前世で死に別れた忍者に、現代で溺愛婚を申し込まれました

鈴を贈られた夜

『姫様、この魔除けの鈴を持っていてください』
『……リンと鳴る音が涼やかね』
『きっと姫様を守ってくれます』
『鳴らしたら、景虎が来てくれるの?』
『え……』
『ふふふ、冗談よ。……大切にするわ』

 夢の余韻が、胸の奥にふわりと残ったまま――わたしは行平鍋(ゆきひらなべ)に水を入れた。
 
 日向家に来て、三か月が経った。
 ここに来てから、雅姫と景虎の穏やかな日常の夢を多く見るようになった。ふたりが幸せな日々を過ごしている夢を見るたびに、わたし自身もこの家を心地よく感じるようになっていた。

 今日、日向様は一日お休みだ。家でゆっくり寛いでもらいたい。意外にもコーヒーよりほうじ茶を好むので、毎朝淹れることにしている。
 るんるんで作っていると、中庭の日本庭園に太陽の光が差し込んできた。静謐な美しさを、台所から眺めるのが好きだった。

 ぼんやり眺めていると、いつの間にか、着物姿の日向様があくびをしながらやってきた。
 寝ぼけた目で、髪の毛には寝ぐせがついている。きっちりした彼がこんなにも無防備な姿でくるのは、朝だけだった。

「おはようございます」
「おはよう、初音。今朝も早いな」
 
 彼はとろんとした目のまま、わたしのそばに寄り、自然と頭を抱き寄せひたいに軽いキスを落とした。不意打ちの挨拶に心臓が跳ねたが、以前のように強く拒むことはできなかった。
 
 口づけをして以来、日向様はこんな調子で、甘い触れ合いが増えた。

(……甘さに慣れてきたかも)
 
 彼はさりげなくわたしの後ろに回り込み、背中から抱きしめながら会話を始めた。
 
「今日はおじやか?」
「昨日は遅かったですし、お疲れだろうと思いまして」
「出汁のいい香りがする。うまそうだな」
「そろそろ出来上がりますから」
 
 声をかけると、日向様は無防備に笑った。

「ああ、いただこう」
 
 そう言ってまたわたしのひたいに唇を寄せ、腕を解いた。
 
(まるで新婚みたい……)
 
 まだ結婚していないのに。
 それどころか、契約の上の関係なのに。
 ずっとここで暮らしていけるのだと錯覚してしまいそうだ。

 わたしは火照った頬を感じながら、火を止め椀におじやを掬った。

 朝食を食べ終えたあと、日向様はしみじみと言った。

「休みってのはいいな。時間を気にせずに、初音といられる」
 
 食後のほうじ茶をすすりながら、彼が笑みを口元にたたえる。わたしもほうじ茶を飲みながら、今日の予定を尋ねる。
 
「一日、ゆっくりなさいますか? お昼の準備はしておりますが」
「そうだな……ああ、俺の秘密基地をまだ見せていなかったな」
 
 にやりと笑った彼に、わたしは首をひねる。

「地下にプライベートジムがあるんだ。最近、体を動かしていないから汗を流したい。一緒にやるか?」
「ご一緒します」
 
 秘密基地。その響きだけで、わくわくする。

「決まりだな。ジャージは持っているか?」
「あ……ないです」
 
 運動着まで揃えていなかった。

「じゃあ、俺のを貸す」
「ありがとう存じます」
 
 ぺこりと頭を下げ、わたしはシャツとスウェットを借りた。
 ところが白いシャツは大きすぎてお尻がすっぽりと隠れてしまう。スウェットのハーフパンツはだぼだぼで、すぐに床へ落ちてきてしまう。
 
(どうしようっ!)
 
 まさか白いシャツ一枚で出るわけにいかない。焦ったわたしは浴衣の紐をスウェットに巻きつけた。だぼっとしている格好になってしまったが、わたしは着替えて彼の前に出た。

「お待たせしました!」
 
 日向様はわたしを見て目を丸くする。やっぱり、ダボダボすぎた?

