捨てるほどいる。
でも、心から欲していたのはたった一人だけ。
私は彼を鑑賞し、観察するのが好きだった。
同じサークルの女たちと談笑する姿、
背筋を伸ばして愛車を運転する姿、
眩しそうに目を細めながらサングラスをかける仕草、
大学の図書館で静かに本を読む姿、
望遠鏡で星空を見上げる姿、
細身のわりに筋肉のついた胸板……。
私は彼のいくつもの顔を知っている。
一番好きなのは、私の目をまっすぐ見つめるときの顔だった。
それは愛情を込めた温かい眼差しのときもあれば、少年のような悪戯っぽい笑みや全く考えが読めないクールな表情のときもあった。
大好きな彼に見つめられると幸福な気分になれた。
人といるときは明るく社交的で、悩みや欠点など何もないかのような完璧な男を演じている。
私といるときの彼は聞き役に徹し、不完全さや弱さなどの一面も覗かせていた。
彼は、実は孤独だったのかもしれない。
一度だけ、彼に「強いな」と言われたことがある。
そのときは軽く笑って受け流したけど、もしかしたらその言葉の裏に何かがあったのかもしれない。
でも、私はそこまで深く考えることはしなかった。
彼を愛していたし、彼のことなら何でも知りたいと思っていたのに。
見せかけだけの愛だったのだろうか?
いや、きっと愛は本物だったはず。
愛の形や重さは人それぞれ違う。
同じ人間でも、一人ひとり肌の色や顔かたちが違うように。
自分の姿を鏡に映し、私は深呼吸をする。
彼のマンションに泊まった翌朝、鏡に向かって並んで歯磨きをした思い出が蘇る。
大学を主席で卒業した彼は、とある有名企業に就職した。
私は彼のいない大学に興味を失い、卒業までの1年間をどう過ごすか模索していた。
そして、社会人になった彼は多忙な日々を送り、会う機会が減っていった。
寂しくなかったと言えば嘘になる。
でも、私は私で自由を謳歌するかのように遊んだり、気の置けない友人たちと会社を立ち上げたりと忙しく過ごした。
ある日、彼から話があると言われた。
雰囲気のあるカフェに入り、彼と向き合う。
3ヶ月ぶりに会った彼は相変わらず綺麗な顔をしていたが、少しだけ疲れの色が滲んでいた。
彼は運ばれてきたコーヒーに口をつけ、静かにカップをソーサーに戻した。
実は、結婚を前提に交際しようと思う女性がいる。
その言葉を聞いた瞬間、私はハッと息を呑んだ。
とうとう来たか……。
そう、分かっていたのだ。
いつかはこの日が来るということを。
結婚を前提に交際する、というところが彼の誠実さを物語っていた。
その幸運な女性は同じ会社の同期だという。
私は頭の中に、彼と顔なき女性の未来の結婚式のシーンを思い浮かべた。
やがて子供も産まれて……。
私は慌てて軽く頭を振る。
彼の人生を干渉するつもりはない。
振られるのは初めてではないが、胸の奥がズキッと疼いた。
何と言うべきか分からず黙っている私に、彼は「ありがとう」と小さく言った。
ごめん、ではないところが彼らしい。
少し困惑したような、柔らかい微笑みを浮かべている。
そして、静かな声で言葉を重ねた。
本当に夢のような2年間だった、と。
ズキズキと疼いていた胸の奥の痛みがなくなり、私は別れを切り出されたというのに笑みを返していた。
……こちらこそ、ありがとう。レイと出会えて良かったよ。
彼は私の言葉を噛みしめるようにゆっくり頷いた。
そして彼と握手をかわし、カフェの前で別れた。
私たちに他の選択肢などなかった。
彼の父親は厳格で、息子が幼い頃からしつけや教育を徹底してきたという。
男は家庭を持って一人前だと言う父親に倣い、会社で自分の妻に相応しい女性を選んだ。
ただ、それだけのこと。
彼は決して私のことを嫌いになったわけではないという確信があった。
おそらく、私たちは別れた後も両思いのままだっただろう。
ことあるごとに彼のことを思い出した。
カメラの前で演技をしているときも、大学の友達とうわべだけの会話をしているときも、新しいパートナーと抱き合っているときでさえも……。
それから2年の月日が流れ、街中で偶然にも彼の姿を見かけた。
髪がさっぱりと短くなり、精悍な顔つきになっている以外は以前とほとんど変わっていない。
だが、決定的に変わったものがあった。
彼の隣には妻らしき女性がいて、その腕にはピンク色のベビー服にくるまれた乳児を抱えていた。
この2年のうちに彼は結婚し、自分の家庭を持っていた。
有言実行。
おめでとう、レイ──と、私は心の中で祝福した。
そのまま立ち去ろうとしたが、突然私の中にある欲望が頭をもたげた。
彼に今の自分の姿を見てもらいたい。
気がつくと私は彼の名前を呼んでいた。
振り返った彼の顔に驚きと懐古の表情が広がる。
そして、若干の焦りの色も。
お友達?と、彼の妻が私から夫に視線を移す。
彼の秘密を知らない女。
私は意地悪さを含んだ憐れみの感情を彼女に抱いた。
大学時代の、後輩だよ。俺たち仲良かったんだ。
一瞬のうちに落ち着きを取り戻した彼が言う。
そうなんだ! いい関係ね。
何も知らない彼の妻が無邪気に笑う。
えぇ、すっごく仲良しだったんですよ〜!
私も感じ良くニッコリと笑った。
そんな含みを持たせても彼女が嫉妬するわけがない。
真実を知るすべもないのだから。
好都合なことに、彼の妻はフレンドリーな性格だった。
私を見る彼女の目に媚びの色が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。
気軽さを装って近況を聞いてみる。
話の流れから彼女に新居に招待された。
彼とは他人同士になったはずなのに、またしても接点ができた。
意気投合する私たちをどこか複雑そうな表情で見守る彼に、私はそっと目配せを送った。
──大丈夫。きっと、うまくやれる。
困惑を隠そうと笑みを作って取り繕うとする彼が心から愛おしい。
私は興奮と胸の高鳴りを覚えた。
かつて愛した人との再会。
そして、新たに始まる秘密の恋の予感に……。


