前世で死に別れた忍者に、現代で溺愛婚を申し込まれました
契約だからと言えない朝
日向様の家に来て一か月が経った。
最初は環境に慣れるのに必死だったが、日向様の心遣いとカナちゃんのおかげで、生活に少しずつ馴染んできた。
日向様から弁護士さん、税理士さん、司法書士さんを紹介され、両親の遺産を取り戻すための書類集めが始まった。
「今は全国どこでも戸籍を取り寄せられますから、必要なものは役所に行けば大丈夫ですよ」
「オレが付き合うよ!」
「ありがとう、カナちゃん」
カナちゃんに付き添ってもらい、区役所で住民票や家系図を取り寄せ、それを先生方に渡した。あとは手続きを待つばかり。
叔父の不正――地域支援金を本来の目的から外れた形で運用していたことを、証拠として残した。
わたしが記憶していたデータも、日向様が用意したパソコンに打ち終えている。
「圧巻の記憶力だな。でかした」
日向様は喜んでくれた。
「この架空顧客の裏が取れれば、黒川の資金源も絶てるだろう。あとは俺に任せろ」
頼もしい言葉にわたしは深々と頭を下げ、彼にお任せした。
情報を渡し終えると、わたしは急にすることがなくなってしまった。
せめてもと思い、家事を手伝ってはいるけど、日向様の家は空調設備が完璧で、埃もたまらない。掃除ロボットも動き回り、拭き掃除すらほとんど必要ない。
だから料理をするようになった。肉じゃがを作ったときは、日向様がとても喜んでくれた。
ただ、困ったことがある。
日向様が下の名前で呼べと言うことだ。
今朝も簡単な朝食を用意した。塩鮭とお漬物、前日に煮た里芋の煮っころがしを出すと、彼は最初、嬉しそうに笑ったのに、わたしが「日向様、どうぞ」と呼んだ途端、表情が冷えた。
「初音、下の名前で呼べと言っただろ?」
迫力のある顔で言われて、ぐっと口を結んだ。わたしが困っているのを見透かしていると思うけど、彼は譲らない。
「名前を忘れたのか?」
「そんなことはありませんが……」
「じゃあ、なぜ?」
「……わたしたちの関係は契約ですし、これ以上、親しくするのはどうかと思いまして」
叔父のことも青葉のことも、すべてが解決したわけではない。
変わらず居候させてもらっているし、わたしは結果を待っている途中だ。
(ここに、長くいたいけど……)
その思いと契約はまた違うと思う。
彼は漬物を一口食べ、箸を止めてから、きっぱりと言った。
「今は契約なだけだ。本物になるかもしれないだろう?」
そう言う彼の真意が、わたしには掴めなかった。それが顔に出ていたのだろう。彼は眉をわずかに下げた。
「……俺と婚約するのは嫌か?」
「そんなこと、ないですが」
「ならいいだろ。今も同棲してるのと変わらない」
「……確かに……」
「今のうちに、慣れておいたほうがいい」
そう言われると、そんな気もしてくる。
このまま甘えていてもいいのだろうか。考え込んでいると、彼が味噌汁を飲み終わり、箸置きに箸を置いた。
「うまかった。朝から和食を食べられるのはいいものだな」
満足そうに笑い、茶碗と味噌汁の器を片付ける日向様。わたしが手を出す前に、すべて片付けてしまった。
「あ、あの……今日は、何かすることはないでしょうか? クリーニングを出しておきましょうか?」
そう提案してみたものの、日向様は首をひねった。
「初音は家政婦じゃないんだぞ?」
「……それ以外に、今、お役に立てることがないので」
嘆息しながら日向様がわたしに近づいてくる。わたしの横に座って、眉をわずかに寄せた。
「こうして朝食を作ってる。充分だろ?」
そしてわたしを肯定する言葉を、近距離で浴びせてくる。距離感に慣れなくて息が詰まる。
「……ありがとう存じます」
「謙遜は初音の美徳だが、謙遜しすぎるのはじれったい」
そう言ったあと、彼は何かを思いついたのか「ああ」と急に言い出した。
「……やること、あったな」
彼は機嫌よく立ち上がり、居間から出て行った。わたしはほっと息を吐きだし、お味噌汁をすする。
(……何かするのかしら……?)
最後の漬物とご飯を一緒に食べたタイミングで彼が戻ってきた。
手にはネクタイがあって、藍色のストライプが入ったスーツを着ていた。
「初音、ネクタイを締めてくれないか?」
お願いされて、思わずわたしは自分を指さした。
「わたしが、ですか?」
「新婚みたいで、悪くないだろ?」
どこまで本気か分からない声色で、彼がそんなことを言った。
「……やり方を教えてくれますか?」
「ん? 知らなかったのか?」
「……学生時代に、リボンを結んだことはあります」
「ほお。他の男に染まっていないということか」
恥ずかしさを堪えて言うと、なぜか彼は嬉しそうに口角を上げた。
「こうやるんだ」
目の前で彼が器用にネクタイを締める。それを見逃さないように、じっくり結び方を見た。
「分かったか?」
「たぶん。やらせてもらえますか?」
「もちろん」
ネクタイを手渡された。両手で持ったネクタイは藍色で光があたると格子模様が浮き上がった。
つま先立ちして、彼の首にネクタイを下げる。
彼に近づくと、襟についた甘く洗練された匂いが濃厚に香る。意識しすぎないようにネクタイに集中する。
じりじりと体が熱くなるのを感じながら結び終えると、彼は視線を外さず形を確かめ、いたずらっぽく耳打ちした。
「……上手だ。ありがとう、初音」
(声、反則……!)