「サイズが大きくて」
 
 しどろもどろで言い訳すると、彼はじっとわたしを見てボソっとつぶやいた。

「想像以上に可愛すぎるな……」
「え?」
「その格好、他のやつには見せるなよ。襲われる」
「え⁉」
「冗談じゃないからな。初音は無自覚に可愛さをまき散らす」
 
 真剣に言われて、ぽかんとしてしまった。

「まあ、俺しか見ないからいいか。さて、我が秘密基地はこちらです」
 
 そう言って、彼に地下室を案内された。

「わあ……」
 
 プライベートジムは圧巻の広さだった。壁の二面がボルダリングウォールになっていて、それも一部は崖のように天井に向けて傾斜が付いている。床には落ちても安全なようマットが敷かれていた。他にもランニングマシンやダーツの的がある。

「初音はボルダリングをやったことがあるか?」
「いいえ」
「なら、やってみるといい。きっと、楽しい」

 わたしがこくんと頷くと、彼は丁寧に教えてくれる。準備体操をして、わたしはボルダリングに挑んだ。最初に手で突起物を掴み、右足をかける。この時点でもうぐらぐらだった。なんとか左足をかけてみたけれど――。

「っ!」
 
 バランスが取れずに足が滑った。

(――落ちる!)
 
 そう思ったけど、固い体に包み込まれた。はっとして見上げると、彼が受け止めてくれていた。

「大丈夫か?」
「え、ええ……難しいですね」
「最初はな。慣れれば、すぐできる。見てろ」
 
 彼はわたしを後方に下がらせると、器用にボルダリングを上りはじめた。

「ここに足をかけると上りやすい」
 
 丁寧に解説してくれるけど、するすると上っていく姿に見惚れた。彼は天井にある突起を掴み、懸垂をした。

「慣れればここまで登れる」
 
 そう言って、ぱっと手を離してしまった。マットの上に綺麗に着地した姿を見て、夢の出来事が脳裏をよぎる。

 
 ――まあ、景虎! そんなに壁を上れるの? 落ちないの……?
 ――姫様、安心してください。ほら、この通り。
 ――すごいわ! これが忍者の修行の成果なのね!

 夢と現実の境目が、一瞬だけ曖昧になった。
 
「初音?」
 
 日向様に呼ばれ、ハッと意識を戻す。わたしの頬に手を添えて、心配そうに覗き込まれていた。

「びっくりしすぎたか?」
「あ、いえ……あまりに上手だったので」
 
 一瞬、日向様が景虎に見えてしまった――。
 妙な罪悪感を抱きながら、わたしはあいまいに微笑む。

「普段から鍛えているからな。小学生の頃からボルダリングはやっていたんだ」
「まあ、そんなに前から」
「壁を登るのが妙に好きでな」
「かっこいいです」
「惚れ直したか?」
「え、あ、……はい」

 素直に頷くと、また幸せそうに微笑まれた。
 その笑みを見て、胸に罪悪感が広がる。
 わたしが彼に惹かれるのは、雅姫の影響なのだろうか。

 その後、彼と一緒にボルダリングをやって気づけば、お昼の時間が迫っていた。

「あ。そろそろ昼ごはんの準備をしてきます」
「そっか。俺はもう少し動いてる。体がなまってしかたない」
 
 肩を回しながらそう言う彼に笑顔を向け、バランスボールから立ち上がる。

「わかりました」
 
 彼は次にダーツをするようだ。部屋を出る前、集中した横顔が目に入った。狙いを定める姿にドキリとする。

 ダーツが的の中心に刺さり、それを喜ぶわけでもなくまた次の一打を放つ。狙いすました姿が、景虎にますます似ている。
 
 一心に見てしまい、胸の奥で雅姫が笑っているような気がした。
 
(まただ……)
 
 ざわめく胸を抑えて、わたしはキッチンへ向かった。
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