前世で死に別れた忍者に、現代で溺愛婚を申し込まれました

プロローグ

「――景虎(かげとら)、あなたは生き残りなさい」

 わたしは背後に切り立つ崖を指し示しながら、覚悟を決めて言いました。上忍の景虎はわたしの前で跪ひざまずき、すぐさま声を張り上げました。

「姫様! 姫様の帰還を殿もお待ち申し上げおります。諦めずに共に参りましょう! この景虎、姫様を守り抜く所存」

 懇願するような眼差しをされましたが、わたしの心はすでに定まっておりました。

「なりませぬ」

 そして、彼から視線を外し、流れるように前を見据えました。不気味なほど夜空を赤く染めた森が広がっておりました。叔父の率いる賊は刻一刻こくいっこくと迫り、もはや時間もなく、抗う術もございません。

「そなたひとりならば、この崖も苦無くないを使って降りられるでしょう。密書を父に届けなさい」

「しかし、姫様!」

「なんのために、叔父の元に潜伏していたと思っているのです。すべては戦を起こさせぬため。緑豊かな、この地を守るためではないですか?」

 わたしは口元に微笑を浮かべ、景虎を見ました。

「景虎、あなたは上忍。宿願を果たしなさい」

 景虎は己の無力さを堪えきれないのか、跪いたまま拳を地面に叩きつけました。

 わたしは一向に動かぬ景虎に近づき、両手で彼の顔を包み込みました。左目の下にある泣きぼくろが涙で濡れております。景虎を失いたくないと強く思いながら、わたしは彼に微笑みました。

「……わたしの最後のわがままです。どうか、叶えて」

 彼は声を殺して涙を流しておりました。わたしを惜しむその雫が愛おしく、この人に出会えて本当に良かったと思いました。

 ひとしきり彼のぬくもりを確かめ、そっと離れようとした、その時でございます。わたしは彼に力強く抱き返されました。

「姫様……あなたの望みを叶えます。だから、俺の願いも叶えてください」

 景虎はわたしから離れると、涙に濡れた顔をわたしに近づけました。怯えるように震えた唇が、わたしの唇に触れます。
 それは、一瞬の触れ合いでございました。
 しかしながら、わたしにはこの上ない幸福に満たされたひとときでございました。景虎と口づけを交わすなど、夢にも見なかったことでございますから。

「俺の魂はここに置いてゆきます」

 景虎がわたしから離れ、再び跪きました。涙で濡れた熱い眼差しで見上げられ、わたしの心臓が高鳴りました。そこまで捧げられたら、わたしも心の内を吐露したくなるというもの。わたしは涙を堪えきれず顔を歪ませながら、彼に深愛を捧げました。

「なら、わたしの魂を連れていって」

 景虎がまた、瞳から涙を頬に滑り落とします。わたしも声を上げて泣きとうございますが、口づけの余韻に浸る時間は残されておりませんでした。背後では人の声が近づいてまいりますから。わたしは未練を振り切るように前を向きました。

「景虎、行きなさい! 決して、後方を振り返ってはなりません!」

 そう叫ぶと、後方でじりじりと土を踏む音がして、彼の気配が消えました。

 彼が行ってくれた安堵と、今生の別れで胸が押しつぶされそうです。でも、わたしは振り返りませんでした。逃げもいたしません。賊を足止めしなければなりませんから。

 やがて、松明を持った賊たちが森を焼かんばかり現れました。
 まあまあ、たくさんおりますこと。娘ひとり捕らえるのに、ずいぶんとご丁寧ですわね。

「雅(みやび)! 逃げ惑うのもここまでだぞ!」

「叔父上様、ごきげんよう」

「はっ、その強りがりはいつまで持つかな。お前が盗み出したものを出せば、命だけは助けてやろう。抵抗すればその身がどうなるか……分かっているだろう?」

 じり、じりと抜き身の剣を構えた賊たちが、わたしに迫ってきます。それを見ても、わたしは恐れを抱きませんでした。むしろ小賢しいこと、と心の中で嘲って差し上げましょう。

「わたしは蘆水家が娘! お前たち如きに奪われるものは何ひとつない!」

 わたしは着物の帯に仕込んでおいた小脇差こわきざしを抜き放ちました。

 リン――と鞘に巻きつけていた鈴の音が鳴ります。

 その涼やかな音を聞きながら、刀を首元に向けました。

 誰かの手にかかるくらいならば、自ら散ってみせましょう。
 それはさほど恐ろしいことではございません。
 わたしの魂は景虎が持っていてくれました。
 ここにあるのは抜け殻となった体だけでございます。

 景虎ならば父上に書簡を届け、無法者どもを成敗してくれるでしょう。
 無用な血は流れず、この地はあるべき姿のまま。
 誰よりも彼を信じておりますわ。

「お前たちの計略は、わたしの命と共に終わる。余生はないと、怯えるがいい!」

 わたしは艶やかに笑いながら、小脇差を振り上げました。

「それでは皆々様、ごめん遊ばせ」

 命が尽きるとき、景虎のことを思いました。
 わたしの最愛の人。
 叶うならば、次の世では、共に生きとうございますわ――――。





 



 ――――そんな夢を見て、わたし、青葉初音(あおば はつね)、二十三歳は目を覚ました。

 ある時から、何度も見ている夢だ。時代劇のような世界なのに妙に現実味があって、景虎のことを思うと涙が出てくる。雅姫の思いが今も胸の奥に残っているみたいだ。 

 乱れた呼吸を整えて、重いまぶたを開ける。周囲を見渡すと、そこはかび臭く、薄暗い物置だった。

 両親の位牌いはいが寂しそうにわたしを見ている。
 物言わないそれに、わたしは強がって言った。

「心配しないで。わたし、まだ大丈夫よ」

 そう言ったものの、わたしの声は虚空に溶けていく。

「お父さんたちが守りたかったものを、守りたいわ。……そのためにも、叔父さんには会長の座を引いてもらわないと」

 ふたりに手を合わせて、立ち上がる。
 どれほど虐げられても、わたしにはやるべきことがある。

 叔父の不正を公にしたい。

 ――雅姫のように。

 彼女の気高さが心の支えだ。


 でも、わたしには味方が少ない。


 景虎も、いなかった。
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