色気に耐えきれず、体が小刻みに震えた。
最初は環境に慣れるのに必死だったが、日向様の心遣いとカナちゃんのおかげで、生活に少しずつ馴染んできた。
日向様から弁護士さん、税理士さん、司法書士さんを紹介され、両親の遺産を取り戻すための書類集めが始まった。
「今は全国どこでも戸籍を取り寄せられますから、必要なものは役所に行けば大丈夫ですよ」
「オレが付き合うよ!」
「ありがとう、カナちゃん」
カナちゃんに付き添ってもらい、区役所で住民票や家系図を取り寄せ、それを先生方に渡した。あとは手続きを待つばかり。
叔父の不正――地域支援金を本来の目的から外れた形で運用していたことを、証拠として残した。
わたしが記憶していたデータも、日向様が用意したパソコンに打ち終えている。
「圧巻の記憶力だな。でかした」
日向様は喜んでくれた。
「この架空顧客の裏が取れれば、黒川の資金源も絶てるだろう。あとは俺に任せろ」
頼もしい言葉にわたしは深々と頭を下げ、彼にお任せした。
情報を渡し終えると、わたしは急にすることがなくなってしまった。
せめてもと思い、家事を手伝ってはいるけど、日向様の家は空調設備が完璧で、埃もたまらない。掃除ロボットも動き回り、拭き掃除すらほとんど必要ない。
だから料理をするようになった。肉じゃがを作ったときは、日向様がとても喜んでくれた。
ただ、困ったことがある。
日向様が下の名前で呼べと言うことだ。
今朝も簡単な朝食を用意した。塩鮭とお漬物、前日に煮た里芋の煮っころがしを出すと、彼は最初、嬉しそうに笑ったのに、わたしが「日向様、どうぞ」と呼んだ途端、表情が冷えた。
「初音、下の名前で呼べと言っただろ?」
迫力のある顔で言われて、ぐっと口を結んだ。わたしが困っているのを見透かしていると思うけど、彼は譲らない。
「名前を忘れたのか?」
「そんなことはありませんが……」
「じゃあ、なぜ?」
「……わたしたちの関係は契約ですし、これ以上、親しくするのはどうかと思いまして」
叔父のことも青葉のことも、すべてが解決したわけではない。
変わらず居候させてもらっているし、わたしは結果を待っている途中だ。
(ここに、長くいたいけど……)
その思いと契約はまた違うと思う。
彼は漬物を一口食べ、箸を止めてから、きっぱりと言った。
「今は契約なだけだ。本物になるかもしれないだろう?」
そう言う彼の真意が、わたしには掴めなかった。それが顔に出ていたのだろう。彼は眉をわずかに下げた。
「……俺と婚約するのは嫌か?」
「そんなこと、ないですが」
「ならいいだろ。今も同棲してるのと変わらない」
「……確かに……」
「今のうちに、慣れておいたほうがいい」
そう言われると、そんな気もしてくる。
このまま甘えていてもいいのだろうか。考え込んでいると、彼が味噌汁を飲み終わり、箸置きに箸を置いた。
「うまかった。朝から和食を食べられるのはいいものだな」
満足そうに笑い、茶碗と味噌汁の器を片付ける日向様。わたしが手を出す前に、すべて片付けてしまった。
「あ、あの……今日は、何かすることはないでしょうか? クリーニングを出しておきましょうか?」
そう提案してみたものの、日向様は首をひねった。
「初音は家政婦じゃないんだぞ?」
「……それ以外に、今、お役に立てることがないので」
嘆息しながら日向様がわたしに近づいてくる。わたしの横に座って、眉をわずかに寄せた。
「こうして朝食を作ってる。充分だろ?」
そしてわたしを肯定する言葉を、近距離で浴びせてくる。距離感に慣れなくて息が詰まる。
「……ありがとう存じます」
「謙遜は初音の美徳だが、謙遜しすぎるのはじれったい」
そう言ったあと、彼は何かを思いついたのか「ああ」と急に言い出した。
「……やること、あったな」
彼は機嫌よく立ち上がり、居間から出て行った。わたしはほっと息を吐きだし、お味噌汁をすする。
(……何かするのかしら……?)
最後の漬物とご飯を一緒に食べたタイミングで彼が戻ってきた。
手にはネクタイがあって、藍色のストライプが入ったスーツを着ていた。
「初音、ネクタイを締めてくれないか?」
お願いされて、思わずわたしは自分を指さした。
「わたしが、ですか?」
「新婚みたいで、悪くないだろ?」
どこまで本気か分からない声色で、彼がそんなことを言った。
「……やり方を教えてくれますか?」
「ん? 知らなかったのか?」
「……学生時代に、リボンを結んだことはあります」
「ほお。他の男に染まっていないということか」
恥ずかしさを堪えて言うと、なぜか彼は嬉しそうに口角を上げた。
「こうやるんだ」
目の前で彼が器用にネクタイを締める。それを見逃さないように、じっくり結び方を見た。
「分かったか?」
「たぶん。やらせてもらえますか?」
「もちろん」
ネクタイを手渡された。両手で持ったネクタイは藍色で光があたると格子模様が浮き上がった。
つま先立ちして、彼の首にネクタイを下げる。
彼に近づくと、襟についた甘く洗練された匂いが濃厚に香る。意識しすぎないようにネクタイに集中する。
じりじりと体が熱くなるのを感じながら結び終えると、彼は視線を外さず形を確かめ、いたずらっぽく耳打ちした。
「……上手だ。ありがとう、初音」
(声、反則……!)
色気に耐えきれず、体が小刻みに震えた。